四 対決
(なんという妖異の数だ。これほどの妖異を眼前に迎えるのは……それこそ、あの夜以来のこととなろう)
あの夜――葵が父親を失うことになった、忘れ難き一夜のことである。
あの夜も、葵は父親と二人きりで妖異に取り囲まれていた。
そして父親は力及ばず、その地で生命を散らすことになり――葵はひとり、ぶざまに逃げ戻ることになったのだった。
(……私は二度と、妖異に背は向けん。父上の名にかけて、降魔師としての使命を全うするのだ)
葵は錫杖の仕込み刀を握りしめ、周囲の妖異どもを見回した。
楓丸の暮らす草庵の前は広場のようにぽっかりと開けており、それを取り囲む形で丈の高い樹林が生えのびている。妖異どもは、いずれもその樹林の陰で鬼火のように青白い眼光を瞬かせているのだった。
すでに日は没して黄昏刻となっているので、あたりは紫色の薄暮に包まれている。そこに無数の眼光が瞬くさまは、川辺の蛍さながらであったが――そんな典雅な趣とは無縁で、ただただ妖異の織り成す怨念だけが腐臭のように満ちみちていた。
樹林の陰に覗くのは、いずれもおぞましい牛鬼の異形だ。
幼子のような矮躯のものから、牛のような図体のものまで、大きさはさまざまである。たった一体の牛鬼にああまでいいように蹂躙された葵としては、とうてい平静でいられない心地だった。
「……林の中には踏み込むなよ、葵。あちらはもう、あやつらが巣を張り巡らせているはずだからな」
その内の激情を懸命にこらえているような声音で、楓丸がそのように言い放った。
「それにとにかく、木のそばには近づくな。あやつらは見た目に寄らず身軽であるので、頭上を取られるのは危ういことだ。それならば、平らな場所で四方を囲まれたほうが、まだ面倒も少なかろう」
「…………」
「まずは、草っぱらの真ん中を取るぞ。……走れ!」
楓丸が、弾かれたような勢いで走り始めた。
葵は半瞬だけ迷ってから、その後を追う。楓丸は得体の知れない存在であったが、牛鬼を憎む気持ちに偽りがないという一点は信ずることができた。
円く開いた草原の中央を取った葵と楓丸は、申し合わせたように背中合わせとなる。
するとついに、樹林の牛鬼どもが這い出してきた。
数も知れない巨大な蜘蛛の如き妖異が、八本の脚を蠢かしてわらわらと攻め寄ってくる。悪しき夢の如き情景である。
「牛鬼は、でかいほうが動きが素早い。惑わされるなよ、葵」
「……気安く人の名を呼ぶな、半妖め」
葵がそのように応じたとき、矮躯の牛鬼が躍りかかってきた。
それも、五体同時である。
葵は裂帛の気合をほとばしらせ、その手の仕込み刀を旋回させた。
青黒い体液が虚空に飛沫き、牛鬼の矮躯が次々に塵と化していく。
葵の振るう仕込み刀は通常の刀よりもだいぶん細かったが、これもまた嵬空山にて創案された降魔の杖刀なる武具であるのだ。鋼の強靭さと革鞭の如きしなやかさをあわせ持つその刀身は、岩に叩きつけても折れることなく、剃刀の如き切れ味を有していた。
葵は縦横に杖刀を振るい、牛鬼どもを斬り伏せていく。
こめかみや背中の疼きなど、もはや念頭から消えていた。七つの頃から降魔師としての鍛錬を始めた葵は、持てる力のすべてを絞って、憎き妖異を退けてみせた。
と――葵の視界の端に、ふわりと白い影が瞬く。
眼前に迫った牛鬼を叩き斬ってから、葵はとっさに左腕で顔を守った。
その手首に、薄ぼんやりとした白い糸の束が絡みつく。
横合いからにじり寄ってきた巨躯の牛鬼が、蜘蛛の糸を放ってきたのだ。
葵はすぐさま杖刀を振るったが、その斬撃は白い糸に弾かれてしまう。
葵は鋭く、「ちッ」と舌を打った。
降魔刀であれば、この忌まわしき糸を断ち切ることもかなう。
しかし葵は、いまだ降魔刀を振るえるだけの力を取り戻していなかった。未熟者の葵は総身に力が満ちていない限り、調伏の刃を顕現させることも難しかったのだった。
(しかしこの場には、私を叩きつけられるような樹木も存在しない)
葵は左腕を封じられたまま、あちこちから飛来する矮躯の牛鬼を斬り伏せてみせた。
糸の主たる巨躯の牛鬼は聞き苦しいわめき声とともに、毛むくじゃらの脚を振りかざす。それと同時に、葵の身は黄昏の天空へと舞い上げられていた。
このまま地面に叩きつけられれば、骨の二、三本もへし折られてしまうことになろう。
しかし葵は、草庵の屋根よりも高い位置まで浮遊しながら、羅刹の如き笑みを浮かべていた。
(所詮は、妖異の浅知恵よ!)
葵は左の指先で手首のあたりにたるんだ糸の束をひっつかみ、それをぐいと引き寄せた。
落下を始めていた葵の身は、さらなる勢いで地表に迫る。
ただその先に、牛鬼の巨躯があった。
葵が自身で糸の束を引いたたために、そちらの方向に引き寄せられたのだ。
葵は、渾身の力で杖刀を振り下ろした。
牛鬼は丸太のごとき脚を交差させて、頭を守っている。
その脚ごと、葵は牛鬼の頭を叩き割った。
その斬撃で落下の勢いを相殺し、宙でくるりととんぼを切ってから、地に降り立つ。
手首に巻きついた糸の束は、その主たる牛鬼もろとも黒い塵と化していた。
「ほう。まるで曲芸師のようだな。麓の村落で、ひとたびだけ見かけたことがあるぞ」
すかさず葵の背に寄ってきた楓丸が、笑いを含んだ声でそのように言いたてた。
「ともあれ、さすがは降魔師だ。油断さえしなければ、このような木っ端どもに後れを取ることもないようだな」
「抜かせ、半妖。……牛鬼の主は、何処であるのだ? お前は先刻、主が来たと申していたはずであるぞ」
「あやつは林の中で、じっと身をひそめている。おれたちの力が尽きるのを待ちかまえているのだろう。そういう姑息なやつであるのだ」
「ならばすべての分かれ身を叩き斬り、この場に引きずり出してくれよう」
あとはもう、一方的な殺戮の刻限であった。
降魔師たる葵は言うに及ばず、楓丸も獅子奮迅の働きである。その手が振るうのは古びた木剣一本であるのだが、人外の膂力で振るわれるそれは、鉄の杭を植えた金砕棒のように牛鬼の頭を砕き、首を引きちぎり、その穢れた生命を塵と化していった。
修行を積んだ葵とは異なり、楓丸の所作は野生の獣そのものである。ただ楓丸は如何なる獣よりも俊敏で、剛力を秘めた存在であった。たとえ相手が牛のような巨躯であっても、八本の脚をかいくぐって懐に入り込み、狼が咽喉笛に喰らいつくにも似た獰猛さで、牛鬼どもをなぎ倒していく。自らの戦いに没頭しながら、時おり垣間見える楓丸の戦いっぷりに、葵は内心で舌を巻いていた。
(まさに、人外……これは決して、人間にあらぬ。やはりこやつは、人ならざる妖異であるのだ)
葵は、そのように確信していた。
数々の妖異と相対してきた葵の目は、楓丸の纏った恐ろしいまでの妖気をはっきりと見て取っていたのだった。
この場に押し寄せたどの妖異よりも、楓丸は遥かに甚大な妖力を有している。
葵には十分な難敵である巨躯の牛鬼すら、楓丸の前では鼠のようにちっぽけに見えてしまうのだ。
ただ――葵の胸には、覚えのない情感も生じていた。
これほど甚大なる力を持つ楓丸が、ふと痛ましく思えてしまうのである。
楓丸は真紅の妖気を纏っていたが、それはまるで地獄の業火に包まれているかのようだった。
牛鬼を叩き伏せ、蹴り倒し、殴り殺すその姿までもが、たとえようもない苦悶に身をよじっているように見えてしまう。
楓丸はまるで赦しを乞うように、妖異どもを殺戮していた。
(だが……妖異に情けをかけることはできん。この牛鬼どもを退けたのちは、私がこやつを斬り伏せるのだ)
そんな思いを呑み込んで、葵もまた討滅の刃を振るい続けた。
それから、どれだけの時間が過ぎたのか――気づけば、襲撃の手が止められていた。
まだ何体かは、矮躯の牛鬼が残されている。しかしそれらは樹林を出たところでうずくまり、葵と楓丸を遠巻きに眺めているばかりであった。
それを幸いとばかりに、葵は息を整える。
その秀麗なる面は水をかぶったように汗で濡れ、杖刀を構えた手は細かく震えている。僧衣に包まれた胸もとは激しく上下して、可憐な唇からはふいごのように荒い息が吐き出されていた。
「頃合いだな。……来るぞ」
こちらは息も乱していない楓丸が、木剣を両手で握りなおす。
その灼炎じみた眼光の先で、樹林が大きく揺れていた。
めきめきと、何本かの樹木が押し倒される。それほどに巨大な何かが、樹林から這い出してこようとしているのだ。
「あれが……牛鬼の主か」
葵は驚愕の思いをねじ伏せて、懸命に言葉を振り絞った。
その間に、牛鬼の主は樹林を抜け出して、その禍々しき全容をあらわにしている。
牛鬼の主は、途方もなく大きかった。
つい先刻まで葵を苦しめていた牛鬼どもが、童児に思えるほどである。
楓丸が暮らしていた草庵よりも、なお大きいぐらいであろう。そやつは地面に身を伏せているにも拘わらず、大の男が肩車をしたよりも高さがあり、両腕を広げたよりも身幅があった。その青白く燃えあがる眼は葵の頭よりも大きく、口を開けば人間をひと呑みにできそうなほどであった。
しかもそこに、身幅よりも長い八本の脚が生えているのである。
脚にも顔貌にも胴体にも針金のような獣毛がまばらに生えており、その下には腐肉のように赤らんだ皮膚が覗いている。こめかみからのびる二本の角は人間の足よりも太く、脚の先には一本ずつの巨大な鉤爪が生えていた。
「あやつはとりわけ、すばしっこいからな。油断するなよ、葵」
真紅の妖気を纏いつつ、楓丸は何でもないように言った。
それに答えかけた葵は、途中で愕然と息を呑む。
目の前から、牛鬼の巨躯がかき消えたのだ。
それと同時に、葵の身は横合いに吹き飛ばされていた。
いや、それは、かたわらにいた楓丸が、葵の身を抱きかかえるようにして跳びすさったのだった。
これまで両名が佇んでいた場所に、牛鬼の巨躯がどすんと落ちる。
牛鬼は横合いに逃げた葵たちのほうに首をねじ曲げながら、雷鳴の如き咆哮をほとばしらせた。
「気を抜くと、死ぬぞ。あやつはすばしっこいと言い置いたろうが?」
楓丸の声は、いまだに平静さを失っていない。ただ、母親の仇敵を前にして、炎のような激情をたぎらせている。
そして、楓丸の左腕が、葵の脇腹を抱え込んでいた。
その腕は、それこそ炎そのもののように熱く――触れられているだけで、葵の身までもが業火に焼かれてしまいそうだった。
「お前はずいぶん力尽きてしまったようだな、葵よ。だから、魚を食っておけと言ったのだ」
「ざ、戯れ言を抜かしている場合か。……とにかく、その手を離せ」
葵は楓丸のもとから身をもぎ離し、何とか杖刀を構えてみせた。
「あれほど巨大な妖異を相手取るのは、私にしても初めてのこととなる。いったい如何なる手で仕留めようというのだ?」
「それは、こちらが聞きたかったところだ。あやつはどうすればくたばるのだろう?」
「それは……たとえかりそめであろうとも、その生命は肉に宿されているのだから……人や獣と同じように、頭さえ潰せば討滅できるはずだが……」
「頭を潰すか。相分かった」
楓丸が、再び地を蹴った。
真っ直ぐに、牛鬼のもとを目指している。信じ難いほどの蛮勇である。
牛鬼は喜悦とも憤怒ともつかぬ雄叫びをあげながら、長大なる脚を振りかざす。
それを髪ひと筋で避けてから、楓丸は宙を飛んだ。
牛鬼の巨大な顔貌に、木剣が振り下ろされる。その切っ先は見事、牛鬼の右目を粉砕したが――それと同時に、逆側から振るわれた脚の鉤爪が、楓丸の細い腰を薙いでいた。
赤い血の尾を引きながら、楓丸の小さな体躯は地面に叩きつけられる。
が、楓丸は何の痛痒を覚えた様子もなく起き上がり、追撃の鉤爪を瀬戸際でかわしていた。
怪物と怪物の、一騎討ちである。
降魔刀を振るう力もない葵には、もはや手を出すこともかなわぬ人外の戦いであった。
(ならば……)
と、葵は身を伏せて疾駆する。
残存していた矮躯の牛鬼どもが、ひたひたと押し寄せている姿を見て取ったのだ。
矮躯の牛鬼どもは、死闘を繰り広げる主と楓丸を取り囲もうとしている。間隙を突いて、楓丸を背後から襲おうという魂胆であるのだろう。
(それが、貴様らのやり口であるからな)
葵は十六の齢から一年だけ、月蓮の八葉たる父親の伏士となることを許された。
伏士とは八葉の仕事を補佐するために、力を尽くすのが役割となる。よって葵は、戦いの場で助勢の役を果たすのが常であった。
半妖の楓丸を主人と見立てるのは、あまりに不甲斐ない話であったが――それでも、手をこまねいて立ち尽くしていることはできなかった。
人外の死闘を横目に、葵は矮躯の牛鬼に忍び寄る。
その一体の首を刎ね飛ばすと、たちまち他の牛鬼どもが葵に群がってきた。
葵は疲弊しきった肉体に活を入れて、牛鬼どもを迎え撃つ。
そこに――楓丸の切迫した声が響きわたった。
「後ろだ! よけろ!」
同時に、凄まじい衝撃が葵の背中を叩いていた。
めきめきと、あばらの軋む音色が体内を駆け巡っていく。
葵の身は幼子の投じた小石のように撥ね飛ばされて、地面に落ち、砂塵をあげて転がった末に、楢の幹に激突することで動きを止めた。
牛鬼の主の巨大な脚が、葵の背中に叩きつけられたのだ。
楢の木を背にして横たわった葵は、霞んだ目で頭上を見上げた。
牛鬼の主の巨大な顔貌が、遥かな高みから葵を見下ろしている。
ぞろりと牙の生えたその口が、裂けんばかりに開かれていた。
葵の身を、その牙で噛み破ろうというのか――
いや、牛鬼の主は毒液を吐き出そうとしていたのだった。
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