三 人と妖

 ぱちぱちと、薪の火がはぜっている。

 その音色を十ほども聞いてから、葵は重い声を振り絞った。


「人間と妖異が子を生すことなど、できるはずもない。……お前は虚言を吐かぬとさんざん言いたてながら、けっきょく私をたばかろうというつもりであるのだな?」


「信じるかどうかは、お前の勝手だ。それにおれは、母から聞かされていた言葉を語っているに過ぎん。それが虚言だというのなら、俺もまた母にたばかられていたことになるな」


 取りすました顔で言いながら、楓丸は骨までしゃぶった川魚の残骸をざるのほうに放り捨てた。葵が押し黙っていた間、この豪胆なる童衆は黙々と腹を満たしていたのだ。

 そうして新たな川魚に手をのばしつつ、楓丸は葵の厳しく引き締められた面を覗き込んだ。


「それでは、話はここまでか? 話し合いではなく殺し合いを望むというのなら――おれとしては、きわめて得心がいかないのだが――そのように取り計らう他あるまい。ひとりで話し合うことはできんので、それを決めるのはお前だ、葵よ」


「……まずは、すべてを語ってみせよ。そののちに、お前を斬る」


「そうか。それなら、得心がいくぞ」


 楓丸は、よく日に焼けた顔に屈託のない笑みを浮かべた。野兎が笑えばこのような顔であろうかという、あまりに無垢なる笑顔である。

 その笑顔を親の仇のように睨み据えつつ、葵は錫杖の柄をしごいた。


「では、語れ。それらの魚を食べ終えるまでは、刀を抜かずにおいてやる」


「うむ。お前もさっさと喰らうがいいぞ。母もそれほど多くの言葉は残してくれなかったのでな。うかうかしていると、食べる時間を逃してしまおう」


 あくまでも悠然たる様相で、楓丸はそのように言葉を重ねた。


「おれはずっと、父親が妖異であるのだと聞かされていた。それが何処の地に巣食う妖異であるのかは、わからん。母はおれの存在をひた隠しにしながら、山菜や川魚などを人里で売りさばき、おれを十まで育ててくれたのだ。この世の道理や妖異について教えてくれたのも、すべて母だ。人間と妖異は相容れぬ存在であるから、決して父について語ってはならぬ、と……母は毎夜のように、そう繰り返していた。では何故、母は妖異と子を生したのか――それは、決して教えてくれなかった。教えてくれないまま、母はこの山の妖異に喰い殺されてしまったのだ」


「…………」


「母を失ったおれは、母を真似て生きることになった。頭巾で頭さえ隠してしまえば、そうそう恐れられることもなかったからな。そうして人里に下りたおれは、母の教えが正しかったことを思い知らされた。人間は、誰もが妖異を恐れている。おれが妖異の子と知れれば、どんな人間でも逃げるか襲いかかってくるかのどちらかだろう。だからおれは母との誓い通りに口をつぐんで、三年ばかりを生きてきた。山で妖異と殺し合いながら、時おり人里で川魚や山菜を売りさばくという、実に面白みのない日々だったな。まあ、妖異の子でもあるおれはできるだけ人と交わらずに生きていくべきなのだろうから、こればかりは致し方ないのだろう」


 楓丸は川魚の骨をざるに投げ入れて、最後の一尾に手をかけた。


「あとは、何について語ればよいかな?」


「……お前の妖異の力について、聞かせてもらおう」


「妖異の力か。あれは、勝手に湧き出てくるものだ。妖異の気配を感じ取ると、おれはどうしようもなく心臓が騒いでしまう。母を失った怒りと無念が、胸の中にあふれかえって……総身の血が燃えたつような心地になるのだ。そうすると、妖異にも負けない力があふれかえってくる。そして、目の前の妖異を殺さずにはいられなくなってしまうわけだな」


「…………」


「この三年ほどでどれだけの妖異を退治してきたのか、数えあげることは難しい。あやつらは本当に、羽虫の如くに湧いて出るからな。あちらはあちらでおれのことを放っておけないらしく、どれだけ殺しても二日と空けずに襲いかかってくる。いずれも八本脚をした、蜘蛛のような醜い妖異だ。あやつらは時おり人里も騒がせているようで、麓の連中もたいそう怯えてしまっていた。おれは自分の身を守り、母の仇討ちをしているだけの気持ちだったが、少しは人様の役に立っているのかなと、そんな心持ちで三年ほどの月日を過ごすことがかなったな」


 そうして楓丸は、骨と化した川魚を三たびざるのほうに放り捨てた。


「うむ。ちょうど食べ終えたぞ。……では、判じてもらおう。おれはやはり、妖異の子として殺されるべきなのだろうか?」


「……お前の言葉が真実であっても虚言であっても、その身に妖異の力を宿した存在を捨て置くわけにはいかん」


「やはり、そういうことになるのか。……ううむ、無念だな」


 楓丸は隙間だらけの屋根を仰いで、深々と嘆息をこぼした。

 葵はその手に握らされていた川魚の串を灰の山に突き立て、そろそろと片方の膝を立てていく。


「では、存分に殺し合うこととするか、楓丸よ」


「いや、殺し合いにはならん。お前がおれを退治して、それでおしまいだ」


「なに? あらがわずに、その首を差し出そうというのか?」


「うむ。おれは妖異ではなく、人の子として死にたいと願っているからな」


 楓丸は屋根に向けていた顔を下ろし、ひどく透き通った眼差しで葵を見つめた。


「お前は妖異を討滅するために修行を積んだ、降魔師であるのだろう? それにあらがってお前を殺せば、おれはまぎれもなく妖異となってしまおう。そんなのは御免なので、お前にあらがうことはできん」


「ならば……何故につらつらと言葉を重ねていたのだ?」


「だからそれは、得心したかったからだ。妖異について誰よりもつぶさに知っているであろう降魔師が、おれを殺すべきと判じたならば、得心がいく。おれなどはしょせん山野の育ちで、人間のことも妖異のことも大してわきまえてはいない。少なくとも、そんなおれよりはお前のほうが正しい道を判じられるはずだ」


 そう言って、楓丸はまた無垢なる笑みを広げた。


「おれはすべてを語ったし、お前はそれを聞き届けた上で、おれを殺すべきと判じた。ならば、これでおしまいだ。首を刎ねるなり心臓を貫くなり、お前の好きにするといい。おれは決して、あらがわない」


「お前は、それで……本当に得心できるというのか?」


 葵はむしろ、困惑の面持ちになっていた。

 それを見返しながら、楓丸は「ふむ?」と小首を傾げる。


「それはもちろん、おれとて死ぬことを嬉しく思うわけがない。ただ、人間としてこの世の道理に従いたいだけだ。妖異というのはおれにとって、母の仇であるわけだからな。浅ましい妖異となってまで、生き永らえたいとは思わん」


「…………」


「無念であるかと問われれば、無念で無念でたまらぬよ。おれはもっと生きたかったし、かなうことなら、外の世界というものも見てみたかった。きっと外には、お前のように愉快な人間もたくさんいるのだろうしな。最後に言葉を交わすのがお前のような人間であったことを、おれは嬉しく思っているぞ」


 そうして無邪気な笑みを振りまいてから、楓丸はふいに「あっ」と目を見開いた。


「待て待て、待ってくれ。おれを殺す前に、ひとつだけ聞いておきたいことがある。おれが無念を抱えて死んだならば、それもこの山の妖異どもの糧になってしまうのだろうか?」


「……妖異がどのようにして人の悪念をおのが妖力としているかは、いまだ詳らかにされておらん。ただ明らかであるのは、あやつらが無念や怨念を糧とするために、襲った人間をなぶり殺しにするという所業のみだ」


「では、妖異に殺されるのでなければ、無念や怨念を糧にされることもないかもしれんのだな。ならば、よかった。母の仇たる妖異どもに力を添えるようなことになっては、さすがに死んでも死にきれんからな」


 楓丸は安堵の息をつき、また澄みわたった眼で葵を見つめた。


「あやつらは、牛鬼という妖異であるのだな? 母を喰らった牛鬼めはこの手で殴り殺してくれたが、あれから三年が過ぎた今もなお、同じような姿をした妖異どもがわらわらと湧いて出てきている。いずれ、根はひとつの存在であるのだろう?」


「……力を持った妖異というものは、おのが分かれ身を生み出して、より大きな災厄をもたらすものであるのだ。お前がさきほど討滅した妖異が牛鬼の主であったなら、すべての分かれ身も消え果てて、この地にはしばらくの安息がもたらされよう」


「そうか。妖異というのは、そういう仕組みであったのか。どうりで殺しても殺しても数が減らないわけだ。……ならば、牛鬼の主はいまだに生き永らえている。一番図体の大きな牛鬼だけは、何度やりあっても仕留めることができなかったのだ」


「なに?」と、葵は秀麗な眉をひそめた。


「あれほどの妖力を持った牛鬼すら、分かれ身に過ぎぬと抜かすつもりか? まさか、それほどの力を持つ妖異がそうそう現れるわけが……」


「これは風聞だが、三年ほど前に山向こうの村落が飢饉で滅んでしまったらしい。そのせいであのような妖異が生じてしまったのではないかと、近在の連中はそのように言いたてていたな」


 葵は、慄然と身をすくめることになった。村落の人間が丸ごと滅んで、この世に怨念を遺したのだとするならば――それは、とてつもない妖異を生み出してしまうはずだった。


「葵よ。お前であれば、牛鬼の主を退治できるのか? おれのような半端者に、こんな言葉を口にする資格はないのかもしれんが……お前が母の仇を討ってくれるならば、おれは心よりありがたく思うぞ」


 葵は錫杖を握りしめたまま、ぎりっと奥歯を噛み鳴らした。


「そのような妖異がこの山に潜んでいるというのなら……決して捨て置くことはできん」


「そうか。やはりお前と出会えたのは、何かの天啓であったのかもしれん。無念で無念でたまらぬが、お前と出会えたことだけは嬉しく思うぞ」


 そうして楓丸は敷物の上で膝をそろえると、その純真なるきらめきをたたえた黒眸をまぶたの裏に隠した。


「では、やってくれ。……お前が妖異に敗れることなく、この先も健やかに生きていけるように祈っている」


 葵は固く口を引き結んだまま、錫杖の仕込み刀を引き抜いた。

 研ぎ澄まされた細身の刀身が、薄闇の中であやしくきらめく。


 楓丸は、泰然とした面持ちで座している。

 どこからどう見ても、ただ赤い髪をしているだけの童衆である。

 葵は苦痛をこらえるように眉を寄せて、ことさらゆっくりと刀を振りかぶり――


 その刹那、杖頭の遊環がしゃくしゃくと鳴り始めた。

 それと同時に、楓丸ががばりと身を起こす。


「待て。妖異が現れた。しかも、これは――牛鬼の主だ」


 葵は愕然と、楓丸の姿を仰ぎ見た。

 先刻まであれほど明るく澄みわたっていた楓丸の双眸が、血の如き真紅に変じて赫怒の炎を噴きあげている。

 そしてその小柄な体躯も、目に見えぬ業火に包まれているかのようだった。


「すまんが、おれを退治するのは後回しにしてくれ! どうせ生命を散らすならば、母の仇を道連れにしたく思う!」


「ま、待て、楓丸――!」


 葵の声など聞かばこそ、楓丸はけだものじみた身のこなしで草庵を飛び出していた。

 おっとり刀という言葉そのままに、それを追いかけた葵は――外界に足を踏み出すなり、立ちすくむ。紫色の薄暮に包まれた山中には、無数とも思えるほどの妖異が待ちかまえていたのだった。


「ふん。もしやこやつらは、ひさびさに山中へと踏み入ってきた葵を狙っているのやもしれんな。これほどの数を相手取るのは、おれにしても初めてのことだ」


 激情を孕んだ楓丸の声が、地を這うように響きわたる。

 こうして立ち並ぶと、楓丸は葵よりも頭半分以上も小さかったが――その小さな体躯からは、禍々しいほどの妖気があふれかえっていた。


 双眸は、灼炎のように燃えている。

 日に焼けた顔に浮かべられているのは、飢えた野獣のごとき形相だ。

 楓丸はその手の木剣を振りかざし、野獣そのものの顔で笑った。


「礼を言うぞ、葵。やはりお前との出会いは、おれにとって天啓であったのかもしれん。お前のもたらしてくれた契機を無駄にせず、おれは母の仇を討ってみせよう」


 葵は無言のまま、自らも刀を振りかざした。

 いまだ日中に負った傷は頭と背中を疼かせているが、それしきのことで怯んではいられない。葵は妖異を討滅するためだけに生きる、嵬空山の降魔師であったのだ。

 そうして人と魔の境も曖昧になるという黄昏刻の薄闇の中、葵と楓丸は無数の妖異と雌雄を決する段に至ったのだった。

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