二 邂逅

 妖異との死闘で傷ついた僧形の娘は、薄暗い草庵で目を覚ますことになった。

 まぶたを開くなり、娘は愕然と身を起こす。すると背後から気安く声をかけるものがあった。


「そのように暴れると、頭の傷が開いてしまうぞ。もうしばし身を休めておくがいい」


 娘は尻尾を踏まれた山猫の如き所作で、背後に向きなおる。

 そこには、平たいざるを抱えた童衆が立ち尽くしていた。


「ちょうど今、食うものの支度をしていたところだ。これから山を下りようとしても途中で日が落ちてしまうだろうから、よければここで夜を明かしていけ」


 謎なる童衆は娘の剣幕を訝しむ様子もなく、草庵の真ん中へと歩を進めた。

 娘は鋭く周囲を見回し、自分の手もとに転がされていた錫杖をつかみ取る。

 その姿を見て、童衆は不思議そうに首を傾げた。


「おれを殺すのか? 危ういところを救ってやったのに、恩を知らぬやつであるのだな」


「黙れ、妖異め……そのように人間の姿を取ろうとも、私は騙されぬぞ!」


「そうか。それは慧眼だな」


 童衆は敷物の上にざるを下ろすと、そのかたわらにあぐらをかいた。ざるにのせられているのは、銀色の鱗を持つ川魚の山である。


「しかしおれも、黙って生命を差し出すつもりはない。よければ、話をさせてもらえないだろうか?」


「話? 妖異と交わす言葉なぞない!」


「おかしなことを言うやつだ。お前は今もそうして、おれと語らっているではないか」


 娘はそこで、奇異なる事実に思い至った。娘の手にした錫杖が、遊環を鳴らすことなく静まりかえっているのだ。

 たとえ妖異が人間に化けようとも、この錫杖の目を眩ますことはかなわない。娘はたちまち、大きな混乱に見舞われることになった。


「お前は……いったい何なのだ? お前は、妖異であるはずだ」


「そうそう。そうやって、言葉を交わしてほしく思うのだ。おれとて、せっかく救った相手といさかいを起こしたくはないからな」


 そう言って、童衆は白い歯をこぼした。

 その屈託のない笑みに、娘はますます混乱してしまう。


「まずは、名乗らせてもらおう。おれは、楓丸かえでまるという。この山で暮らす、まあ山人のようなものだ」


「山人……あくまで、人と言い張るつもりか?」


「そうでなくては、話が進まん。妖異と語る言葉は持っておらぬのだろう?」


 娘は桜色の唇を噛み、用心深く片方の膝を立てたまま、敷物の上から降魔刀の柄も拾いあげた。そこには娘の武具ばかりでなく、地面に打ち捨てた網代笠や行李までもが丁寧に並べられていたのだった。


 二人が向かい合っているのは、破れ草庵の内である。隙間だらけの草葺の屋根からは赤みを帯びた夕暮れ刻の陽光が差し込んで、むしろの上に座した二人の姿と粗雑なつくりをした囲炉裏を薄明るく照らし出している。


 娘はじっと押し黙ったまま、向かいに座した者――楓丸の姿をねめつける。

 それは、奇妙な風体をした童衆であった。

 年の頃は、十二か十三といったところであろうか。まるで南蛮の血でも入っているかのように真っ赤な髪をしており、その身に纏っているのは小豆色をした粗服だ。体躯は小さくてほっそりしているが、如何にも山野の育ちといった態で、若鹿のように溌剌とした生命力に満ちている。なかなか愛嬌のある顔立ちで、野兎のようにきょろんと大きな目をしており、いかにも純朴そうな心緒が表情にあらわれていた。


 それに、赤い蓬髪の隙間から覗く瞳は、黒い。

 娘が気を失う前に見たときは、確かに赤い双眸をして、凄まじい妖気を放っていたはずであるのに――その大きな瞳もまた、野兎のように無垢なる光をたたえていた。


(あれは……夢か何かであったのだろうか)


 錫杖と降魔刀の柄を握りしめたまま、娘は沈思する。

 すると、楓丸はまた不思議そうに首を傾げた。


「どうした? やはり、おれと語る言葉は持っていないのか? であれば、おれは残念に思うぞ」


「…………」


「それに、お前は名乗りもしないのだな。恩を着せるわけではないが、殺し合うにせよ話し合うにせよ、相手の名前ぐらいは知っておきたいものだ」


 娘は、さらに沈思した。

 傷を負った娘のこめかみには布の帯が巻かれており、その下からは止血に使うヨモギの青臭い匂いが香っている。この楓丸なる奇妙な童衆は娘から武具を奪うこともなく、わざわざ自分のねぐらに連れ帰り、傷の手当てまでしてくれたわけである。


(それに、妖異が魚などを喰らうはずがない。……これはいったい、どういうことなのだ?)


 娘は深く息をつき、ひとまず降魔刀の柄を僧衣の袖口に潜り込ませた。ただし錫杖は手放さず、そろえなおした膝の上でぎゅっと握りなおす。


「私は、お前の正体を知らねばならん。そのためには、言葉を交わすしかなかろう」


「うむうむ。それはありがたい。ではまず、名はなんというのだ?」


「……名は、あおい。嵬空山にて修行を積んだ、降魔師となる」


「降魔師?」と、楓丸は野兎のような目をいっそう丸くした。


「それなら、聞き覚えがあるぞ。妖異を滅ぼすために自らの身命を捧げる、奇特な人間の集まりというやつだな」


「……まさしく、その降魔師だ。この山には妖異が巣食うという風聞を耳にして、足を踏み入れることになった。それで、山中に村人たちの骸を見つけ――」


「そこでたまさか、おれと出くわしたというわけだな。なるほど、得心がいった。では、さきほど仕舞い込んだ刀身のない刀も、妖異を退治するための武具であるのか?」


「これなるは、嵬空山にて創案されし降魔刀だ。それを振るう人間の魂を生命の火によって鍛えあげ、調伏の刃と成す。如何なる妖異でも、降魔刀の前では塵と化そう」


「ふむ」と、楓丸は小さな鼻の頭をかいた。


「しかしお前は、さきほどの妖異にずいぶんと手こずらされていた。どれほど強力な武具であっても、結局は扱う人間次第というわけか」


「……私を愚弄しようというのだな」


「愚弄するつもりはない。お前はものすごく強そうなのに、ずいぶん弱っているようだからな。察するに、この山に足を踏み入れる前から、何かしらの理由でくたびれ果てていたのではないか?」


 娘――葵は、ぐっと言葉を詰まらせた。確かにこのひと月ほど、葵は休む間もなく討滅の使命を果たしていたので、ぬぐいがたい疲弊が澱のように溜まってしまっていたのだ。

 しかし、このように得体の知れない相手に弱みを見せるわけにもいかず、葵は虚勢を張ることになった。


「この降魔刀は、まだ私の身に馴染んでいないというだけだ。これは……父の形見であるからな」


「ほう。お前の父も、降魔師であったのか?」


「そうだ。そして、妖異に殺められた。父ばかりでなく、母も弟も妹もな」


 葵の瞳に、憤激の炎が燃えあがった。


「私が幼き頃に、他の家族たちは妖異に殺められた。それで私は父とともに、嵬空山に入ったのだ。そちらで幾年にもわたる修行を積んで、父は月蓮げつれん八葉はちように選ばれるほどの力を手に入れたが……それでも力及ばずに、生命を散らすことになった。私はそんな父のぶんまで、討滅の使命を果たし続けると誓ったのだ」


「なるほど。お前は、立派な人間であるのだな」


 葵は奥歯を軋らせながら、錫杖の先を楓丸に突きつけた。


「次は、お前の番だ。決して虚言は許さぬぞ」


「そのようにいきり立たずとも、虚言を吐くつもりなどない。……ただ、腹が減ってしまったので、食うものの準備をさせてもらうぞ」


 楓丸は木の串に刺した川魚を四尾ほど囲炉裏の内に突き立てて、中央の薪に火を灯した。

 それから、「さて」と赤い蓬髪をかき回す。


「いったい何処から話したものか……何せ、自分語りなどをするのは初めてのことなのでな」


「なんでもよい。順を追って、すべてをつまびらかにするがよい」


「順を追ってか。……おれは物心ついた頃から、この山で母親と暮らしていた。だがある日、突如として妖異が現れて、おれの母親を喰い殺してしまったのだ」


 ぱちぱちとはぜる赤い火を見つめながら、楓丸はそう言った。


「あれはおそらく……三年ほど前のことであったのかな。とても寒い、厭な気配のする冬の夜だった。母親は山菜や川魚を売りさばくために、山麓の村まで下りていて……あまりに帰りが遅いものだから、おれは迎えに行こうとした。その途中で、母親を喰い殺している妖異と行きあったのだ」


「……それで?」


「それでおれは、母親の仇である妖異を討ち倒した。それ以来、ずっとこの山で妖異と殺し合っている。あやつらは、殺しても殺しても湧いて出るのでキリがない。……そうして今日も妖異と殺し合っていて、逃げる妖異を追いかけていたら、あの場にたたずむお前と出くわしたということだな」


 そこで楓丸は面を上げると、邪気のかけらもない笑顔で葵を見返した。


「お前が暴れている間、おれも林の中で妖異どもとやりあっていたのだ。なかなか助勢をする隙もなかったのだが、最後の最後で間に合ったのは何よりだったな」


「……お前はさきほどの牛鬼を、如何なる手管で退治したのだ? 見たところ、刀も帯びていないようだが」


「うむ。こいつで首を刎ね飛ばしたのだ」


 楓丸は背中のほうから、古びた木剣を取り上げた。

 葵は切れ長の目をすがめつつ、楓丸の顔をじっと見据える。


「なんの修行も積んでいない人間が、そのような木剣で妖異を討滅できるわけもない。お前は、何なのだ? 答えよ、楓丸」


「そう急くな。おれは、いささか迷っているのだ」


「何を迷う? 虚言は吐かぬと申したはずだ」


「虚言は吐かぬが、隠し事をしないと言った覚えはない。……いや、死んだ母との誓いでな。おれの正体は誰にも語ってはならぬと、固く言いつけられてしまっているのだ」


「戯れ言を……」と、葵は腰を浮かせかけた。

 楓丸は飄然とした面持ちで、火に焙られている川魚の向きを変えていく。


「だから、急くなというのに。お前のような人間と相まみえることがかなったのは、何かの天啓であるのやもしれん。お前が得心のいく話を聞かせてくれれば、母との誓いを破ることもやぶさかではないぞ」


「得心? 得心とは、如何なる話だ。私は、すべて語り終えている」


「お前の身の上ではなく、妖異について聞かせてもらいたいのだ。……葵よ、妖異とは何なのだ? この世に満ちた悪念が、かりそめの肉を纏って、人間に害を為す――そのような言葉だけでは、得心がいかん。妖異はどうして、人間に害を為すのだ?」


「それは妖異が、人の世を呪っているからだ。悪念とは、人の遺した無念や怨念に他ならん。無念と怨念が肉を纏い、生ある人間に害を為す。あやつらは、生前の恨みを晴らすために冥府から舞い戻った、怨霊の如き存在であるのだ」


「よくわからんが、おれや母は余人に恨まれる覚えもない。それなのに、どうして妖異に襲われなければならんのだ?」


「たとえ怨霊の如き存在であっても、生前の思いが残されているわけではない。あやつらは、人の世を恨む怨念そのものであるのだ。人間と行きあえばなぶり殺しにして、その無念や怨念をも糧とする。とうてい赦し難き存在であろう」


 目の前の薪の火よりも激しい勢いで、葵の黒眸には怒りの火が燃えていた。

 楓丸は、「ふむ……」と考え深げに眉を寄せる。


「しかし、妖異の中には人間に化けたり、人の語を解したりするやつもいるのだろう? そやつらも、人の心を持ってはいないのか?」


「妖異が人の心など、持つはずがあるまい。たとえ人間の姿に化けようとも、しょせんは怨念の塊だ。その内には、人の世を呪う悪念しか備わっておらん」


「そうか」と、楓丸は脂のしたたる川魚を取り上げて、それを葵に差し出した。


「焼けたようだぞ。食うがいい」


「……お前の正体も判じぬ内に、施しを受けるつもりはない」


「お前はたくさんの血を失ったのだから、しっかり食わんと妖異退治の仕事も果たせんぞ。……わかった。お前がこれを食ったら、おれの正体を明かしてやろう」


 葵はいよいよ剣呑な形相となり、錫杖の柄を握りなおした。


「戯れ言を……なおも私を揶揄からかおうというのなら、この場で素っ首を叩き落とす」


「何も揶揄ってなどいない。おれは虚言を吐かぬと約束したはずだぞ。お前がこれを食ったなら、おれはすべてを語って聞かせよう」


 楓丸は顔色ひとつ変えることなく、その手の川魚を葵に突きつける。

 赤い髪から覗く黒眸は、やはり野兎のように無垢なる光をたたえていた。


 葵は暫時、その顔を睨み据え――居合の達人が刀を抜き放つような勢いで、串に刺された川魚をひったくった。

 その白皙よりも白い歯が、焼けた川魚の身を乱暴にかじり取る。


「食したぞ。約定を守れ、楓丸よ」


「うむ。おれも腹を満たしながら、語らせてもらおう」


 楓丸は別なる川魚を取り上げて、葵と同じように白い歯を立てた。


「思えば、こうして余人と食事をともにするのは、母親を失って以来のこととなる。何やら、奇妙な心地だな」


「…………」


「そのように怖い顔をせずとも、約定を破ったりはしない。……母との約定は破ってしまうことになるがな」


 楓丸はいったんまぶたを閉ざしてから、ひどく澄んだ目で葵を見つめ返した。


「では、語ろう。しかし、最後まで語り終えるまでは刀を抜かないでもらいたい。すべてを語らぬままに生命を散らしてしまったら、おれの無念が妖異の糧になってしまうやもしれんからな」


「それはつまり……私に斬られかねない内容であるということだな?」


「それを決めるのは、お前だ。降魔師ならば、その判断を誤ることもあるまい」


 楓丸は再び川魚の身をかじり取り、それを咀嚼してから、言った。


「おれは、妖異と人の間に生まれた子だ。母は人間だが、父は妖異となる。だからこの身には、妖異としての力も備わっているわけだな」

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