嵬空百鬼帖【第一部完結】

EDA

嵬空百鬼帖

牛鬼の巻

一 妖異の山

 昼なお昏き山中の獣道を、ひとり闊歩する雲水の姿があった。

 墨染の衣に網代笠あじろがさ、手には手甲てっこう、足には脚絆きゃはん、背には四角い行李こうりを負って、右手の錫杖をしゃくしゃくと鳴らす、まごうことなき旅僧の姿である。


 左右からかぶさる枝葉をかき分けて、その雲水は道なき道を毅然とした足取りで突き進んでいく。辺りには如何にも陰鬱な気配がたちこめていたが、その雲水に臆する様子は皆無であった。


 と――深い樹林がふいに途絶えて、わずかばかりの野原めいた空間が広がった。

 それと同時に、雲水はぎりっと奥歯を噛み鳴らす。

 その場所には、胸の悪くなるような血臭が満ちており――見るも無残な人間の骸が、いくつも野ざらしにされていたのであった。


 あるものは腹を大きく引き裂かれて、はらわたをごっそり抜かれている。

 あるものは総身の皮をひんむかれて、血まみれの肉をさらしている。

 あるものは首から上を失い、あるものは四肢をもがれて――そんな無惨な骸どもが、何か白く霞んだ蜘蛛の糸のようなもので、あちこちの木々に吊り下げられていたのだった。


(間に合わなかったか。……許せ)


 雲水はわずかに頭を垂れて、死者たちの安息な眠りを祈った。

 そのとき――雲水が一歩も動かぬまま、その手の錫杖がしゃくしゃくと鳴り始めた。杖頭の輪形に備えられた四組の遊環が、恐怖に打ち震えるかのように暴れ始めたのだ。


「いまだこの場に留まっておったか。身を隠そうとも詮無きことであるぞ、妖異よ」


 雲水はそのように言い捨てるや、網代笠を打ち捨てた。

 その下から現れたのは――きわめて端麗な、女人のかんばせである。


 年の頃は十七ていどで、鋭く切れ上がった目もとも凛々しく、頭の天辺でくくったぬばたまの髪を背中まで長く垂らしている。鼻梁は細く筋が通っており、小さな唇は可憐な桜の花弁を思わせて、得も言われぬほどの美しさであった。

 しかし、その口もとは厳しく引き締まり、黒い眼には熾火の如き光が宿されている。玲瓏なる白皙と相まって、それはいくさ場に臨む若武者の如き勇壮さであった。


「……ほう。お前は、女であったのか」


 どこからか、無理に感情を押し殺したような声音が響きわたった。


「このような場所を人間がうろつくというだけでも珍しいのに、まさか女とはな。……生命が惜しくば、早々に立ち去るがいいぞ。それらの村人のように、無残な死にざまをさらしたくはないだろう?」


「置け、妖異。貴様を討滅するのが、私の使命となる」


 雲水の姿をした娘はその容姿に相応しい凛然とした声音で答えつつ、背中の行李をも地面に打ち捨てた。


「しかも、人の言葉を操る妖異とは……よほどの悪念を喰らわねば、それほどの妖力を授かることはできまい。貴様に殺められたものたちの無念を、この場で晴らしてくれん」


「聞き分けのない女だな。……死ぬぞ」


 そんな声が響くと同時に、辺りの梢がざわざわと揺れ動いた。

 そこに現出したおぞましき光景に、娘はさらに眼光を燃やす。樹木に吊るされた幾体もの屍骸が、かくかくと浄瑠璃の人形の如く踊り始めたのである。


「死したあとまで、人を嬲るか! 姿を見せよ、妖異め!」


 これまでの声音とは異なる甲高い笑い声が、梢のあちこちから響きわたった。

 そして――娘の頭上から、異形の影が躍りかかる。

 それはずんぐりとした体躯に八本の脚を生やした、巨大な蜘蛛の如き妖異であった。


 丸い頭に、ぶくぶくと膨れ上がった胴と尻。その左右から四本ずつの脚を生やした、まごうことなき化け物である。その大きさは、五、六歳ていどの童児ほどもあり――しかもおぞましきことに、その顔貌までもが人間の幼子めいていた。

 ただし、本来の幼子の持つ愛らしさなど望むべくもなく、その顔は浅ましい怨念に引き歪んでいる。せり出た眉の下に光る眼は青白く鬼火のように燃え、耳まで裂けた口からは巨大な牙が覗いていた。


 娘は鋭く呼気を鳴らして、その手の錫杖を一閃させる。

 妖異は虚空で、真っ二つに寸断された。

 ねばねばとした青黒い体液が、花火のように四散する。

 しかしそれは娘の僧衣や黒髪を穢す前に、黒い塵と化して消滅した。

 二つに割られた妖異の異形も、同じように消し飛んでいる。


 妖異とは、この世に満ちた悪念がかりそめの肉を纏った、虚ろなる存在なのである。

 娘の所業に憤激したかのように、周囲の梢がわさわさと揺れていた。


「どうした、臆したか? 妖異ごときに、それほど人間がましい心緒は宿されておるまい!」


 挑むように言いながら、娘は錫杖を振り払った。

 それは、仕込み杖であったのだ。いまだ鳴りやまない杖頭から先は細い長刀の刀身が光り、左の手にはそれを収めていた筒の鞘が握られていた。


 娘が鞘を打ち捨てたところに、新たな影が飛び掛かる。

 その影も、旋風の如き斬撃によって首を刎ねられ、塵と化した。


 恐れを知らぬ妖異どもも、これではならじと判じたか、此度は四方から飛来する。いずれも八本の脚を生やした、異形の影だ。

 妖異どものおぞましき異形にいっかな心を揺らした様子もなく、娘は飛来する影を次々と斬り伏せていく。いかに細身の刀とはいえ、うら若き娘とも思えぬ膂力と身軽さである。遊環の鳴らす軽妙な音色の中、黒き衣の裾をはためかせて白刃を振るうそのさまは、まるで演舞に興じているかのようであった。


 そうして六体ばかりの妖異を討滅した娘は、最後に刀をひと振りしてから、ようやく息をつく。

 ただし、その黒眸から激昂の炎は消されていなかった。


「木っ端はすべて塵に返ったようだぞ。そろそろ貴様の順番であろう」


 娘の声に、応えるものはない。

 ただ、樹林の向こう側から、何か喧噪の気配が伝えられていた。娘とは別に、他の誰かが妖異と相争っているような気配である。


 娘はうろんげに眉をひそめながら、そちらに近づこうとしたが――それよりも早く、別の方向から新たな妖異が現れた。

 やはり、八本の脚を持つ蜘蛛の化け物だ。しかし、その図体は牛ほども巨大であり、醜い顔貌の左右には鋭い角が生えのびていた。


「その姿……貴様が噂に聞く、牛鬼か」


 娘は妖異の巨躯に怯んだ様子もなく、仕込み刀を構えなおした。


「さあ、貴様も塵に返してくれよう。くかかってくるがいい」


 蜘蛛の妖異――牛鬼は、毛むくじゃらの脚をうねうねと蠢かしながら、青く光る眼で娘を睨みあげていた。

 その口から、どす黒い苔色をした粘液が吐き出される。

 咄嗟に刀を振るおうとした娘は、地面を蹴って横合いに跳びすさった。

 娘の背後に吊り下げられていた屍のひとつに、べしゃりと粘液があびせかけられる。すると――じゅわじゅわと白いあぶくを噴きながら、屍の肉が溶け崩れていった。


「毒液か。その姿に相応しき醜悪な所業よな」


 娘はそれでも怯むことなく、刀を正眼に構えなおした。

 牛鬼は首をねじ曲げて、再び毒液を撒き散らす。

 それから逃げて、牛鬼に斬りかかろうとした娘の足が、ふいに止まった。


 娘は初めて表情を乱して、己の右足に目を走らせる。

 娘の右の足首に、薄く透けた白い糸のようなものが絡みついていた。

 あの、屍骸を吊り上げていたのと同じ、おぼろげな糸の束である。それは蜘蛛の糸そのもののようにはかなげな見てくれをしていたが、娘が刀を叩きつけても一本として寸断されなかった。


 牛鬼は、ぎいっと口の端を吊り上げて、鋭い牙を剥き出しにする。

 まんまと陥穽に落ちた娘を、嗤っているのだ。


「おのれ――ッ!」


 娘は再び、刀を振り上げた。

 しかし、その白刃が足もとの糸に振り下ろされるより早く、娘の体躯がふわりと浮き上がる。

 牛鬼が鉤爪の生えた脚でもって、尻からのびた糸をたぐったのだ。

 娘の体躯は颶風に翻弄される落ち葉のように宙を舞い、背中から楢の木の幹に叩きつけられた。


 娘は痛苦のうめき声とともに、その手の刀を取り落としてしまう。

 牛鬼は醜い顔貌をますます醜悪に歪めながら、濁った笑い声を響かせた。

 力なく半身を起こした娘は荒い息をつきつつ、右手の先を僧衣の袖口に潜らせる。


「図に乗るな、妖異めが……このような小細工は、今すぐに――」


 娘に最後まで語らせることなく、牛鬼は再び糸の束を操った。

 娘の体躯は同じ勢いで宙を舞い、別の樹木に叩きつけられる。

 娘のこめかみから血が飛沫き、その白皙を無惨に濡らした。


 牛鬼はがちがちと牙を噛み鳴らしつつ、娘のほうにずいっとにじり寄る。

 もういくたびか糸を振り回すだけで娘は絶命しそうなところだが、そうはしない。妖異とは人の無念や怨念を喰らう存在であるため、どのような相手でもひと息に殺めたりはせず、さんざんいたぶってからなぶり殺しにするものであるのだ。


 しかしそれは妖異のおぞましきさがであると同時に、もっとも大きな間隙でもあった。

 それを証し立てるべく、娘は袖口に潜らせていた右手の先をあらわにする。

 そこに握られていたのは――きわめて珍奇な代物であった。

 刀身を持たない、刀の柄である。


 柄にはしっかりと鮫皮が巻かれて、如何にも立派な蓮華紋の鍔まで備えているというのに、ただ刀身だけが存在しない。童児の玩具にもならなそうな、我楽多がらくたであったのだ。


 牛鬼は、錆びた鉄が軋むような嘲笑を響かせる。

 それと相対する娘のほうも、血にまぶれた顔に壮烈なる笑みを浮かべていた。


「いつまでも笑っているがいい。その醜き笑みごと叩き斬ってくれよう」


 娘は、刃なき刀の柄を振り下ろした。

 その足首を捕らえていた糸の束が、見えざる刃に斬られて消滅する。

 そして娘は、征矢の如き勢いで牛鬼に肉迫した。


 娘は再び、刀の柄を振り下ろす。

 それと同時に、牛鬼の脚が一本寸断され、青黒い粘液を撒き散らしつつ黒い塵と化した。


 牛鬼は怒り狂って残りの脚を振り回し、娘はその鉤爪から逃れるために跳びすさる。

 顎の先から血を垂らし、ぜいぜいと息をつきながら、娘は刀の柄を両手で握りなおした。

 牛鬼は、どろどろとした憤懣に燃える眼でその姿を睨み返す。


「見えるか? ……これなるは、嵬空山かいくうざん降魔刀ごうまとう。貴様を滅する、調伏の刃だ」


 娘の構えた刀の柄から、薄ぼんやりと白銀の光がたちのぼっていた。

 まるでギヤマンの細工物のように、透き通った輝きである。かそけき白銀の光暈が懸命に寄り集まって、刀身の形を作っているかのようだった。


(……長くはもたん。それを悟られる前に、勝負をつけるのだ)


 娘はその身の痛苦と疲弊をねじ伏せて、牛鬼のもとに踏み込んだ。

 頭上から振り下ろされる鉤爪を光の刃で斬り払い、返す刀でその顔貌を斬りつける。

 牛鬼の顔貌は斜めに断ち割られて、青黒い体液を噴きこぼした。

 牛鬼はくぐもった絶叫とともに、後ずさる。


「とどめだッ!」


 白銀の閃光が走り抜け、牛鬼の巨大な首を刎ね飛ばした。

 断末魔の絶叫を尾に引きながら、牛鬼の生首は虚空で消滅する。

 首を失った胴体も、それを追いかけるように黒い塵と化した。

 それらのさまを見届けてから、娘はがくりと膝をつく。


(なんとか、仕留めたか……日が暮れる前に、身を休める場所を探さねば……)


 その瞬間、娘の背後に殺気が蠢いた。

 娘は慄然と振り返り――そこに、新たな牛鬼の姿を見出した。


 たったいま退治した牛鬼よりも、さらに巨大な図体である。

 その鉤爪を生やした毛むくじゃらの脚が、横薙ぎに叩きつけられてきた。


 娘は何とか身をよじり、鉤爪だけは回避する。

 しかし、こめかみをまともに叩かれて、一丈ばかりも吹き飛ばされることになった。


 もんどりうって倒れ込んだ娘は、かすむ目で牛鬼の巨体を見上げる。

 牛鬼は、醜き顔貌で娘の油断を嘲笑っていた。


(おのれ……こちらが、本体であったのか……)


 娘は何とか身を起こそうとしたが、手足に力が入らない。

 こめかみから流れる鮮血が、草むらにぼたぼたと滴った。


(生命を、振り絞れ……これしきの苦難で、父上の仇討ちをあきらめるつもりか……?)


 娘は懸命に念じたが、調伏の刃は顕現しない。

 牛鬼は娘の無念と怨念を喰らうべく、じりじりとその身ににじり寄った。


(私は、まだ死ねん……こんな場所で死んでしまっては、父上に顔向けできんのだ!)


 娘の端麗なる白皙に、凄まじいまでの気迫がみなぎる。

 その瞬間――

 赤い炎の濁流めいたものが、娘の頭上に閃いた。


 その真紅の色彩が渦を巻いて、牛鬼の巨躯に激突する。

 牛鬼は怒りと驚きのわめき声をほとばしらせつつ、背後の樹木に背中から叩きつけられた。


「耳障りな声だな。とっとと消え失せろ」


 底ごもる声音とともに、赤い炎が再び躍った。

 いったい如何なる攻撃を繰り出したのか、牛鬼の巨大な頭が木っ端微塵に砕け散る。

 胴体のほうはしばらく八本の脚を蠢かせていたが、やがておのれに死を悟ったかのようにさらさらと崩壊していった。


「……だから、早々に立ち去れと言ったろう。この山に近づくなと忠言してくれるものはいなかったのか?」


 牛鬼を滅した謎めく存在が、低い声でそのようにつぶやいた。

 心中の激情を懸命に押し殺しているような、低い声――娘と最初に問答をした、あの声だ。


 それもまた、人ならざる妖異であった。

 赤い髪に、赤い瞳――見てくれは小さななりをした童衆であるが、これが尋常なる人間であるわけがない。その身は真紅の妖気に包まれて、まるで炎の中にたたずんでいるかのようだった。


「おのれ……妖異め……」


 娘は倒れ伏したまま、降魔刀の柄を振り上げる。

 しかし、そこから調伏の刃が生まれることはなく――娘は赤き妖異に見下ろされながら、がくりと気を失うことになった。

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