第2話

退院の目処が立った日、そして一緒に住むことが決まった日から何日かが過ぎた。その間に着々と、様々な事が進んでいった。春の怪我は順調に回復していき、男二人でも住みやすく、大学にも近い住居は存外早く、楽に見つかった。望は早々に引っ越しの準備を終え、春の分まで荷造りを行った。その際も春に、そんなに自分と住みたいのかと誂われた。そのたびに望の顔は赤くなって、春はそんな望を笑った。

そうこうして足早に進んだ準備も終わった頃、春は退院することになった。タイミングがやけに良い理由は、偏に望が頑張ったから、の一言に尽きる。望は計画的なタイプであったし、自身に妥協するような人間性は持ち合わせていなかったのである。退院の際、引っ越しの準備が殆ど終わっている事を聞いても、春は驚かなかった。只々満足そうな、自慢気な顔をして、「よくやった。」とだけ望に言った。偉そうな口振りであるが、望ならこれくらいやるだろうという信頼の証であることに間違いはなく、望としては嬉しいものだった。

さて、二人が住む事になったのは、大学に一番近い駅から徒歩5分、築8年のマンションの二階である。家具付きで2DK、家賃は二人で4万円程。角部屋で隣の部屋は空室になっている。望が探して来た物件であり、春は知らないが、その辺りは治安が良い事で有名な場所でもあった。どうしてそんな好条件な場所が見つかったのかといえば、やはり望の努力のお陰であったが、その辺りは田舎で、コンビニやデパートが少ない事も影響していた。人気が無い訳ではないが、直ぐに埋まってしまう程でもない。そんな物件。二人は一緒に住むにあたり、厳しくルールを決めることは無かった。必要になってから作れば良いのだ。ただ、一つだけ、二人の間に約束事が出来た。"遠慮をしないこと"。それだけは明確に二人の間で決められていた。守られるかは別として。

二人は費用を出来るだけ安く済ますため、自分たちで荷物を運び込む事にした。マンションに私物を運び終わると、部屋はダンボールでいっぱいになる。二人はダンボールの山を見上げ、フローリングに座り込んだ。

「いや、ほんま疲れたわ。」

「せやね、まだ手がジンジンするわ。」

家具がついているとは言っても、二人にとって必要なもの、使いたいものは沢山あった。大切にしていた小物やゲーム機、クッション、漫画、エトセトラ。家具と比べれば勿論小さいが、全てを持ち込もうとすれば膨大な量にならざるを得ない。朝方から支度を始めたというのに時刻は既に夕方で、窓から差し込む夕日が赤く輝いて見えた。

「なぁ、望。ありがとな。」

春が小さく、しかし望にはっきりと届く声でそう言った。春の声はいつも凛としていてよく通る。望が驚いた様に春の方を向くと、春は慌てた様に顔を背けた。どうやら自分の発言に照れているようだった。望はいつものお返しとばかりに煽ろうと、ニヤリと笑って口を開く。しかしその時、望は春の耳が赤く染まっている事に気が付いた。思わず望の口が閉じる。

「…おん。」

結局口に出せたのはたったの二文字だった。穏やかで甘酸っぱく、少し恥ずかしいような空気が流れる。二人は無言だったが、お互いに何かを話す気にもならなかった。

「…あ、晩飯どうする?」

ふと思い出したように、望は春に問い掛けた。春の顔はまだほんのりと赤く、望も釣られて照れてしまいそうになる。

「…出前、取るか。何食べる?」

赤い顔のままで、春はあくまで普通に言葉を返した。いつまでも恥ずかしさが消えない。春が感謝の言葉をあまり口にしないタイプである事も影響しているのかもしれなかった。

出前という選択肢に、望は首肯する。しかし何を食べたいかと問われても、特段食べたいものは思い浮かばなかった。

「え~、何でもええわ。春が決めてや。」

春も春で食べたいものがない。ただ、二人の共通認識として、引っ越しの初日は良いものを食べようという思いはあるようだった。

「じゃあ寿司な。」

ぶっきらぼうな上にあからさまに適当な言い方で、春はそう決めた。春も望も特別寿司が好きな訳でも嫌いな訳でもない。ただ豪華そうで、引っ越しの初日らしいと春が勝手に思っただけだった。

「ええよ、頼もか。」

そう言って望は立ち上がると、スマホを取り出し電話をかけ始める。春はといえば、手持ち無沙汰なのか近くにあったダンボールの箱を適当に開き始めた。望は逆側の壁を向いて何やら注文をしているので、気付かれる事も無い。

「…え、春。何やっとんの。」

怒るでも悲しむでも驚くでもない、不思議そうな声が春の耳に届く。春が上を見上げると、望がずい、とこちらに顔を近づけてきた。

「は?近いんやけど。」

春は威圧的な口調でそう言って、望の頬をぺちん、と軽く叩いた。

「叩くことないやん!」

対して痛くも無いだろうに、望がわざとらしく悲痛そうな声を上げる。しかし一秒後には、望は先程の事など忘れたかのように、いつものトーンで言葉を発した。

「それ、俺の荷物なんやけど。お前なんで見とんの。」

そう言われて初めて、春は自分の開けたダンボールに望の私物が入っていることに気がついた。

「あ、ほんまや。気付かんかった。まぁ別にええやろ。」

春は自分で勝手に納得し、自己完結した。望はしっかりしたツッコミを入れるべきか少し悩み、普通に返すことにした。おもんな、と言われるかもしれないと少しだけ怯えながら。

「まぁええけど、あんまり動かされると今度片しにくいやん。」

「ええんかい。お前の荷物とか興味無いからもう触らんけど。」

望の発した、まぁええけど、という返しは案外悪く無かったらしい。望は何となく安心した。しかしその次の言葉は聞きづてならない。

「それは興味持てや。お前が開けたダンボールやぞ。」

まさか勝手にダンボールを開けられて挙げ句興味が無いと言われるとは思わなかった。望は少しだけ傷ついた。

「いや別に、お前が何持っとるか位は見んでも大抵分かるわ。わざわざこれ以上お前について詳しくならんでもええし。」

望の傷ついた心はその言葉に一瞬で治された。貴重なデレだ。

「…おま、おまえ…。」

確かに望はよく趣味の話をしているが、いつも春の相槌は興味なさげで棒読みとしか言えなかった。きっと話半分で聞いているのだろうと望は勝手に思っていたが、存外しっかり聞かれているのが嬉しくなる。小さな事ではあるが、望は感動した。何かを言おうとするが口に出せない。

「お前がいつも俺に話しとるやん。何持ってる、とか最近出たあれが良かった、とか。」

なおも言葉を続ける春は、昔を懐かしむような表情をしていた。夕日の差し込む部屋と哀愁の籠もったその横顔は美しく、望には芸術品のようにも見えた。

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"普通"の恋愛をするだけの幸せになりたい彼と彼の話 みみみ @mimimi___

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