第1話

結局望の中で踏ん切りも付かないまま、しかし春の返事を無下にするわけにもいかず。二人は付き合う事になった。望は春の意思を最大限に汲もうとしていたが、だからといって春の気持ちが読み取れるかといえば全くそんなことはない。望は春の愛想笑いに絆されるばかりだった。あるいは望は、春の愛想笑いの先にある真意に踏み込まない事で、春の気持ちを慮っていたのかも知れなかった。

春の退院の目処がついた日もそれは同じ事で、何故かニヤニヤと笑う春に望は文句を溢す。

「何ニヤニヤしとるん。」

「いや、望は僕の退院、嬉しいんじゃないかなって思ってさ。」

語尾に(笑)がついているようにしか思えない煽りが春の口から放たれる。何に対する煽りなのかはよく分からないが、馬鹿にされている事だけは伝わった。いつもの春がそこにいる事がほんの少しだけ恐ろしく、ベッドの横で突っ立ったまま手元のスマホに目線を落とす。こんな安い煽りに乗るのは阿呆らしい。いつもの、今までの自分であれば、こんな言葉は無視するだろうという思いもあった。過去をなぞることでしか、今まで通り、は出来ない気がした。

「そら、嬉しいに決まっとるやん。」

真っ暗なのスマホの画面に目を落としたまま、望はそういった。かけがえのない本心だった。

「…もしかして望、俺が送ったメッセージ見てへんの?」

そう言われて、望には思い当たる節があった。確かに先日の朝方、春からメッセージが来ていた。しかし、チャットを開いたところで自分が仕事に遅刻しそうなことに気が付いた為、既読は付いただろうが読んではいなかったのだ。すっかり忘れていた。それに、最近は病室に通い詰めているものだから、大事なことであれば春は直接言ってくれるだろうという慢心もあったのだと思う。

「え、すまん。見てへんわ。何書いたん?」

特段悪びれることもなく望は言う。春は態とらしく溜息をついた。望は既読こそ早いが、基本的に返答はそっけない。適当な返しも既読スルーも良くあることだ。恐らくは本人の性格故だが、言えば直してくれるのだとも分かっている。それに、適当な返しだからといって適当に考えているわけではなく、会って話をすればメッセージ上での話もきちんと覚えているし、そもそも無理矢理メッセージを続けようとすれば対応はしてくれる。だから春は、直してくれと望に言ったことはない。しかし今回は既読スルーではなく、単純に読んでいないらしい。

「…今、見ろや。」

不貞腐れたように春が言う。望は首を傾げつつ、アプリを開いた。言ってくれれば良いのにと思わないでも無かったが。

起動を待つこと数秒。アプリが無事開き、一番上に春が表示される。ピンとかいう機能は便利なのだ。

『退院出来たら、一緒に住まん?』

簡素な一文。それをはっきりと目にした瞬間、望の顔がぼっ、と赤くなる。春は途端にニヤニヤとしだした。

「何、そんなに嬉しいん。めっちゃ顔赤いで。」

間違いなく(笑)が語尾についている。ニヨニヨという効果音が似合いそうな憎たらしい笑みだ。断られるという選択肢は当たり前に無いのだろうか。望は考えるのを辞めた。

「…お前、自分で言うのが恥ずいからメッセージで送ったんやろ。」

せめてもの意趣返し。のつもりが、春にクリーンヒットしたらしい。ピタリと春は固まって、ぼん、と顔を赤く染めた。

「…はぁ!?うっさいわ!童貞の癖に!」

いつもの返し方だった。望はモテないが、春はモテる。望はよく、童貞であることを春に煽られていた。実際春は童貞であるし、望は一生自分が童貞だと分かっている。自分はきっと、生涯春だけに片恋を抱いて死んでいく。望はそう思っていた。恋は最悪の形で叶ってしまった訳だが。

ぐるぐると望が考えていると、春は不思議そうな顔をした。

「ぇ、何なん。いつもの反応とちゃうやん。」

そこで春は気がつく。仮にも付き合っている相手で、そもそも望は自分の事が好きだったのだ。この煽りは良くなかったかも知れない。春は確かにそう思い当たった。そして、フォローの為か言葉を紡ぐ。

「…まぁ、これからは俺が居るし。童貞卒業出来るやん。良かったな!」

訂正。どちらかといえばその言葉はフォローではなく、更に重ねられた煽りであったのかも知れない。現に春は未だニヨニヨと嗤っていたし、悪びれた風でもなかった。そんな春に、望は別の意味で不信感を覚えた。

「…お前、下やろうとしとるん?」

元々異性愛者であった彼に、上や下と言って伝わるのかは分からなかった。彼はついこの間まできっと、男同士でも出来る事など知らなかった身で、本来知るはずも無かった。望としては、知らないままで生きてほしかった。

「…お前は何も気にせんで、って言ったやろ。」

その言葉は酷く悲痛に響いて聞こえた。

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