"普通"の恋愛をするだけの幸せになりたい彼と彼の話

みみみ

プロローグ

「ええよ、付き合お。」 

「…は!?」

余りにもあっさりと吐かれた言葉に望は目を剥いた。正直断られるだろうと当たり前に思っていたから、友達か他人に上手く戻る心の準備をしていたのに。純白で汚れひとつないベッドの手すりを思わず掴み、春の方に身を乗り出す。が、何を言うでもなく椅子に戻った。好きだ、なんて言ってしまったのは望の勝手な都合だ。ただ、春が望の思いに気が付かず、仕切りに申し訳無さそうな顔をするものだから。ただ、望自身が好意という邪な思いから彼の世話をしている事に良心の呵責を覚えたから。それだけの理由。本当は、絶対に言うべきではなかった。つい言ってしまったのは、きっと脳みそが疲れていたのだと思う。望はベットサイドに申し訳程度に置かれた椅子に座り直した。どうしてyesの返事をしたのか、春の本心が知りたかった。春の方を向いて、春の瞳をじっと見つめる。今も体に包帯が巻かれている彼が哀れだった。好きになってゴメン、なんて陳腐な言葉が浮かぶが、きっと好きになった事が間違いなのではなく、好きだと言ってしまったことが間違いなのだ。春の瞳から何かが読み取れる事はなく、望はしかし目を離さない。春の唇は柔く弧を描いている様に見えたが、生憎今の春の表情を望は信用していなかった。春はよく笑うし、空気が読める。そして、望は春の愛想笑いを見抜けない。だから瞳をじっと見つめるしかないのだ。春は少しの沈黙に耐えきれなかったのか、小さく口を開く。男性にしては少し高い、陽気な声で彼は言った。

「なんでそんなじっと見るん、ええよ、って言っとるやん。何、俺がオッケーしたらあかんの。」

少し巫山戯た様な調子の言葉はいつもの彼らしいものだった。望はそんな春の様子に目を背けたくなる。しかし自分から目を合わせてしまった手前、目を逸らすのは忍びなかった。

「だって、。ホンマに、ええん?俺から言ったことやけど、断ってくれてもええんよ。お前がこれを断っても、俺らは何も変わらへん。お前が俺が気持ち悪い、もう会いたないって言うんやったら、もう会わん、けど。お前の言うことに従う。約束する。それでも、お前は付き合う、って言うん?」

少し始めの言葉がつっかえはしたものの、望は春の目を見たまま思いを吐露する。春がこの告白を断ろうが、望の春への思いや献身は変わることは無い。ある種エゴとも言えるような望の愛は、春がより良い人生を送るために使われる。そこに望の気持ちは関係がない。望が愛に見返りを求めるような人間ではないし、春はその事実を知っていた。

「それでも、ええよ。俺が付き合いたい、って言っとるやん。」

あくまで明るく言葉を紡ぐ春と、切羽詰まったように文字を吐く望は傍から見ればあべこべだった。望は告白をしてしまったことを後悔した。

「だって、春、なぁ…。」

周りに人がいる。これ以上は言えない。言葉を紡げない。万が一にでも聞かれたら困るのだ。望は口を噤むしか無かった。春はそんな望を見て、勝ち誇ったようにニヤリと笑む。望にはその表情が仮面のように思えて悲しかった。唐突に目の前が床になって、望は自分が俯いてしまったことに気がつく。蛍光灯を反射した白い床と自身のボロボロのスニーカー。なんだか泣きたくなった。自分が女々しいだけなのだろうか。望は思った。

「なぁ、望。ええやん。望は何も考えんでええよ。…俺がこんなこと言っても、意味ないかも知れんけど。」

何も考えなければ望は幸せになれる。そういう事だ。そういう意味だ。望は勿論春と付き合えるのならば幸せだが、幸せになろうと思っていた訳ではない。幸せにしたいのだ。彼を。

「なぁ。望。俺は別に、幸せになりたい訳やないんよ。お前が、幸せやったら……」

そこまで言って、後悔した。人生で一番後悔して、しかし吐き出した言葉は呑み込めない。望は諦めて続きを声にする。春の顔は見なかった。

「お前が幸せやったら、俺がどうかなんて、関係ないんよ。」

残酷な言葉だと思った。今から春は自分を幸せにしようとしているのに。そして、春はもう一生幸せになれないかも知れないのに。望はまた自分の言葉に後悔して、自分の脳と口を恨んだ。

告白なんてするんじゃなかった。ただ、申し訳無かった。


"強姦"なんて一言で片付けるには、春は心に傷を負いすぎていた。

春の容態を望が聞いたのは、"その日"の翌々日になってからだった。"その日"から夜が明けて、朝になって、段々と人通りが増えて。正午も過ぎた頃に漸く、見つかった。発見されたのが現場ではなく路地裏だったのは、恐らくプライドからだったのだろう、と春は言った。自分なんかがこれを聞いていいのかと言いたかったが望はそんな思いを胸の中に仕舞った。まるで他人事のように話しているのが痛々しくて、自分事のように苦しかった。こんな時に友人にどう声をかけるのが正解なのか解らない自分を呪った。はは、と春がいつものように笑うものだからどうしようもない。愛想笑いが見抜けない、と望が前に言ったことを、春は覚えていた。けれど。

俺だって、ホントに苦しいかどうかは分かるで。

なんて言えるわけもないのだ。春に愛想笑いを、されたのならば、されたのだから。自分は苦しんではいけない。望はドロドロで固くて重くて棘のあるそれを心の奥底に押し込むことを決めた。嘘を付くことは得意だった。真っ白なベッドと薄い緑色のカーテン、消毒液のつんとした匂い。春には似合わないそれらは春を守り支えている。きっと自分よりもよっぽど頼り甲斐のあるものだ。

春は自分は男だというプライドも、そもそも人としてそんなことが行われて良い筈が無いという倫理観も持ち合わせていた。そんな彼に降り掛かった出来事は、彼の精神を苛むには十分過ぎる筈なのだ。愛想笑いが出来る余裕はきっと、心を削って生み出されている。

そんな春に望が出来ることは、春の心に寄り添い、彼の意を汲もうとする事だけだった。

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