第30話 喧嘩するのは良いことだ
ぶんっと、剣道の道場内に空気を斬る音が
先程から一心不乱に、春人は父の道場の中で竹刀を振り続けていた。
けれど。
「……っ」
集中出来ない。
完全に軸がぶれているのが分かる。基本中の基本だというのに、初心者よりもぶれているのではないだろうか。
それを自分自身で理解しているからこそ、よけいに苛立ちと焦りが募る。
「くそ……っ」
「やあ、春人。精が出ているね」
「――」
後ろからにわかに声をかけられ、春人は驚いて振り向く。
そこには、袴姿の父が
「父さん……いつから?」
「ほとんど最初からだよ。家に帰って来てから、すぐに道場に来ただろう? 今日は道場は夕方から休みだったから貸し切り状態だし、絶好の練習日和だよね! でも、もうすぐご飯だから呼びに来たんだ。今日は塾もあるだろう?」
「……、そっか。ごめん」
父にやんわりと促され、春人は
竹刀を下ろし、置いてあったタオルで汗を
「……素振り、荒れてるね」
「――」
「ここ数日、ずっとそんな調子だけど。何かあった? ……剣道は素振り一つとっても、心が
「……っ」
また、心配をかけてしまった。春人は、ずっと心配かけ通しだ。
前に、父と草壁について話した時に気付いたのだ。父はあの時、冬馬や和樹は、草壁のことについて何か言っているか、と聞いてきた。
それはつまり、父も春人の恋人については毎回気にかけていたということに他ならない。
恐らく、父だけではなく、母も。言葉にしないだけで、ずっと見守ってくれていた。
春人は周りにどれだけ心配をかければ気が済むのだろう。情けなさ過ぎて視界が
「……ごめん」
「どうして謝るの?」
「心配……かけてばっかりだから」
「おやおや。親が子供を心配するのは当然だろう? むしろ勝手に心配したくてしているだけだから、謝る必要なんてないさ」
「でも、……」
「心苦しい?」
「……、うん」
「だったら、対価としてその心苦しさは受け入れなさい。……大丈夫。心配かけてるって気付けたということは、春人自身がちゃんと自分の心や、接している相手に向き合ってきているっていう証なんだから」
よしよしと頭を
大人しく撫でられたままでいると、父はにこにこと続ける。
「草壁さんのことだよね」
「……」
「まだ、話すのは辛い?」
父に柔らかく問われて、春人の視線が床に落ちる。
正直、春人の心の中は数日経ってもぐちゃぐちゃなままだった。
春人の切り出し方、言い方、思い通りにならなくて焦って逆切れしたこと、全てが悪い方向に向かっていって、自分が悪かったのだと反省している。
けれど。
〝おめでとう、須藤君。……淋しいけど、君が好きだからこそ。私は祝福するよ〟
――あの言葉を思い出すたびに、胸が刺された様に痛い。
どうして、と心が大声で泣き叫ぶ。
おかしい。
春人は散々彼女の言動に振り回されて疲れていたのに。最初はそれだけだったはずなのに。
いざ、離れていこうとしたら、こんなにも
それに。
――所詮、その程度の想いだったのだろうか。
どうしても、そう思ってしまう。
彼女は確かに傷付いた瞬間を見せた。
それを頭では分かっているのに、疑ってしまう自分がいる。あんなにあっさり手の平を返されて、今までの傷がぶり返す様に開いていった。
春人がずっと黙っていることが返事だと分かったのだろう。父は、それ以上は何も聞かずにもう一度頭を撫でた。
「そうだなあ。……父さんから言えるのは、ただ一つ、かな」
「……、……何?」
「彼女からもらった薔薇の色の意味と、本数の意味」
「え?」
「気が向いたら調べてみなさい。お前が悩んでいる答えが、見えるかもしれないよ?」
さあ、戻ろう。
そう促されて、春人は訳が分からないまま父に背中を押されて道場を出て行く。
薔薇の色に花言葉があるのは知っていたが、本数にまで意味があるのか。
意外な事実を知り、けれど知るのが恐くて、春人は心が
草壁と喧嘩してから、一週間が過ぎ去った。
驚くほどに穏やかな時間が春人には戻ってきた。あれから、登校する時も賑やかな彼女の声はしないし、下校の時も元気良く振り回されることもない。
クラスの中でも、昼食の時でも、彼女はいつだって春人の
流石に何かあったのかとクラス中から注目――という名の暴力の視線を浴びたが、草壁がかなりいつも通りだったため、表向きは特に責められることもなかった。
「実は、須藤君とは絶賛冷戦中なのだよ! どうか、諸君。生暖かくも心優しく見守ってくれないかい?」
そんな鶴の一声で、クラスの者達は「はい、草壁さん!」とハートマーク付きで了承してしまった。本当に草壁ファンはどうかしている。
そして、こんな時にまで優しく
あまりにしょんぼりしていた様に見えたのか、登校の時、いつも散歩中に挨拶してくれるおばあさんまでもが「春君、大丈夫かい?」と心配してくれた時は泣きそうになったのを覚えている。
そうして、悶々とした時間を過ごしていると。
「おーい、須藤! ちょっとこの資料運ぶの手伝ってくれないか?」
担任が世界史の授業を終えて戻ろうとしたが、多くの機材をいっぺんに持って行くのはしんどくなった様だ。
良いですよ、と春人は軽く立ち上がって機材をいくつか抱える。「すまんなあ」とにこにこ笑って春人より重い機材を抱える担任に、これくらいは何てことないと笑って見せた。
そうして、担任専用の資料室に着くと、「ありがとうな」と頭を撫でられた。
「先生……もう子供じゃないんですけど」
「いやあ、子供だろ。お前、草壁と絶賛喧嘩中なんだってな」
「っ」
いきなり急所を突かれて、春人の表情が硬くなる。
それを目にした担任は、やれやれと苦笑気味にまたがしがしと頭を撫でてきた。
「珍しいな。というか、初めてか? お前が女子と喧嘩するのは」
「え。……そう、でしょうか」
「そうそう。お前、色々意見を言っている様で、本当の本当に言いたいところは飲み込む
「え。木村先生って……剣道部の?」
体育の教師であり、剣道部の顧問でもある。春人も時々お世話になっていた。
しかし何故、彼が春人のプライベートを気にかけているのだろうか。
全く心当たりがないと首を傾げていると、担任がさらっと爆弾を放り込んだ。
「木村先生、前にお前が女子と別れる場面を目撃したらしくてな」
「……え、っ」
「その時、言いたい放題言われてんのに、お前は何一つ言い返さなかったって。あの後、しばらくはかなり心配してちょいちょい様子見に行ってたってよ。お前も担任だから教えとくわ、って俺も聞かされてな」
まさか、教師同士が裏でそんな話を交わしていたとは思いも寄らなかった。おまけに、心配して様子を見に来てくれていたとも知らなかった。二年生になってからは恋人と付き合っていないから、一年生の時の話だ。今の担任は一年生の時も同じだった。
しかし、よくよく振り返ってみれば、一時期木村先生とは出くわす回数が多かった気がする。その度に部活の顧問だからと剣道に誘われたり、一緒に茶を飲んで暇潰しに付き合ってくれと
あれは、春人の様子を見守ってくれていたのか。はっきり言って、今振り返っても自業自得の別れ方だったのに、優しい先生だと感じ入る。
「知りませんでした。……ありがとうございます」
「ははっ。いや、何。かなりの言いがかりだって、勝手に先生同士で
「……、でも。その、俺、女性との付き合い方に関しては……」
「そりゃあ、若いうちは色々失敗するもんさ。むしろ、しておけしておけ。小さい頃からとことん失敗しておかないと、大人になってから打たれ弱くなるし、柔軟性や根性も付かなくなるぞ」
豪快に笑い飛ばして、担任が機材をあるべき場所へと片付ける。ごとん、とまるで春人の心の動揺を表す様な大きな音がした。
「むしろ、そうやって、喧嘩してる状態になった、っていうのが良い傾向なんだ。お前も溜め込まずにちゃんと言いたいこと言ったってことだろ?」
「……でも、俺も悪かったんです」
「そうやって反省するのも大事だし、偉いぞ。だが、百パーセント一人だけが悪い状況なんて、世の中には存在しないもんだ。お前が大半悪かったとしても、草壁の方も必ず悪かった面があるはずだ」
軽い口調なのに、内容はとてもずっしりくる重さだった。父の時も思ったが、こういう時、大人は本当に大人なのだと思い知らされる。
そして、春人が
「ま、色々考えることもあるし、意地張ることもあるし、後に引けなくなることもたくさんあるだろうけどな。ちゃーんと考えて考えて考え抜いた後は、きちんと本人と向き合えよ」
「……」
「しんどいだろうが、人付き合いってのはそういうもんだ。……むしろ、今の内に経験しておけ。大人になってからも長く付き合える奴ってのは、そういうしんどいのを乗り越えた先にあるもんだ」
「……。先生も、そういう経験があるんですか?」
「そりゃあな。俺なんか、お前くらいの時はもっとやんちゃで目も当てられなかったぞ。お前は優等生過ぎる。少しくらい羽目を外せ」
「……それは、先生の言うことじゃないですね」
「ははっ。良いんだよ。今は、悩める子供の相談相手なんだからな」
からからと笑い飛ばす担任の笑顔は、春人にはとても眩しいものだった。
同時に、その明るい
春人は、本当に恵まれていると。
「……ありがとうございます。先生」
「おう」
「木村先生にも、機会を見てお礼を言います」
「はっは。今からあいつの慌てふためきながら照れる姿、想像すると笑えるな」
どこまでも明るく持ち上げてくれる担任に、春人はこの人が担任で良かったと心から感謝した。
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