【風に散る短編】茶の湯と私と大城代(前編)

 

 

「瑠璃様ァァアアア!!」

「やかましいぞ鳴海ィ! ちょっと出かけてくるだけじゃというに!!!」

「これで何度目ですかっ!! 待たれー!!」

「城下が私を呼んでおるのじゃー!!」

 

 慶応四年、春爛漫。

 瑠璃は今日もお忍びで城を抜け出した。

 理由は特にない。

 春風に誘われて、とでも言えばお分かり頂けようか。

 ただし、無断外出を止めようと、執拗に追って来る者が一人。

 日頃から武稽古で世話になっている大谷鳴海である。

(しつこいやつじゃ、まったく)

 鳴海ほど心配性な臣もあまりいないだろう。

 瑠璃がふと思い立って城を抜け出そうというとき、決まって鳴海が目敏く追いかけてくる。

 袴の裾を翻して、瑠璃は一目散に城門を駆け抜けた。

「一刻もすれば戻るから、此度は見逃せー!」

 後から轟と風を切って突進してくる鳴海に捨て台詞を投げ、瑠璃はそのまま城下へと紛れ込んだ。

「待ァたれェイェアアアア!!!!」

 遥か後方より鳴海の絶叫が轟いたが、瑠璃は離した距離の分、悠々と飛び跳ねながら逃げ果せて行った。

 が。

 ものの数拍後、麗らかな花薫る空気を引き裂かんばかりに、雪崩かと思うような轟音が耳についた。

 異変に気付き、ふと背後を振り返った瑠璃。

「!!?」

 その音は、並々ならぬ速さで追跡してくる駿馬の蹄の音だった。

 そして、馬に跨り般若の形相で猛り狂う、腹心・大谷鳴海の姿。

 本気を出してきやがった。

 更に、瑠璃は我が目を疑った。

 馬上の鳴海の手にした物。

 抜き身の真剣である。

「待たれと申すに馬鹿娘ェエエエエ!!! 今日という今日は、城に留め置き申し上げるアァ!!!」

「オっ、おぎゃあああ!!!」

 殺られる。

 と、直ちに殺意を感じ取り、瑠璃は袴をたくし上げて疾走した。

 ちょっとそこらを散歩するだけでも、命懸けである。

 必死の逃走劇を繰り広げながら、瑠璃は内心で身の隠し処を走馬燈さながらに念頭に巡らせた。

「は! そうだ!」

 ちょうど良いところがあるではないか。

 思い立つや否や、瑠璃はその足を北条谷へ向け、ひたすらに遁走した。

「待たれええええいッ! この親不孝者があああああ!!!」

「そなたはいつから私の親になったのじゃ―――ッ!!?」

 

   ***

 

 脱兎の如く鳴海の追跡を振り切り、瑠璃は静かな北条谷の道場へ駆け込んだ。

「たたた助けて下さい、お師匠様!!!」

「うわわッ! 瑠璃か!?」

 道場で小銃を手入れしていた銃太郎に、瑠璃は飛び込むや否やひっしとしがみついた。

 大柄な体躯に似合わず、びくっと肩を震わせて驚く銃太郎は、その拍子に手にした小銃をうっかり取り落としそうになったらしかった。

「おおおお鬼じゃ! 鬼がおる!!」

 取り縋って訴えると、銃太郎はおろおろとしながらも話に頷き、相槌を打つ。

「な、何かよく分からないが、た、助けが要るなら私が匿ってや──」

「るーりーさーまーァァァ……!!」

 背後でガタリと物音がしたと思うと、次いで恐ろしく低い、尚且つ恨みがましい声が呼んだ。

 咄嗟に銃太郎にしがみ付いて振り返ると、やはり。

 そこには大谷鳴海の(何故か)疲れきった姿があった。

「イヒィ……!」

 しぶとい。

 我ながら、どうしてこんな男を側近に置くのか、甚だ疑問だ。

 ちょっとくらい城下をふらついて、何が悪い。

 ゆらりゆらりと一歩ずつ、しかし確実に歩み寄る。おまけに鳴海が床板を踏み拉く毎に、板はぎしりぎしりとおどろおどろしい軋みを上げた。

「じゅじゅじゅ銃太郎殿や、ゆゆゆ床板が腐っとりゃあせんかのう……!」

「落ち着きなさい瑠璃。気持ちは分かるが、爺様みたいな喋り方になっとらすばい……!」

「そちもなかなかどうして愉快な方言だルリ……!」

「なんだっぺ、その語尾!?」

 鳴海の形相に恐れを為し、瑠璃は側の銃太郎の背に隠れつつも、やたら口数が多くなる。

「出てきなさい、瑠璃様。それほどに元気が有り余っておられるなら、この私の稽古でもって、みっちりと扱いて差し上げる……!」

 沸々と煮え滾る、怒りの眼差し。

 こういう状態の鳴海の稽古だ。恐らく、地獄を見るよりも過酷な稽古に違いない。

「ききき今日の朝稽古なら、とっくに終わったはずルリ! 去ねルリ!」

「良いでしょう。その語尾に免じて、ちょっとだけ手加減いたしましょう。ヒヒヒッ」

 ニタリ、と胡散臭い笑みを浮かべ、鳴海は銃太郎越しにもう一歩、瑠璃へと踏み寄った。

 どうやら語尾は鳴海のお気に召したらしい。

 しかしそれでも剣呑な雰囲気は解かれることもなく、瑠璃は銃太郎の背を押し出すようにしがみ付いた。

「なんとかしてたもれ、銃太郎殿……!」

「あんまり押さないでくれ! 大谷殿がもう目と鼻の先だ!」

「フヒヒッ。どうだ、銃太郎。可愛い目鼻立ちだろう。おちょぼ口が自慢だ」

「助けてたもれぇ、銃太郎殿ぅぉう!」

「ヒイィ! 全然おちょぼ口じゃない! 聞いてるのか瑠璃っ! これ以上押されると、私が可哀想なことになるぞ!?」

 あわあわと問答を繰り返す瑠璃と銃太郎。

 勿論、鳴海の口はおちょぼ口でもなんでもない。寧ろ、今の瑠璃と銃太郎の目には、うわばみのような口にすら見えていたのであった。

 

   ***

 

 茶室。

 などというものは、僅か六十五石取りのこの役宅には存在しない。

 今、銃太郎は母屋の囲炉裏端に、瑠璃と並んで膝を折っていた。

 目の前では、鳴海の手が茶筅を摘み、何故か茶を点てている。

 実に目を疑うし信じ難いが、意外にも優雅な挙措である。

「……ちょっといいか、瑠璃」

「しぃっ! 鳴海に聴こえたらあの茶釜が飛んでくるぞ……!」

「いや、そもそもなんでウチで茶を点ててるのかと」

 城内に、茶人として名の通る人間は幾人かいる。

 確かにいるが、鳴海がその一人だとは寡聞にして存じ上げない。

「私の目に狂いが無ければ、あれはの、大城代の内藤四郎兵衛殿が大切にしている茶器じゃ。鳴海に逆らって、あれを投げられでもしたら堪らぬ」

「!? 大谷殿のものじゃないのか!?」

「シーッ!! 釜が飛ぶぞ!」

 知らぬ間に、大城代にまで要らぬ被害が及んでいた。

 なるほど、瑠璃の見立てには納得である。

 大城代・内藤四郎兵衛は茶人としての側面もあり、風雅の心得のあることは家中でも知られている。

 政道に口を挟まず守城の役目に忠実で、しかし配下に対する目配りは決して怠らない。

 つまりはとても真面目で面倒見の良い、霞ヶ城の仏である。

 と、銃太郎は思っていた。

 仮にその愛蔵の茶器を粗末に扱われたと知ったら、温厚な仁者が不憫に過ぎる。

「……ごっ、御城代に報せなくていいのか」

「報せようがなかろう」

 これでは結局お忍びは失敗だ、とか何とかぼやき、瑠璃は悄然と肩を落とした。

「美味い餅菓子でも買うてから遊びに来たかったのに……」

 かなりがっくりと来ているようで、単純に巻き込まれただけの銃太郎まで胸の締め付けられる思いがした。

 常々騒動を運び込む瑠璃だが、城を抜け出してまで自分を訪ねて来てくれる。

 それは何か特別な想いがあるからではないかと、仄かな期待を寄せてしまうのだ。

「……その、なんだ。あまり気を落とすな。こうして私を訪ねてくれるだけで、その……、うっ、嬉しい、から」

 言いながら、気恥ずかしさが込み上げて頬が熱くなった。

 最後は殆ど蚊の鳴くような声量になってしまったが、隣で瑠璃がぱっと顔を上げた気配がする。

 多分、ちゃんと伝わったのだろう。

 万一にも瑠璃がこれに懲りて、訪いのなくなってしまうのは寂しい。

「………」

「……?」

 それまでぽそぽそとぼやいていた瑠璃が、急に無言になった。

 もしやこちらの秘めた心に気付いたかと、銃太郎は殊更に頬を熱くする。

 心なしか耳まで痒くなり、瑠璃と目が合わぬよう顔を背けた。

「じゅ、銃太郎殿……」

 小さく遠慮がちに呼びかける瑠璃の声にも、どう返答すればよいのか分からずに、自分の膝から視線を上げられない。

 と、思ったとき。

 ふと自分の膝の先に、影が差しているのに気付いた。

「……瑠璃?」

 よもや瑠璃が正面に迫ったかと思い、ちらと顔を上げたが最後。

「ッビェ!!?」

 珍妙な声が喉を突き破り、反射的に座したまま後ろへ一間ばかり飛び退いた。

「ウフフフフフフ勘違いするなよ貴様」

 妙に姿勢よく正座した鳴海の微笑みが、視界いっぱいに広がっていたのである。

 その手許は、茶筅が潰れそうな勢いでジャカジャカと茶を点て続けていた。

「うぉおおおおおやどの……っ!?」

「おい貴様。この度重なる訪問は、もしかして拙者に淡い恋心を抱いているからでは……トゥクン……! などとふざけたことを考えておるのではあるまいな?」

「かかっ考えてませんよ!!? いきなり何ですか!!」

 鳴海の指摘に大慌てで否定する。

 が、大体合っているので困る。

 いや、合ってるけどそこまで気持ち悪い考え方はしていない。断じて。

「ほぉう? 果たしてそうかな? 瑠璃様が貴様を訪うのはだな、あくまでも砲術を学ぶため。その瑠璃様の向学心を失考し、ほんのり期待しておるのだろう? えぇ?」

 ちろりと眉を上げる鳴海に、傍らの瑠璃も強張った顔で銃太郎を見遣る。

「な、何じゃ、私に何を期待しておる……? 餅菓子は持参出来なんだぞ……?」

「いやだから、ないです! 唐突にまともそうなお説教をしないで頂きたい! 瑠璃が真に受けてるでしょう!?」

「フヒヒッ。瑠璃様はご幼少の砌から、大きくなったら鳴海のおよめさんになる! と仰せなのだ。娘を誑かして貰っては困るぞ」

「いや、娘ではないし、そんなことを申した覚えもないがの」

「瑠璃様はお黙らっしゃい!!!!」

「プェっ!?」

 鳴海の一喝に、瑠璃は素っ頓狂な声と共にびくっと肩を震わせる。

 そして素直に黙るところを見ると、気の強い瑠璃も、不意の叱責には従順になってしまうらしいことを知る。

 突然怒鳴られたことで、瑠璃の目に珍しくきらりと光るものが滲んだようだった。

 それが殊更に憐れで、まるで自身が傷付けられたかのように胸が痛む。

「大谷殿、何もそう強く叱らずとも良いではありませんか」

 その瞬間、瑠璃が味方を得たとばかりに銃太郎の腕にしがみ付き、その背に隠れるように身を寄せた。

(!? ものすごく頼られている……!!)

 鼓動が俄かに跳ね上がるのを感じたが、それは次に見た鳴海の得も言われぬ形相によって、飛び跳ねた状態で瞬時に凍り付く。

「貴様……銃太郎……」

「いやいやいやいや大谷殿!? 私は何もしていな──」

 今の一瞬で、鳴海の双眸を支える下瞼には、一気に深い隈が出来たようだった。

 ついでに瞳孔も開きかけていて怖い。

「何もせずに瑠璃様がこんなに懐くわけがなかろうが? ぉん?」

「いや、あんたが怖いからだと思いますよ!?」

「怖いだと!?」

 くわっと両目を見開き、鳴海は畳に拳を叩き付けて憤慨する。

「この私を!? 瑠璃様が!?」

 叩いた衝撃が空気を震わし、背後の瑠璃が一層強く銃太郎の背にしがみ付いた。

 因みに鳴海が持っていたはずの茶碗は、既にどこかに消えている。

 茶筅だけは、むっくりふんわりとした泡の塊をつけたまま、鳴海の手にぎっちりと握られていた。

 中身も絶対その辺に零れている。

 その前に、抹茶ってこんなに泡立つものだったっけ。

 一体何を飲まされようとしていたのか、考えるのも恐ろしい。

「だだだ大体ですね! 稽古をつけるにしても、大谷殿は剣の指南役ではないのですか!」

「そっ、そうじゃそうじゃ! 鳴海が茶の湯だなんて、とうとう気でも違うたかと思うたわ!」

 ついに瑠璃も声を発したが、威勢がいい割には一向に背後から出てこようとはしない。

 銃太郎を盾に安全圏から吠えているのは、やっぱりまだちょっと脅えているからだろう。

 その証拠に、鳴海が反応してぎろりと瑠璃をひと睨みすると、すぐさまひゅっと顔を引っ込める。

「うぅぅ銃太郎殿ォォォォォ……」

「ちょ、いや瑠璃もおっかないんだったら無理して吠えないでくれ……」

 その分の被害がこちらに向くのは明らかである。

 鳴海の一睨で撃沈するくせに、銃太郎という味方がいると思って、些か調子に乗っている感じがひどい。

 しかし。

(私の庇護下にあれば安心、という信頼あってこそ、か……)

 我ながらだいぶちょろい気もするが、気になるおなごにここまで頼られて、放り出すわけにはいかなかった。

「瑠璃。ここは私に任せて、隙を見て裏から逃げなさい」

 渾身の男前振りを見せようと、銃太郎は声を抑えて背後に言う。

「んな!? し、しかしの、銃太郎殿を見捨てるわけには──」

「その代わりに。まっすぐ城へ行き、御城代に報せて貰えるか」

「内藤殿に、か……?」

 瑠璃が怯んでしまった今、城に捕獲を依頼するしかない。

「頼んだぞ」

 守るだけでなく、あくまで共に事を為す、というところがミソである。

「さて、大谷殿。折角の茶が台無しです。生憎と風流には少々疎いもので、今一度ご指南賜りたいのですが……」

「チッ、しようのないやつだ。今度こそ瑠璃様にちょっかい出すなよ、貴様」

「………」

 

   ***

 

 一方、城内。

 台所や雑部屋の更に奥に、御茶道方の道具部屋がある。

 その部屋から出たところで、大城代・内藤四郎兵衛は、家老座上丹羽丹波に遭遇した。

「おや、斯様なところで如何なされました」

 丹波がこんな場所にまで来ることは滅多にない。

 この辺りは御膳番や小姓衆の詰める一画で、高位の役にある者がそうそう出入りするような場所ではなかった。

 内藤はと言えば、大城代という所守りの最高職に就いて長く、やはり家柄で言えば大身である。

 が、同時に茶人としての側面もあり、時折こうして茶道具を眺めがてら自ら手入れをすることもあった。

 故に今日も道具部屋を訪れていたわけだが、予期せぬ人物を見た、という心持ちである。

「いや何、納戸に置いていたはずの茶器が見当たらなくての……。もしやこちらに紛れてはいまいかと」

 丹波は怪訝な顔つきで、腑に落ちないといったふうに首を傾げている。

「中でも気に入りの碗があったのだが……」

「あっ……」

 思わず声を上げた内藤に、丹波はぴくりと反応する。

「おっ? 内藤殿、覚えがおありか!?」

「あぁー……いや、その……」

「? どうなされた、歯切れが悪いのう」

 言えない。

 大谷が突然茶器を貸してくれなどと頼んで来たが、貸したくないので代わりに丹波の茶器を貸した、だなんて。

「……き、今日は茶を嗜まれる予定でござったか?」

「いや、そういうわけではないが」

 そういうわけでないくせに、今日に限って茶器を気にするとか、面倒臭い家老である。

「左様か、ならばそれがしが探しておきましょう」

「いや、それには及ばん。内藤殿の手を煩わすわけにもゆくまい。わしが改め──」

 丹波の手がすっと唐紙の取手に向かう。

「ッびゃあぁあぁぁ!!!?」

 ばちーん!

 と、内藤は咄嗟に全身で唐紙に張り付いた。

「!? なんじゃあ!?」

「いやいやいやいや!! 茶の湯道具は日頃からそれがしが手入れしておりますのでな! よぉーく確かめさせて頂こう!!」

(何っったる窮地……!!)

 部屋の唐紙の合せを封じるように張り付いたまま、内藤はその手に変な汗が滲むのを堪える。

 丹波が益々怪訝に内藤を見ていた。

「どうも様子がおかしいが……?」

「んなな、何も!?」

「内藤殿は隠し事がド下手でござるな」

 白状せよ、と丹波は一歩にじり寄る。

 絶体絶命の窮地に追い込まれ、背筋に一筋、冷や汗が伝った、その時であった。

「四郎兵衛殿ぉぉぉぉぉ!! 大変じゃぁぁぁあ!!」

 という、危急を告げる瑠璃の声が城中に響きわたったのであった。



【後編へ続く】

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