【風に散る短編】深酒

 

 

「出て来い、なるみゃーーー!!!!」

 その日、霞ヶ城の御殿内では、大変な騒動が起こっていた。

 うら若き姫君の、酒癖による大暴動。

 大きな酒樽を抱えた瑠璃の絡みの対象は、平素からその側近としても仕える、重臣・大谷鳴海であった。

 城内中を逃げ回り、鳴海が飛び込んだ先は、御家老の間。

「たたっ、丹波殿っ! お匿いくださらんかっ! や、殺られる……ッ!」

 必死の形相で転がり込んだ鳴海の前には、一人涼しげな顔で書を嗜む家老座上・丹羽丹波の姿があった。

 どうやら今、ここに詰めているのは丹波のみであるらしく、他の家老らの姿はない。

「ほほう、大谷。瑠璃様と鬼ごっこか? 楽しそうではないか」

「ば、馬鹿を申されるなッ! きき今日の瑠璃様はただの瑠璃様ではございませんぞ!?」

 ふふ、と軽く笑う丹波に対し、鳴海はその身に迫る危機を身振り手振りで話し出す。

「あれは……あの泥酔振りはッ! 鬼のようでござるうッ」

「ふむ、御酒をお召しになったとな? まあ、瑠璃様も御酒くらい嗜まれても良いお年頃ぞ」

「ととと兎に角、どこか隠れるところはござらんか!?」

 そうこう説明する間にも、瑠璃の喚き散らす声が向こうから差し迫ってくる。

 ここも直に見つかる。

 そんな鬼気迫る鳴海の顔が丹波に通じたのか、漸く丹波もきょろきょろと隠れ場所を探し出した。

 と、御家老の間と中庭を隔てる縁側へ、ついと顔を向ける。

 そこで視線を留めると、丹波はぽんと膝を打った。

「すぐ隣に雪隠ならあるが、そこではすぐに露見しよう。だがどうだ、雪隠の下に潜れば易々とは見つかるまい!」

「くうッ! 有難……え? 下? 雪隠の下!?」

 つまり、肥溜めか。

 と、鳴海はようやっと気付いた。

 ここにいるのも、敵だったらしい。

「にゃるみゃーぁああああ!!!」

「キャーーーーーっ!!!」

 突如、鳴海の背後でぴたりと閉じ合わせた襖戸が、内側へと豪快に蹴倒された。

 長い歳月で重ね張りを繰り返した、重く分厚い襖の下敷きになるのを、鳴海は寸でのところで躱す。

 これも無論、酩酊姫君の仕業である。

 どこに放り投げて来たものか、瑠璃の腕には今、酒樽はなかった。

 だが。

「にゃるみィイイっ!! 見ィいーつけたァア!!!」

 どろんと垂れ下がった目と、にんまりと歪められた口元。

 それは、鳴海が普段見慣れたちょっと生意気ながらも可愛げのある姫君ではなかった。

「わらしのしゃけの相手をすると申したのはァ、そなたじゃろォう?? 逃げるとは卑怯なりぃぃぃ!!!」

「ししししかし瑠璃様っ! 少しばかり御酒が過ぎるようで……ッ」

 ちょっと腰の抜けた鳴海の前に屈むと、瑠璃はやおら鳴海の胸ぐらに掴みかかる。

「ヒイ! ごめんなさいッ……!」

 思わず心から謝ってしまった。

「おやおや、瑠璃様。ちと呑み過ぎでござろう。しっかり大谷に面倒見てもらいなされ」

「丹波殿ったらッ! 私の手にも負えぬから、こうして此処まで来て……」

 恨みの眼差しを丹波に向けようとした、その時。

 鳴海の視界一杯に、瑠璃の額が急接近した。

「!?」

 ゴリ。

 と、鈍い音が響くと共に。

 鳴海の鼻っ柱に衝撃と激痛が走った。

 顔面に。

 鬼のような頭突きが。

「うおおっ、流石に大丈夫か、大谷っ!?」

 ぐらぐらと視界すら揺れる中で、丹波が漸くこちらの身を案じた様子。

「……うう」

 強烈な疼痛に襲われ、鳴海は思わず鼻を押さえる。

 無論、鼻血も出血中。

 目も回る、回る。

「おい、大谷! しっかりせぬか! 瑠璃様も正気にお戻りくだされ!」

 丹波の腕に縋りつつ、鳴海は朦朧とする意識の中で、最後に瑠璃の不気味な微笑みを見た気がした。

 

   ***

 

 数刻後。

「はあああああっ!!!」

 飛び跳ね起きた鳴海の正面に、ちょこりと正座する瑠璃の姿があった。

「ヒイ! 瑠璃様っ!」

 先ほどの記憶も生々しく、鳴海はその姿にぎょっと身を竦める。

 その正座の姿勢のまま、再び頭突きが飛んできたらどうしよう。

 などと考えてしまうくらい、自分が怯えているのが分かった。

 やや身を退いた鳴海の前で、瑠璃は俯いたままぽつりと口を開く。

「にゃるみゃ」

「ぎくー! まだその呼び方っ!」

 大人しくなったようでも、まだ酒は残っているらしい。

 ゆっくりと顔を上げる瑠璃。

 その頬は、今以て異常なまでの赤みを帯びている。

 今、密室に二人きり。

 唯一頼りにしていた丹波の姿もなかった。

(み、見捨てたな、丹波……!)

 何となく恨みがましく心で吐き捨てながら、鳴海は静かに瑠璃の様子を窺う。

 すると。

「にゃるみゃあああー……ごべぇえええええん!!!」

 突如、瑠璃はどっと泣き伏して鳴海に詫びたのである。

「え、ちょっ……! 瑠璃様!?」

 どうした、とその肩を支えてやれば、瑠璃は涙でぼろぼろの顔を鳴海に向ける。

「にゃるみゃーが、鼻血を出したのはっ、わらしのせいれすー!! うおおおおおん!」

 おうおうと泣きじゃくる様子は、嘗て見ないほど子供染みている。

 その泣き方は姫君としてどうかとも思うが、一応頭突きの反省はしているらしい。

 そうと思えば、こんな小汚い泣き方も可愛く見えてしまうから人間の心理は恐ろしい。

「ま、まあまあ瑠璃様。私ならば無事ですから、何もお泣きになることは……」

「わらしはっ、なんてぇ事をしたんれしょぉぉおお!!」

 びいびいと喧しく慟哭の声を上げており、鳴海の目覚めたそこは既に大反省会場と化していた。

 歳の差は親子ほどの開きはあれど、元々こちらは姫君である瑠璃に付き従う身。

 ここまで大泣きされると、かえって困惑してしまう。

 あわあわと狼狽しながらも、何とか瑠璃を宥めようと試みる。

 が、鳴海が慰めを口にする毎に、瑠璃は号泣するのだった。

(まずい…! このような場面を誰かに見られたら……)

 きっと姫君を虐めただの何だのと、濡れ衣を着せられるに違いない。

「うおぉーんっ」

「瑠璃様っ、いい加減に泣き止んで下さい! 私が悪者にされてしまうではございませんか!!」

 と、居ても立ってもいられずに、そう声を大にした、その時。

 締め切っていた唐紙が、一気に開け放たれた。

「!! るるる瑠璃様は酔っておられ……!」

 慌てて弁解を述べた鳴海の前に現れたのは。

「ウヒィ! でかした鳴海殿!」

「ハ?」

 泣きじゃくる瑠璃を一見して、にっこりと微笑む、志摩。

「姫ったら、呑み過ぎですよー」

「うるひぇー、志摩のアホーん!! うおぉん!」

「うふふふふ! 慟哭する姫君っていうのも可愛いよね!」

 ほんのりと赤らむ志摩の頬。

 心から愛でている証である。

「しまげ、どうでもいいが、何しに来た貴様」

 鳴海が倒れたからと言って、わざわざ見舞いに来るような男ではない。

 寧ろ、泥酔しているという瑠璃を眺めに来たのか。

 様々に勘繰ると、志摩は床の上に座する鳴海の正面に滑り込んだ。

「ヤキモチですかな、鳴海殿? 私が姫君ばっかり褒めるから?」

 気色が悪い。

 何が哀しくて妬きもちなどやかねばならない。

 ぞっと背筋に悪寒が走ると同時に、志摩の指がつつつ、と鳴海の鼻筋を擬えた。

「心配召さるな、鳴海殿も可愛らしいですぞ……!」

「ヒィ!!?」

 くすっと小さく吹き出す志摩を前に、鳴海は言い知れぬ恐怖を覚えた。

「きき、貴様っ、そんな趣味があったなんて、聞いてないぞ!!」

 咄嗟に身を退けるも、志摩は執拗に鳴海の腕に絡み付いてくる。

「酷いですな、日頃も仲睦まじくしてくれているではございませんかー」

「しっ、しとらんわい!! ていうか、瑠璃様の前でっ! や、やめ…!!」

 いやに唇を尖らせて、こちらに迫り来る志摩を押し退ける。

 その途端、鳴海の鼻を、ふっと掠める芳しき香り。

「! 志摩、まさか貴様も酒をっ!?」

「酷いでござるぞ鳴海殿~。こんなか弱い志摩ちゃんを突き飛ばすだなんて……」

「か弱くないわ!! 自分で志摩ちゃんとか言うな!」

 ぞぞりと身震いしながらの、必死の抵抗。

 お肌は鳥のようにぶつぶつである。

 諦め悪く、酒癖も悪く、志摩は再び鳴海に向けて、その厳つく節張った手を伸ばす。

 と、その刹那。

「にゃんこはわらしのもんじゃ! 志摩なんかあっちに去ねぇぇい!!」

 声高に叫ぶ瑠璃の張り手が、志摩を襲ったのである。

「いったあーい!! 姫君酷いっ!」

 瑠璃の細腕にあっけなく弾き飛ばされる志摩にも驚きだが、もう一つ。

「え、何、瑠璃様もしかして今、にゃんこって仰った? 私のこと、にゃんこってお呼びになったッ!?」

 志摩と瑠璃と、一体どちらから突っ込んで良いのか判断に窮したが、やっぱり常から気になる瑠璃のほうに突っ込みを入れてしまった。

 が、そうすれば、今度は志摩が突き飛ばされて横倒しになった姿勢から鳴海の袖を引っ張る。

「鳴海殿がにゃんこなら、私は一体、何になれば良いのでござろ……?」

「知らんわ!! 瑠璃様に訊け!」

 執拗に引っ付く志摩を、やや手荒に振り解けば、その手は次いで、瑠璃の着物の裾に伸びる。

「姫君、志摩ちゃんにもあだ名を下されえええ」

「ホゲぇー?」

 志摩をぼんやりと見遣る瑠璃の目は、既に焦点が合っていないようである。

 が、少しして、漸く志摩に焦点を合わせたかと思った、その瞬間。

 瑠璃は突如、ケタケタと甲高い笑い声を上げ出した。

「ぴょんこじゃ!!」

 笑い声の途中にそう叫び、高笑いは次第に勢いを増していく。

 ケタケタどころか、だんだんゲタゲタ笑いに変化しているように聞こえた。

「ぴょんこ! それは! 兎さんでござるか姫君!」

 何の名誉もないあだ名に、志摩は喜びの表情を浮かべた。

 更に、ぴかぴかの笑顔の志摩は、鳴海を振り返る。

「鳴海殿っ!」

「よ、良かったな……瑠璃様にお礼申し上げ──」

「バニー志摩へようこそ!」

(助けて母上……!)

 ときめきの視線を力一杯ぶつけて寄越し、腕にしがみ付いてくる志摩をどうする事も出来ず、鳴海はほんのりと涙ぐむ。

 そして。

「うおおん志摩ぴょんこ、抜け駆けは許さんぞぉい!!」

 何故か、普段は鳴海を鬱陶しがるばかりの瑠璃までもが。

 がっしりと、鳴海のもう一方の腕にしがみ付いてきたのだった。

 両腕を押さえられ、身動きすら叶わぬとあっては、もはや言葉で宥めるしか方法はない。

「も、もう、さすがに落ち着かれては如何……」

 と、力なく言いかけた時。

 開け放した唐紙の傍に。

 いつの間に訪ねてきていたのか、銃太郎と目が合った。

 愕然と立ち尽くしたままの銃太郎。

 ややあって、銃太郎の口が微かに動いた。

「……瑠璃が大谷殿に乱暴を働いたと聞き、シメシメと思って見舞いに来たのですが」

 台詞に本音がぽろりと零れている。

「そうですか、そういうことですか! どうせ城では毎日そうしてじゃれ合って……っ!!」

「んなっ! 待たんか銃太郎、それは誤解でっ…!」

「瑠璃の馬鹿っ! 年頃の女子のすることじゃないだろう!? んもー、離れなさいっ!!」

 鳴海の説明も待たず、銃太郎は、未だ鳴海に絡みついて離れない瑠璃に掴み掛かった。

「瑠璃ィィ! よく見なさい、それは大谷殿だぞ!?」

「あーん? うるひぇえ!」

「ッキャイン!!」

 必死の形相で瑠璃を引き離そうとするが、銃太郎はいともあっさりと瑠璃に跳ね除けられる。

 どうやら、瑠璃の場合は酒を飲むと腕っ節が強化されるようである。

「ブヒヒヒヒヒヒヒ!!」

「瑠璃様そんな笑い方しちゃ駄目ェェェ!!」

 

   ***

 

 耳に心地よい雀の声が聞こえ、瞼裏にまで届く光が己の血潮を赤々と見せる。

(……朝か)

 朝の清々しい気配に癒されながらも、身体はぐったりと憔悴しきっているようで、鳴海は重怠さの中に目覚めた。

 ぱちりと目を開けた先には、やや心配そうに覗き込む、丹波の顔があった。

「大丈夫か、大谷」

「丹波殿っ! 何故ここに…!?」

 咄嗟に起き上がると、丹波も更に怪訝な眼差しを向けた。

「あれから二晩も魘されておったぞ。なにやら時折、ばにーばにーと譫言を申して……」

「ばっバニー!? で、では、あれは全て夢かっ!!?」

「お主もそろそろ、おつむが弱くなったようだのう。それとも、瑠璃様の頭突きの所為か……はたまた単にお主の願望か……」

 丹波がしみじみと呟くところへ、ひょっこりと現れた人があった。

「おお、鳴海殿。もう具合はよろしいのかな?」

「!!! バニー殿っ!!?」

「……何の事か存じませんが、鳴海殿は私に何を望んでおいでだ……?」

 

 

 この後数日間、鳴海は瑠璃のみならず、志摩からも身を隠すようにひっそりと身を潜めて過ごしたという。



【了】



※この作品は2010年以前(たぶん)くらいに書かれたものです。筆者本人がPCの奥深くから掘り起こして読み返し、泡吹いて倒れたのでここに公開します。

 

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