【風に散る短編】木村道場の禁書
春先ながら、まだ身を刺すような風の吹く午後だった。
火の気のない道場の板張は、さしもの銃太郎でも身体の底から震えがくる。
間口三間、奥行六間の狭小な道場にも、隙間から吹き込む風で冷え切っていた。
入って手前の長押には門人の名札が下げられ、上段には父貫治の門下が、下段には銃太郎が新たに募った門人の名がずらりと並ぶ。
その奥には武具掛に積み上がる小銃と、手持ち筒が置かれ、時にはこの場でその仕組みや用語の説明も聞かせることもある。
特に銃太郎の門下生たちは年端もゆかない少年たちとあって、そうした物に興味を惹かれて止まないらしく、触りたがり、撃ちたがることも多い。
そんな門人たちの中でも、一層鼻息荒く目をぎらつかせている者が、二人いた。
一番弟子の座を争う、篤次郎と瑠璃である。
ほんの十三歳の少年と、それに本気で対抗しようとする、大人気のない十七歳の姫君だった。
(いやまあ、成績を競う、というのなら好ましいものなんだが……)
先日は取っ組み合いの喧嘩をやって、篤次郎が瑠璃に噛みつくという椿事が発生した。
歯型はくっきりと残ったが、幸い大事には至らなかった。
姫君という割に随分と破天荒で、無茶をやる。気儘な姫君の傅役を担っているような気がしてしまうのも、無理からぬことだ。
そんなこんなで、門弟を募ってからというもの、肝の冷える日々が続いていたのだった。
***
「銃太郎殿ー、おるかぁ?」
「!? ……ま、また来たのか」
ただ指南するだけでも荷が勝ちすぎるというのに、瑠璃は暇を見つけては単独ふらりと北条谷の木村家を訪れる。
今日も稽古を終えて一度は帰城したはずが、どういうわけかまた道場に舞い戻ってきた。
「相変わらず寒いなぁ!」
口ではそう言いながら、寒さを吹き飛ばさんばかりの明朗さで、瑠璃はずかずかと道場に上がり込む。
木綿の小袖に袴を着け、さすがにその上に被布を重ねているが、寒さで頬が紅潮し、よく見れば手指もほんのり赤らんでいた。
稽古のあと、一応着替えはしたのだろう。
その思わぬ来訪に呆然としたが、銃太郎ははっとして、それまで手許に開いていた帳面を急いで閉じる。
普段の指導内容を記録するもので、声が掛かる寸前まで筆を走らせていたために、墨も乾ききっていなかったのだが、これを瑠璃に見られるわけにはいかなかった。
許しも得ずに傍へ寄り、瑠璃は首を伸ばして銃太郎の手許を覗き込む。
「勝手に城を抜け出すのはやめなさい。皆がどれだけ心配するか──」
「ああ、それについては心配ご無用じゃ。皆慣れておるのでな」
「そんなことを皆に慣れさせるものじゃないだろう」
「それよりも、それは何じゃ?」
早速に手許に閉じた記録簿を見つけられ、咄嗟に奥へ避けて瑠璃の視界から外した。
の、だが。
「なんで隠すのじゃ? 砲術書か?」
「なっ何でもない。これはそのー、……そうだ! 門弟たちの成績簿のようなものだ! 見せるわけにはいかないからなッ!?」
ちょっと──、いやかなり怪しい挙動になってしまった。
「いや、そうだ! ってそなた、今思いつきましたと言わんばかりじゃな……。その説明で納得せよと申すのか?」
「うぐぅ……」
とんだ撥ね返りの鉄砲玉だが、意外にも聡く勘が鋭いところがある。
瑠璃は尤もな指摘を浴びせると、銃太郎と文机の間に割り込むようにして手を伸ばす。
「ここここれは駄目だ! 絶対に見せるわけにはいかん!!」
死守すべく書物を背に隠せば、瑠璃の手は銃太郎の腕を掴み、引き寄せようと躍起になる。
「人間、隠されると見たくなるものじゃ! 私の評価だけ見せて貰えぬか、あと出来れば篤次郎のも……!」
「余計に駄目だっ! ってやめなさい、危な──」
「ぉわっ!?」
その拍子に瑠璃の体勢が崩れ、銃太郎の腿の上にどさりと倒れ込んでしまった。
重みとも呼べないような重みが圧し掛かり、瞬間、思わず声を呑み込んだ。
その身に触れれば、おなごの柔らかさとその温かな熱が伝わる。
如何に武芸に励んでいようと、如何に男物の衣裳で身を偽っていようと、隠しきれるものではない。
十七という妙齢だ。
既に嫁いでいてもおかしくない歳だろう。
それが今、自分の膝に突っ伏している。
そうと認識した瞬間、頭が真っ白になった。
「す、すまん──」
「いや、私のほうこそ、……すまぬ」
辛うじて声を絞り出したが、弟子を膝に乗せたまま、身体は硬直したかのように動かなかった。
瑠璃も思いもよらぬ体勢に驚いたか、同じく動きを止めたままだ。
そうして。
「御免!! うちの瑠璃様が邪魔しておらぬか!?」
どん、と道場に踏み込む音と共に、無駄に精悍な男の声が聞こえた。
「!!!」
聞き覚えのあるその声にびくっと身体を震わせると、膝の瑠璃も漸くそろそろと上体を起こす。
が、それでもまだ銃太郎は身動ぎ一つ出来ずにいた。
「………」
「………」
「何じゃ、鳴海か。そなたはいっつも嗅ぎ付けるのが早過ぎるぞ」
そうなのだ。
たった今、たぶん絶対に衝撃の場面を目撃したであろうこの余計な訪問者もまた、瑠璃を弟子にしてから頻繁に覗きに来るようになったのである。
「貴様、誰の許しを得てその方をお膝に乗せているか……とくとご説明頂こうか……」
「……お、大谷殿。今のはええと、事故? です。いいですか、事故なんです」
道場の入り口に立ち塞がり敵意を撒き散らかす鳴海のほうへゆっくりと首を巡らすが、心なしか首の筋がぎしぎしと軋んだ気がした。
案の定、鳴海は絶句したまま、この世のものとも思えぬ憤怒の形相でこちらを見下ろしている。
「……さァて瑠璃様。そこの不埒者を成敗致しますので、少々お下がり頂けますかなァ……?」
その怒気で、鳴海の周囲に陽炎が立つのが見える。気がする。
「ごっ誤解です、大谷殿……」
瑠璃に関わると、いつもこうだ。
その突拍子の無さから驚きと焦りで揺さぶられ、そして少しばかり浮ついた気分にさせられる。
しかしその直後には、大概こうしてお付の鳴海に冷水を浴びせられるのである。
「待て鳴海、これは私が無理矢理に──」
「むむむ無理矢理に!? にしゃあ、うちの瑠璃様に何をしてくれとんじゃあ!!?」
「いや何も……って、大谷殿、頼みますから瑠璃の話くらい最後まで聞いてあげて!?」
「鳴海は時々話が通じのうて、私も困っていてなぁ。よう言うてくれた銃太郎殿!」
「瑠璃様、お早くこちらへ! 無理矢理押し倒すとは不埒千番、そやつはやはり瑠璃様の師に相応しくはございませんぞ!」
言いながらじりじりと間合いを詰めてくる鳴海の左手が、腰の得物を掴んで鍔裏を押し上げるのが見えた。
「!? 瑠璃っ、一先ず私から離れろ! 大谷殿が──」
「いやじゃ」
「っ……ハァ!?」
「その成績簿を見せてくれたら離れてやってもよいぞ」
鳴海から向けられる殺気で咄嗟に身構えたものの、瑠璃は伏したままの態勢で、がしりと銃太郎の腰にしがみ付く。あまつさえ脅迫まがいの条件を提示する始末だ。
思わず瑠璃の顔を二度見したが、そこに恥じらう色は一切感じられなかった。
寧ろ恥じらいに耳まで熱くしているのは、自分だけのようである。
「な、何を言ってるんだ瑠璃……。大谷殿がな? 今、鯉口を切ったんだぞ? ……危ないんだぞ?」
「よい、よい。慣れておる、慣れておる。あれは本気じゃないから心配要らぬぞ」
勘違いで刀に手を掛ける奴もどうかと思うが、瑠璃も瑠璃で鳴海の奇行に慣れ過ぎである。
「銃太郎、貴様……、この期に及んでまだ瑠璃様を離さんとはいい度胸だ」
「もー、ほれ、早う見せんか」
「ちょっ、こんな狭いとこでやめませんか大谷殿……! 瑠璃も手を伸ばすな、手を!」
にじり寄る鳴海と、成績簿を狙う瑠璃との板挟み。
斬られるわけにもいかないが、帳面を見られるわけにもいかない。
何故ならば。
(指南中にちょっと手が触れて胸が打ち騒いだなんて、本人に読まれるわけにはいかん……!)
一体何を血迷ってそんなことを書いてしまったのかと悔いたが、後の祭りである。
読めばきっと瑠璃から白い目が向けられ、鳴海からの心証も奈落へと真っ逆さまだ。
何が何でも死守せねばならぬ。
「これ以上言うなら門を抜けて貰うぞ!」
「!!! ……んな、なん、じゃと……!?」
苦し紛れに、咄嗟に口を付いて出た一言に、瑠璃は愕然として目を瞠る。
「ほほう、漸く気付いたか。やはり銃太郎のような青二才には、瑠璃様の指南役など務まらんだろう」
「と、兎に角!! これを見せるわけにはいかないし、あと早く私から離れなさい!」
思い切り声を張ると、瑠璃は血の気の引いた顔で銃太郎を一瞥する。
それからするりと腕を解き、膝に乗せた上体を起こした。
と同時に、袴がひやりと冷たい空気を含む。
息のかかるほど間近にいた瑠璃が離れたことを実感し、この状況においても惜しいと思ってしまう。
(大谷殿が来なければ、もう少し親しくなれたのだろうか)
自ら離れろと言っておきながら、内心では真逆のことを思う。
恐らく瑠璃のほうは銃太郎に対して何一つ意識するところがないだろうことは、その振舞いからも明らかだ。
「………」
「は、離れたぞ? これで除籍は無しじゃ! ……いや、無し、ですよね? 若先生……」
俄かに黙り込んだ銃太郎に、微かに狼狽えた様子の瑠璃が問う。
逆鱗に触れたとでも思ったのか、言葉遣いまで改めているときた。
家中では家格の上下を問わず、師弟間、兄弟弟子の間での序列が優先される。
それに準拠すれば、弟子の瑠璃が師たる銃太郎を敬うのは当然で、普段の砕けた語調のほうがおかしいのだが。
「鳴海も早う刀を仕舞え」
いつの間にか抜身を構えていた鳴海に、瑠璃がにべもなく命じる。
危ないところであった。
どの時点で鞘を掃ったのか、全く気付けなかったのが恐ろしい。
「チッ、命拾いしたな。今後あのようなことがあれば、問答無用で斬り捨てるぞ」
「……鳴海はもう少し私の話を聞かんと、その首を飛ばすぞ」
「!? 瑠璃様ひどい!!」
暴走気味な側近に難なく箍を掛けた瑠璃は、言葉とは裏腹に和やかな語調である。
長年の信頼関係が盤石に築かれているからこその、主従のやり取りだった。
やがて、瑠璃はその場に膝をつくと、静かに床に顔を伏した。
「成績簿は気になるが、除籍されては意味がない。若先生、少々度が過ぎた振舞いでした。申し訳ありません」
「あ、……いや、そこまでする必要は──」
元はと言えば、自分が要らぬことを書き込んでしまったせいで拗れたのである。
こうも潔く謝罪されると、後ろめたさが増幅してしまう。
「除籍などしないから、顔を上げてくれ」
「本当に?」
低頭したままの姿勢で、瑠璃はそろりと銃太郎の顔を見上げた。
「ああ。瑠璃は私の弟子だ」
「そうか! じゃあいずれその秘伝の書も見せて貰えるかの!?」
「それは駄目だ! 無理だ!!」
「……チッ」
「!? 姫君が舌打ちとかやめなさい!?」
側近が側近なら、主人も主人である。
呆れた主従ではあるが、そうした些細な共通点にさえも、どこか羨むような感情を覚えてしまう。
除籍など、出来ようはずもない。
唯一、瑠璃と自分とを繋ぐものは、砲術の指南のみである。
そのたった一つさえ失ってしまえば、恐らく瑠璃以上に自分の胸が痛むであろうことは、もう分かりきっていた。
「ではまた明日からも、宜しくお願いします!」
翳りの一つもなく、また悪びれることもなく笑う瑠璃に、苦笑して頷くほかはなかった。
***
(今日のところは乗り切れたが──)
あの瑠璃のことだ。
きっとまた成績を見せろと言ってくる。
その前に、問題の箇所を塗り潰しておかねばならないだろう。
今度こそ道場に一人きりになったのを入念に確かめ、筆を執ったのであった。
件の一文を筆先で塗り潰し、気を取り直して弟子それぞれの不得手や癖を思い起こしつつ、今後の指導に役立ちそうな点を書き起こす。
筆を走らせ始めて、暫く。
(……駄目だ)
銃太郎はカタリと筆を置いて項垂れた。
(なんっで私は日記を書いているんだ……)
気付くと眼下に開いた書面には、膝の上に突っ伏し、胴にしがみ付いてきた瑠璃の様子が詳らかに記されていたのである。
(もう、覚書とか書くのやめよう……)
我ながら呆れた重症振りにどっと重い息を吐き、銃太郎はぱたりと書付を伏せたのであった。
以後、瑠璃によって木村道場に存在する謎の禁書として、弟子たちの間に噂されるようになる。
それはやがて弟子たちの様々な憶測によって、外国語で書かれた砲術の極意書であるとする説や、道場を継ぐ者にのみ閲覧を許された奥義書であるとする説が、実しやかに囁かれるようになったのであった。
【了】
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