【水鏡短編】母の日

 

 

 元治二年。五月のある晴れた某日。

 尾形はふらりと副長室の前を通りかかった。

 と、ちょうど副長室の障子戸の前を過ぎようとした、その時。

「尾形さん! ちょっとちょっと!」

 待ち伏せていたかのように、突如室内から伊織が飛び出した。

 だが、尤もここは副長室の前。

 特に驚くこともなく、尾形は冷静に振り返った。

「何だ。何か用か?」

 見る限り慌てて出てきた様子であるし、一応そう尋ねる。

 すると、伊織はひょいと跳ねるように、尾形の真正面に立ち塞がった。

 いやに機嫌の良さそうな、その笑顔。

 何かありそうだ、と、尾形は一発で勘が働く。

 すると口を挟む間もなく、伊織は勢い良く尾形に向けて深々と頭を下げたのである。

「尾形さん! いつもありがとうございます!!」

「は?」

 暫くお辞儀の姿勢を取っていた伊織も、やがて顔を上げ、ただにんまりと微笑む。

 突然礼を言われるとは思いも寄らず、尾形はただ呆然とその目を見返した。

「何か、私にして欲しいことってないですか?」

 変わらず、頬を染めて言う伊織。

「ど、どうしたんだ、お前。いきなり……」

 これが突拍子も無いことは既に尾形も知るところではあるが、まさかいきなり面と向かって日頃の感謝を述べられるとは、考えもしなかった。

「ほら、今日辺り、母の日かなーって思いましてね! だから尾形さんにちょっと恩返しでも……なんて」

(……母なのか、俺は?)

 母の日、というのも何かよく分からないが、取り敢えず伊織の中で、自分は母のような存在として位置づけられているらしい。

 まあ、それだけ身近で大切な存在とされていることは、気分の悪いことではない。

 欲を言えば、どうせ親に喩えるなら、母より父のほうがしっくり来るのだが。

「ねえ尾形さん! 何か欲しいものとか、私にお願いしたいことってないですか!?」

「え? いや、急にそう言われてもな……」

 気持ちは嬉しいが、突然現れて欲しい物やして欲しい事を言え、と催促されても、急に答えは浮かばない。

 尾形が返事に詰ったところで、副長室の中からすっと土方が顔を出した。

「あ、副長。すいません、真ん前で話し込んで」

「尾形君、気をつけろ……」

「はあ?」

 顔だけを覗かせた土方は、いやに鬱々とした声を出した。

「俺ァ去年の父の日とやらに、コイツのお陰で佐々木に肩を揉まれた……」

「それはどういう――」

「君も用心しろよ……」

「あッ、副長!?」

 不審な発言を残し、土方はまたそそくさと引っ込んでしまった。

 父の日に、佐々木の肩揉み。

 それは嫌だ。

 感謝も糸瓜もないではないか。

「もー、土方さんは何でそんな余計なことを言うかなー。私はただ純粋に感謝の気持ちを伝えたいだけなのに……」

 部屋の障子紙をねめつけながら、伊織はさも心外そうに溢す。

 伊織にしてみれば、本人の言う通り、他意も無く感謝を伝えたいだけかもしれない。

 しかし、伊織に絡んだ事に佐々木も混じってくるのは、多分に有り得ることだ。

「いや、俺はお前のその気持ちだけで充ぶ……」

 言い終わるより早く、伊織の手が尾形の腕をがっしりと掴んだ。

「う……」

「やだなー尾形さん! 大丈夫ですよ! 去年はうっかり佐々木さんも呼んじゃったんですけど、今年は呼んでないですから!」

 極めて明るい表情で言うが、伊織の手に入る力も結構本気だ。

 ますます怪しい。

「日頃の感謝ぐらい受け取って下さいよ。そうだ、今日一日、尾形さんの言うことを何でも聞いてあげますよ!」

「な、何でも、って、お前……」

 気持ちだけで良いと言うのに、どうやら感謝を押し売りしないと気が済まないらしい。

 悪意があるわけではなさそうだが、ここまで言われると逆に困窮してしまう。

「ね! いいでしょう? 土方さんもそうだったけど、どうしてここの人って人の厚意を素直に受け取らないんですか?」

「いや、本当に欲しい物とか、して欲しい事はないんだが……」

「なななな何でも言うことを聞く……ッ!? ならぬ! ならぬぞ伊織ッ!!! 尾形に代わって私がお前の母に……!!」

 問答を繰り広げる二人の間に、疾風の如く佐々木が現れた。

 やはり来たか。

 というか、話し振りから察するに、多分どこかでずっと聞き耳を立てていたのだろう。

 最早呆れて言葉もない尾形の前に割り込み、大慌て大興奮で伊織に向かう佐々木。

「私ならば幾らでもお前の感謝を受け取るぞ! して欲しいことも盛り沢山なのだぞ!? 早速一つ良いだろうかッ!? か、肩を揉ませてく――」

「呼んでねえっつってんだろうがよ! 帰れ、この褌の妖精めが!!! ぺッ!!」

 伊織の声がそう叫び、しかも何か唾を吐き掛けたような音も聞こえた。

 すると伊織がすっと右手を高く上げるのが見えた。

「お、おい待て、幾ら何でも殴るのは……!」

 二人の遣り取りから、一瞬伊織が佐々木を殴るのでは、と思った矢先。

「者共! この不届き者を摘み出せ!!」

「そ、そんな! 伊織っ! あんまりではないか! ほら、見ろ! ここに去年お前から貰った肩叩き券がある! 今日こそはこれを使わせてくれ!!」

「黙れ、期限切れだよそんなもん!!」

「っそんな……!!」

「さあ、こやつを叩き出しておしまい!!」

 不思議なことに、伊織の呼び声に応えて周辺の隊士が一斉に佐々木を取り囲んだ。

 打ちのめされたまま連行されていく佐々木を見ると、どうも僅かばかり不憫な気がしてしまう。

 奴もまた、不毛な片恋には苦労をしているのだろう。

 そっと心の中で合掌するに止め、尾形はそれを見送った。

「ね!? ほら、佐々木さん帰っちゃいましたし!!」

「いや、今のはお前、結構やりすぎじゃないのか……」

 口で窘めつつも、そこまでして尾形のために何かしたい、と思っているらしいことは、良く理解できた。

 まあ多少困ったものではあるが、今日一日くらいは伊織の心遣いを受けてやっても良いか。

 何となく、そういう気になった。

「……じゃあ、あれだな。酒でも奢ってもらおうか」

 仕方なく頼むと、伊織は花の綻ぶような笑顔を見せた。

「わかりました! じゃ、今から行きましょう、さあ!!」

 本当に嬉しそうな顔を見せられては、かえって照れ臭くなってしまい、尾形はやれやれ、と苦笑した。


   ***


 ちょろちょろと流れる小川のせせらぎ。

 その横をのんびりと歩く二人の足と、歩行に合わせて揺れる、安酒の入った徳利。

「本当にそれだけで良かったんですか? 折角なんだから、もうちょっと欲を出したって良いんですよ?」

 背後をついてくる伊織が、不意に歩調を急がせて尾形に追いつく。

 元々予想外のことだっただけに、こちらも何を頼んで良いか、深く考える間もなかったのだ。

 適当に入った酒屋で、出来るだけ安い酒を買って貰うことにしたのだが、どうやら伊織はそれだけでは納得のいかない様子だ。

「無理をするな。お前にも何時何があるか分からんだろう。その時に取っておけ」

「でも……」

「俺がもう充分だと言ってるんだぞ」

 未だに、伊織には金銭感覚が曖昧なところがある。

 そう知っているからこそした遠慮だというのに。

 困ったものである。

「お前、時々本当におかしな奴だな」

 おかしい、というか、実に変わったことをする。

 この自分に感謝だ、などと言い出す奴と、新選組の中で出会えるとは。

 慣れぬことで少々むず痒い気もしないではないが、嬉しいものだった。

「おかしいですか? 良いじゃないですか、別に……。それとも」

 と、伊織が足を止めた。

 そして、伊織が急に声音を落としたことに、思わず尾形も立ち止まる。

「――何だ?」

「こういうことって、もしかして迷惑なことなんでしょうか」

 俯いてぽそりと呟いたその声も表情も、これまでに見たこともないほどに寂しそうな影を落としている。

「あ、いや……そういうことはないが……」

「本当に? ……じゃあ良かった!」

 暗い顔に、自分でも珍しく動揺したのだが、否定してやると伊織はすぐに笑顔を戻した。

 思えば、こいつには解せないところが多い。

 母の日やら父の日やら、そういう部分も勿論謎だが、それ以上にもっと、違う何かが。

 再び歩き始めると、二、三歩遅れて歩く伊織が、控え目に声をかけてきた。

「本当は、今もまだ時々迷うことがあるんですよね」

「迷う?」

「ええ。私みたいなのが新選組にいて良いのかなって。別に私、何が出来るでもないのに」

「………」

「どうしてここへ来たのか、何のためにここにいるのか、考え出すと止まらなくなります」

 これもまた、だ。

 だから風変わりだと言うのだ。

 入隊志願で新選組に来たわけではないらしいが、どうもこいつは自分の所在に理由が欲しいらしい。

 無論、今では正式な入隊を経ているし、脱走でもしようものなら即切腹だ。

 あの鬼の副長のこと、伊織も他と同様に処断するだろうな、と尾形は思う。

「まあ、何か訳ありの様子だとは思って見ていた。だが、何にせよ、縁があったから新選組にいるんだろう。縁があったということは、お前がここにいる理由も、成すべきことの答えも、いずれ出てくるさ」

 素っ気無い口調になってしまったが、尾形なりに精一杯慰めたつもりである。

 伊織も、こちらの気遣いを感じ取ってくれたのか、途端に声を明るくした。

「あー、そうですよね! だからこそ、本当に感謝してるんですよ、尾形さん! いつも側に付いててくれて、ありがとうございます」

「……もうそれは分かった、気持ちが悪いからやめろ」

「だって本当ですもん! 一人だったら今頃死んでてもおかしくないですよ、私」

「これからも死なんとは限らないぞ」

「それはそうですけどっ、ですから! これからも宜しくお願いします、師匠!」

「ああ、分かった分かった」

 改まって言われると、これ以上くすぐったいものはない。

 半ば強引に切り上げるように顔を背けると、伊織がくすくすと笑うのが聞こえた。

 まだまだ、こいつの謎が解ける日は遠そうだ。



【了】

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