【水鏡短編】新選組鵺騒動(後)
「じゃあ今夜、私は土方さんのところで寝ればいいんですね?」
「すみません、沖田さん。私の我儘で……」
「あはは、いいんですよ。怖がってる土方さんて、面白いからなあ。私も楽しめるってもんですよ」
土方との約束通りに、寝所の交換を申し出た伊織に、沖田は快く了承をくれた。
しかしやっぱり、その怖がっている土方を囮に使う、とは言えない。
「あの、鵺が襲ってくるかもしれないんで、本当に気を付けてくださいね……」
これが辛うじて言える、精一杯のことだ。
「心配要りませんよ。高宮さんは安心して、寝てなさい。鵺なんて、私が頼政の如く射抜いてみせますから!」
「……あはは」
軽く言う沖田の言葉にも、口だけで笑うのがやっとだ。
何にせよ、近藤の話が恐ろしくてならない。
今夜はきっと、副長室の障子を破って中の土方を覗くのだろう。
そう考えると、その場に居合わせることになる沖田にも、非常に申し訳なかった。
着流し姿で部屋を出て行く沖田の背をしっかりと見送り、襖戸が閉められると、ほっと息を吐いた。
沖田の出た襖戸とは反対の側に建て付けられた障子が、すっと滑る音がする。
振り向くと、昼間の段取り通り、まず尾形が現れた。
「沖田さんは行ったか」
「ええ、今」
「局長と山南さんは」
「まだ来ていませんよ」
言葉短に声を潜め、目配せる。
鵺との決戦は近い。
そう思うと、自然肩に力が入った。
やがて近藤が訪れ、最後に作戦の発案者である山南が顔を揃えると、室内は一層緊迫した空気を漂わす。
たった一つ燈された燭台の灯が、四方の壁に四人の影を闇濃く落とした。
後は、壁を伝って微かに聞こえてくる土方と沖田の声が静まり、鵺がやって来るのを待つだけだ。
「どうしますか、局長。もし、本物の鵺だったら……」
恐れなど微塵も思わせない顔で、尾形が言う。
対する近藤は、でんと胡坐を掻いて腕組みしたきり、鉛のように動かない。
無論、口も引き結んだままで、口数も殆ど無いに等しかった。
「副長と沖田さんだけで、充分事足りると思いますが。俺も起きてなければ駄目ですか」
(うわあ、尾形さん、眠そうだ……)
恐れをなすどころか、ちらと窺い見る限り、尾形の目はとろんと下がり、今にも夢の中へ旅立ってしまいそうである。
同様に山南も何処と無くうつらうつらし始め、既に化け物のことなどどうでも良さそうな雰囲気を、全身から発している。
緊張感の無いこの二名と、逆に恐ろしさで身も竦む思いの近藤と伊織。
それでも山南は、自ら言い出した責任を感じているらしく、うっかり瞼を閉じかければ無理矢理持ち上げて、と繰り返している。
「近頃あまり眠れていないせいか、どうも瞼が言うことを聞いてくれなくてね……。困った困った」
口でそう言いながら、山南は徐にたった一つしかない灯りを吹き消した。
途端、室内には完全な夜の帳が落とされる。
障子を挟んで白々と差し込む、月明かりのみ。
その障子紙には、庭で微風に揺れる木々が、影絵の如く浮き上がった。
「な、なな何で消しちゃうんですか、山南さん……!」
火が消されると同時に、背筋にはざわりと悪寒が走る。
これでは雰囲気満点ではないか。
「いやあ、怖がっているところ済まないね、高宮君。そろそろ消しておかないと、鵺が近付き難いと思って……」
やんわりと詫びる山南を、少し恨めしく思う。
「……っぐほあ!」
「な、何、尾形さん!?」
隣で奇妙な声を発した尾形を振り返る。
と、何のことはない。
ただの欠伸だ。
「随分余裕ですね、欠伸ですか、尾形さん……」
「ホアァ! お前こそ、そんなにガチガチではいざという時に戦えんぞ」
執拗に欠伸をしながら、尾形はそう諭す。
こうも気の抜けた様子を見ると、何となくこちらまで力が抜けてしまう。
「副長ももう、休んだみたいだしな……。もうそろそろ来るんじゃないのか、鵺」
緊張の余り気付かずにいたが、確かに、隣の副長室から聞こえていた話し声も、もう止んでいるようである。
後は、鵺がやって来るのを待つばかり。
欠伸のお陰で一瞬気が弛みはしたが、そう考えればまたすぐに背筋が伸びる。
じっと外の物音に耳を澄まし、件の鵺が啼くのを待つ。
そのまま、四人は輪を成したまま、無言で時の過ぎるのを待った。
***
やがて、小半刻余りが過ぎようとした頃。
遠くから、ゆっくり、ゆっくりと近付いて来るあの声に、その場の全員が身を固くした。
初めは幽けく谺すばかりであった鳴き声も、徐々に徐々に、屯所へと迫り来る。
「来た……!」
誰よりも先に声を上げたのは、近藤である。
カッと目を見開き、恐ろしいまでの形相で畳の一点を凝視している。
ある意味で、鵺より怖い。
しかしその一方では、尾形が何か腑に落ちない表情で首を傾げている。
「この声が、鵺の鳴き声なのか?」
「これですよ、私も毎晩この声に起こされたんですから」
「……何処かで聞いたような声だな」
「ええ? 何処かって……何処で聞いたんですか?」
思わせ振りな一言を発し、尾形はそれを思い出そうとしてか、更に首を捻る。
そうして、やがて例の声が屯所の中庭にまで入った気配。
その時。
それまで深く考え込んでいた尾形が、ぱっと顔を上げた。
「ああ、そうだ。この声、佐々木さんじゃないのか?」
「さ、ささ……!?」
「俺は似ていると思うんだが。お前はそう思わないのか?」
平然とする尾形を、伊織はぎょっとして見詰めた。
まさか。
いや、でも似ているかもしれない。
「すると、昨日俺を覗いたあれも、佐々木殿か……!?」
近藤も意外といった風に目を丸くして身を乗り出す。
もし、そうだとするなら。
狙いは土方ではなく……。
「もしかして……鵺に狙われていたのは、私……?」
伊織一人がこれまで以上に総毛立つのを他所に、周囲の三人はやたらと安堵の表情を浮かべ出している。
「なんだ、そうだったのか。じゃあこの件は、土方君よりも……君が片付けて然るべきじゃないか、高宮君」
相も変わらず温厚な口調の山南。
そうこうする間にも、鳴き声は今やすぐ隣の副長室の前にまで来ている。
「ホントにこの声、佐々木さんなんですか? 片付けるったって、私にどうしろと……」
呆然と呟くと、伊織は三人の顔を見渡した。
どれもこれも、安心しきった、実に平和そうな面持ちだ。
が。
ぐるりと視線を一周させたところで、伊織の目はぴたりと一点に留まった。
「…………」
「どうかしたのかい、高宮君」
「……あの声は、佐々木さんじゃありませんよ」
「何だって?」
まだ、表からの声は響いてくる。
外で啼いているのが本当に佐々木なら、では、今伊織の目に映るこれは何なのだ。
「――だって、佐々木さん、ここにいるじゃないですか……」
抑揚を失くした伊織の声に、他の三人も一斉にそちらを振り返った。
「「「!!!?」」」
愕然とする三人の目にも、それはしっかりと映ったらしい。
いつの間に、本当にいつからここにいたのか、佐々木はいつもの厳格な面構えで正座していた。
「ぬ。何だ、私がどうかしたのか」
驚愕の余りに、声も出せぬ一同。
何故ここに。
いつから混ざっていた。
いや、それよりも。
それでは、外から聞こえるこの声は、誰のものなのだ。
「じじじじゃあ、外にいるの、本物の鵺なんじゃ!!?」
普段ならばまず、佐々木の神出鬼没さに突っ込みを入れているところだが、今回は事が事だ。
まるで予測していなかった事態に、一同は一変して色めき立った。
「おかしい、声はまだ聞こえているのに……」
「やはり本物の鵺だったか……!?」
「まずいぞ、トシが危ない!」
隣室に眠る土方の身に迫る危機を肌に感じ、近藤が大刀を携えて立ち上がった。
「き、きき局長ッ! やめたほうがいいです! 相手は本物の鵺ですよ!?」
「駄目だ、俺が行かねば、トシが食われる……!」
引き止めた伊織の手を振り払うと、近藤は月明かりの差し込む障子戸ににじり寄る。
と、不意に鳴き声が途切れた。
そして、一拍おいて後。
ぎしり、ぎしり、と板張りの廊下を歩む音が響いた。
「ひッ……! こっちに来る!?」
一歩踏み出しては立ち止まり、また一歩踏み出しては立ち止まる。
恐ろしくゆっくりと忍び寄る恐怖に、伊織は竦み上がった。
近藤の動きもそれきり止まっているから、やはり恐怖は格段に増しているのだろう。
「ふふ、鵺、か……。良かろう。この私が頼政役になってやろうではないか」
「ぎゃ!!」
含み笑いを溢す佐々木に、背後から両の肩を鷲掴みされ、伊織は短く叫ぶ。
「私の勇姿、しかと見届けるのだぞ? なれば、お前もきっと惚れ直すであろう!」
「た、退治できるんですか、佐々木さん」
「何を申す! 愛すべきお前一人、この私が守れぬとでも思うか!?」
言うことだけは妙に格好良いが、今はそれどころではない。
退治してくれるというのだから、そうして貰えれば、こちらはそれで大助かりである。
「じゃ、早くやっつけてください」
「うむ。任せておけ。この佐々木只三郎に掛かれば、鵺など敵ではない! 丸腰丸裸だとて倒してくれよう!」
いやに自信たっぷりに、力強く言って聞かせる佐々木。
ちら、と横目に見れば、佐々木の後方に引き下がって顔を強張らせている山南と尾形が視界に入った。
「佐々木さん、あんた、そう言うんだったら、試しに丸裸で立ち向かってもらえますか」
「!? 尾形さん、何を言うんですか、いきなり!!」
佐々木の豪語にさり気なく含まれていた語句を聞き漏らさず、尾形が提案した。
これにはさすがに佐々木も、ぐっと詰ったようだ。
が、どういう拘りなのか、尾形も引かない。
「さあ。我々に見せて下さい。裸の鵺退治を」
「やあ、それは面白そうだ。是非私からもお願いしますよ、佐々木様」
「……ぬうぅッ」
あろうことか山南までもがそれに便乗し始める。
佐々木もそれが嫌ならすぐに断れば良いものを、何故か進退窮まった風に苦悶している。
「別に私は見たくないですよ、そんなもの。ていうか、佐々木さんの丸裸なんて気持ち悪………」
「よし、そこまで言われたからには、私も応えねばなるまい!!」
「え……」
助け舟のつもりで反対意見を述べてやったのに、佐々木はそれさえ撥ね付けて着物の袷を開け広げた。
「しかしながら、伊織の前であられもない格好にはなれぬ。褌一本で良しとせい! さあ脱ぐぞ、手伝うのだ、伊織!」
「嫌ですよ!!! 断ればいいじゃないですか、そんなアホな要望!」
何とか脱ぐのを止めさせようと言い迫る伊織の前でも、佐々木は手際よく着物を脱ぎ捨てて行く。
最後に、すとんと袴を落とした。
「馬鹿か己はーーーッ!!?」
「ぐわああああ!!!」
伊織が叫ぶのとほぼ同時に、突如、近藤の地を揺るがすような叫びが轟いた。
「!!? 局長ッ!?」
咄嗟に振り返るも、その目の高さに近藤の姿はなく、追って視線を迷わせる。
その先に、壁にまで後ずさって張り付いている近藤が見えた。
「でッ、出た! 出たぞ! あれだ!! 全員配置につけ!!」
「局長落ち着いて!! 配置なんて決めてませんよ!!」
普段の三倍も目を引ん剥いているその形相は、世にも恐ろしい。
猛り狂って叫ぶ近藤の、その指し示す先。
「……!!!?」
小さく穴の開けられた、障子紙。
その穴の向こう側。
この世の物とも思えぬ、赤く充血しきった眼が、ぬらりと室内を窺っていた。
「ぬう! 出たか、化け物め! 我は佐々木只三郎なり!! 伊織を愛でる会会長なり!!! いざ尋常に勝負致せぃ!!」
「いつ出来たんですか、そんな会合ーーーッ!!?」
褌一本で声音を昂らせる佐々木を、その眼が捉えた。
その瞬間に。
今まで確かにそこにあった眼が、靄の晴れるが如く立ち消えたのである。
「消えた……!?」
驚きの余りに絶句する一同の中で、割合に平然と声を出す尾形。
次いで間も開けずに、尾形は押っ取り刀で障子を開け放ち、廊下に躍り出た。
「―――いない!?」
迅速且つ勇気ある尾形の行動に賞賛を送りながらも、伊織は背に走る悪寒を止められずにいた。
「ぬ! この私に恐れをなし、逃げ出したか! フン、臆病者め!」
一体、あれは何者なのか。
何処へ消えたのか。
本当に鵺なのか。
取り敢えず佐々木は服を着ろ。
思うところは止め処も無く溢れてくるのに対し、伊織はそのどれも、ついぞ声に出して言うことは出来なかった。
***
翌夕、伊織は再び副長室へと戻った。
あの騒動から一夜明けて、もう大分気持ちも落ち着いてはきている。
だが、障子紙の穴から覗いた、あの真っ赤に充血した眼だけは、どうにも瞼から離れなかった。
「結局、昨日だって何も出なかったじゃねえか。ああ?」
仏頂面とも、余裕の笑みとも取れる表情で迎え入れる土方。
あの騒ぎの中、土方も沖田も、一度さえ目を覚まさなかったようなのだ。
「やっぱりな。おめぇの聞き間違いだ」
「…………」
土方に言い返したいのは山々なのだが、結局声の正体も明かせぬまま。
それ以上に、昨夜の出来事を口にすることも恐ろしくてならなかった。
憔悴してふら付く足取りで土方の前にまで行き、そろりと腰を降ろす。
と、土方の眉が急に顰められた。
「んなこたぁ、どうでもいい。ありゃあ一体、何のつもりだ」
思い切り渋い顔で表を顎で示す。
それでも黙っていると、やがて痺れを切らせたのか、土方が怒号を上げた。
「何で俺んとこの縁側に、褌一本の佐々木が立ってんだよ!!!? ああ、おい!? 聞きゃーおめぇが立たせてるそうじゃねえか!!」
「だってッ……! 怖いのならそうしなさいって、山南さんが!」
「冗談じゃねえ! あんな汚ねぇもん、とっとと片付けろってんだ!!」
「でも怖いですし……! あれで魔よけになるなら、それも良いと思って!」
「土方君、見苦しいぞ! 可愛い伊織のためを思えば、この程度のこと、何でもないわ!」
「あんたァ黙ってろ! 見苦しいのはそっちじゃねえか!」
「お願いします、土方さん! 数日したら元の場所に返して来ますから!」
「ふふん! それ見ろ! 悔しければこの白羽二重の褌を剥ぎ取って見ぬか!」
「斬られてえかコラァーーーッ!!!!」
「すっぽんぽんだぞ、スッポンポン!」
その後、副長室の縁側には三月もの間に亘って、白い褌を夜風にはためかす佐々木の姿があったという。
【了】
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