【水鏡短編】新選組鵺騒動(前)
真夜中、伊織は奇妙な風音に目を覚ました。
まただ。
また、何かが啼いている。
風の音と思しきそれは、よくよく耳を澄ませば、何か得体の知れぬ動物の鳴き声のように聞こえる。
このところ毎夜のように、それは屯所の中庭に来て、鳴き声を上げている。
狭い岩間を吹き抜ける風のような、その声。
さして騒がしいものでもなく、どちらかと言えば物静かに、寂しげに響く。
それだけに、聴けば聴くほど気味の悪い声だった。
衝立の向こうからは、いつもと変わらぬ土方の安定した寝息がある。
もう毎晩のようにこの声に起こされる伊織としては、目も覚まさない土方が不思議でならなかった。
猫か何かだろうか、と、障子を引き開けて確かめようとしたことも、幾度かある。
だが、そういう時に限って、いざ開け放とうとする瞬間に、声は止んでしまうのだ。
おや、可笑しいな、と部屋の中で訝っていると、また微かに聴こえ始める。
この繰り返しなのだ。
初めは特別怖いと感じることもなかったが、それが毎夜決まって丑三つ時に目覚めてしまうと、徐々に徐々に恐怖心も増していくものだ。
(やだなあ……ほんとに何の声なんだろう)
障子に手を掛けて、また声が止むのも恐ろしい気がして、伊織は頭から布団を被る。
それでも、人間の聴力とは不思議なもので、聴きたくないものにほど、余計に澄まされてしまうのだ。
あれは、一体何の鳴き声なのか。
余りの気味の悪さに、伊織は身を縮ませ、固く目を瞑った。
***
「朝っぱらから、なんてえ辛気臭え面してやがる」
殆ど一睡も出来ぬまま、ふらふらと起き出すと、開口一番に土方が眉を顰める。
度重なる出来事にすっかり不眠症のようになってしまった伊織は、ただぼんやりと土方を眺めた。
「……しょうがないですよ、昨夜も眠れなかったんですから……」
もう口を開くのさえ、億劫になる。
そういう自分とは対照的に頗る血色の良い土方が、若干嫉ましい。
「物の怪の声の所為で、このところさっぱり眠れないんですよ」
付け加えて打ち明けると、土方の顔はますます怪訝そうに歪められた。
「はああ? 物の怪だァ? 馬鹿馬鹿しい。だいたい俺と同じ部屋で寝てて、何でおめぇばかりがそんなもんを聴くんだよ。俺ァ一度だって聴いたことがねえ」
「えー? あんな気味の悪い声に気がつかないなんて、土方さんこそおかしいですよ」
まるでこちらの気のせいだとでも言わんばかりの土方に、伊織は本音をそのまま口に出してやる。
そもそも、寝不足でふらふらと弱っている身体を気遣う一言も無い。
それがどうも気に障るのだ。
「物の怪なんかいやしねえ。大方、猫の声でも聞いたんじゃねえのか」
「違いますよ。あれは猫なんかじゃないです」
「猫じゃねえと何故わかる。猫でなけりゃ化け猫だ」
「そんな、鍋島騒動でもあるまいし……」
正体を見たわけではないが、毎晩耳を澄ませていれば、それが猫の鳴き声でないことくらいは判別がつく。
多分、化け猫でもない。
むっとねめつける伊織に、流石に奇妙さを覚えたのか、土方は僅かに表情を真顔に戻した。
「どんな声だって言うんだよ」
「どう、と言われても……こう、すすり泣く様な、或いは遠吠えの様な……」
あの気味の悪さを的確に表現する言葉が思い付かず、伊織はあれこれと形容を試みる。
「だから、何て鳴いてんだよ」
確実に言えることは、ニャア、ではないということだ。
口真似するならば、
「のォーん、のおォーん……って」
そういう鳴き声に聴こえる。
すると、それまで調子の良さそうだった土方が、さっと青くなった。
「おい、伊織」
固まったまま、土方が口だけを動かした。
「何ですか? やっとわかってくれました?」
「馬鹿。そいつはなぁ、きっと鵺だ」
「はい? ……ぬえ?」
奇妙な単語を耳にし、伊織は目を細めて土方を見眇める。
「鵺、というと……?」
「昔々、源なんとかってぇのが、退治したっていう、化けモンだ。決まって夜中に啼くなんざ、そうに違いねえ!」
化け物。
と、何時になく深刻な顔で土方は言う。
(さっき馬鹿馬鹿しいとか言ったくせにさ……)
確かに、昔話だか何かで、何とかの鵺退治、というのは聞いたことがあるような気もする。
記憶も朧げながら、多分土方の言うように、何か動物のいろいろ混ざったような化け物のことだ。
しかし、こういう物の怪だの化け物だのという類を、こう真剣な面持ちで語る人だったとは。
正直なところ驚きである。
「顔が猿で、なんか背中に羽が生えてて、尻尾が蛇……でしたっけ? 鵺ってそんなですよね?」
「ああ、そうだ……。おめぇ、とんでもねぇもんに魅入られたな……」
「毎晩土方さんの部屋に来るんだから、魅入られたのは土方さんのほうじゃないですか?」
「違えよ!! 絶対おめぇだ、伊織っ!」
急に取り乱したように反論をする土方は、蒼褪めた顔も既に蒼白色である。
しかも、よくよく見てみれば少々震えていると来た。
実害に遭っているのは伊織のほうだというのに、まるで自分が何者かに脅かされているような様子だ。
(おいおい……)
鬼が聞いて呆れる。
相談しても何も解決出来そうにない土方を前に、伊織はふっと吐息した。
「もういい加減眠れなくて困ってるんですよね。今日から私、沖田さんのところで寝てもいいですか」
「まあ待て! 話は分かった。要は夜中に眠れりゃいいんだな!?」
「……はあ、まあ。そうですね」
「だったらおめぇは総司の部屋で寝りゃあいい。その代わり、総司は今日から副長室で起居だ、それで文句はねえな!?」
微かに慌てた声を出した土方も、決して正体を暴いてやろうだとか、退治してやろうとは言わない。
(……結局怖いんだな、土方さん)
露骨に口に出して言うと、きっと物凄く怒るので胸に仕舞って置くが、怖がっているのは十割がた正しいだろう。
心を落ち着けようとしてか、煙管を取ったその手も、まだカタカタと小刻みに震えている。
「じゃあ、今夜から寝所を交換してもらうように、沖田さんに伝えておきますから……」
平素、頑として揺るぐ気配すら見せない土方が、こう目に見えて怖がっていると、流石に気の毒にもなる。
変なところで意外と肝の小さい副長を脅かしたことに、伊織は心中密かに詫びるのみであった。
***
どうやら鵺に魅入られているらしい副長室を出、伊織はふらふらと廊下を歩く。
歩きながら、中庭に目を向けた。
夜になると、その鵺とやらがここまで来て啼いている。
そう考えると、例の声が思い起こされて不覚にも日中から身震いが沸き起こった。
(でも、部屋を移っても、何となく一人じゃ怖いなあ……)
例え眠りについて意識のない状態でも、隣に人がいるというだけで、随分違うものだ。
けれど、今更土方が沖田を譲ってくれることはないだろうし、かと言って一人で寝るのも怖い。
どこか他の部屋で寝かせて貰おうか。
だが、どこの部屋ならより安全なのか。
引き摺るように歩いていた足も止め、伊織は寝不足でぼうっと霞む頭を働かせた。
「おい。そんなところで何を突っ立っている」
斜め下から声がかかり、伊織はぎょっとして振り向いた。
「深刻な顔をしているようだが、何か悩みでもあるのか」
廊下の縁に腰掛けていたのは、尾形だった。
声をかけてきたわりに、尾形はちらっとこちらに目配せただけで、無表情に自分の手元を見つめている。
つられるように尾形の手を見れば、何故か赤い風車。
(尾形さんのほうこそ、何か悩みがありそうだよ……)
時々この人も変だな、とは思いつつ、伊織はその隣に腰を据えた。
「その風車、どうしたんですか?」
「さあ、どうしたんだろうな。副長室の縁側に落ちていたんだが」
やけに飄々と返す尾形。
だが、副長室の縁側、という言葉に伊織は反応した。
近頃毎夜物の怪の訪れる、あの縁側のことだ。
「それも何故か毎朝毎朝、一本ずつ落ちているんだ。俺が拾っても拾っても、必ず次の朝にはまた落ちている」
風流な都人の遊びだろうか、とやはり無表情に首を傾げている。
「お陰で今では俺の日課になってるがな」
「そんな日課も、どうかしてると思いますよ……。それと、その風車の送り主、土方さんによると鵺だそうです」
「鵺? ……鍋島騒動の、あれか?」
「それは化け猫ですってば」
「鵺というのは、その昔、源頼政が禁中で退治したという化け物だよ。頭は猿、身体は狸、手足は虎、尾は蛇だったそうだよ」
するすると物静かに歩み寄る足音と共に、山南がその場に加わった。
「あ、山南さん。おはようございます」
「朝から奇妙な話をしているようだけど、鵺がどうかしたのかい?」
「ああ、いえ……」
にこにこと尋ねる山南にも何処から説明して良いのか、伊織は口籠る。
すると、話に加わった山南も、何か思うところでもあるように軽く溜め息を吐いた。
「このところ夜中に目が覚めてしまってね。どうも体調が優れないんだよ」
「!? 山南さんも、ですか?」
「……も、と言うと、高宮君もかい?」
「え、ええ。何か変な鳴き声が耳について、殆ど眠れないんですよ。それで今、もしかして鵺なんじゃないかって……」
大雑把ではあるが、事のあらましを説明し、伊織はやれやれと首を竦めて見せた。
「鵺の鳴き声? そうだろうかねえ? 鶫の声に似ているというのは、聞いたことがあるけど、そういう声には聞こえなかったような気もするんだが……」
山南はいやに深々と思案する。
その横合いでは、尾形が例の風車を吹き、からからと音を立てさせた。
「鵺は副長に懸想して、毎夜この風車をそっと置いてゆくのか……妙な化け物だな」
それは尾形のまったく勝手な解釈だと思うのだが、それを頭ごなしに否定も出来ないのがもどかしい。
これを聞けば土方はさぞ怖がることだろう。
さっきのあの様子だと、鵺の狙いがいよいよ自分だと分かれば、夜には局長室辺りに逃げ込むかもしれない。
「私も寝るに寝付けなくて、ほとほと困っているのでね。ここは一つ、その正体を確かめてみないかね?」
「え!?」
話を聞かせただけでカタカタ震える土方に比べ、なんと勇気ある発言だろう。
山南のほうが余程頼りになるな、と伊織は驚きつつ目を丸くした。
「や、山南さん、怖くないんですか?」
思わず尋ねると、山南はまるで心外と言わんばかりに苦笑する。
「生憎私は土方君とは違ってね、あまりそういう類の話は信じないほうなんだよ」
「へえ……」
どっしりと落ち着き払った態度が、やけに頼もしい。
日頃の影は少々薄くとも、今目の前に笑う山南は、どんと鷹揚に構えた大人の風格たっぷりである。
「確かに、いつまでも不穏な夜を過すのは私もヤなんですけど、やっぱりちょっと正体を見るのは勇気要りますよ……」
山南の提案に乗るか否か迷いつつ返すと、背後からのしのしと大股で歩いてくる足音が聞こえた。
「あ、局長。おはようございます。朝から景気が悪そうですね」
その場の誰より先に足音の主へ挨拶したのは、尾形だ。
(景気が悪そうって、尾形さん……!!)
何者をも恐れぬ挨拶振りに度肝を抜かれ、伊織は突っ込み損ねる。
が、振り返った先の近藤の顔は、本当に何とも言えず景気が悪そうだ。
と言うよりも、何か複雑そうな面持ちである。
「どうかしたんですか、局長……?」
伊織が訝りつつ近藤を見つめる。
口元を真横に引き結んだまま、近藤はじりじりと伊織に詰め寄り、やおら腕組みをした。
「――近頃、何かおかしいとは思わんかね、高宮君」
「はい?」
「その、夜になるとどうも、気味が悪くならんか」
「……ええ。そうですね、気味は悪いと思います」
「近藤さん、もしや……あの奇妙な声を聞いたのじゃないか?」
ごくりと生唾を呑み、深刻そのものの目付きで、山南が声を潜める。
と、近藤の顔からさっと血の気が引いた。
「声……ああ、そうだ。声も気味が悪かったな……」
「「声、も……?」」
山南と同時に、伊織も声を揃えた。
声だけでなく、近藤の身辺にはもっと他に何かが起きたとでもいうのか。
その場の三人がじっと凝視すると、近藤はぽつりぽつりと話し始めた。
「昨夜、やはりあの声で目が覚めたんだが……。ちょうど障子を挟んだ縁側に、何者かの気配がしたんだ」
ぞっとするような低い声音が、伊織の恐怖心を煽る。
近藤の話に耳を傾けながらも、思わず尾形の袖を掴み締めた。
「どうも異様な気配だったのでな、刀を取って、正体を明かしてやろうと床を出たんだ。そろりそろりと、障子に近付いた――その時だ!!!」
「ヒイィッ!!!」
突如声音を高くした近藤に驚き、伊織の喉を微かな悲鳴が突き破った。
「目の高さの障子紙が外から破かれて、そこからぎらぎらと血走った眼が……ッ!!」
「ひえええぇッ、き、局長、もうやめ……!」
「ここからだ、聞くのだ、高宮君ッ! そいつは俺を見るなり、ドスの利いた野太い声で、こう言ったんだ」
「聞きたくないです局長ーッ」
「『お前ではない』と……!!」
「ギャアアア!!!」
問題の声を毎晩聞いていた事実も手伝って、伊織はそのおぞましさに耐え兼ね、悲鳴を上げた。
「もういやだ! やっぱりイヤだ!! 今日私と一緒に寝てください尾形さん!!!」
こんな話を聞かされては、たとえ副長室を逃れても、恐ろしさはちっとも拭えない。
恐怖心に満たされて尾形の腕に絡み付いた伊織だが、当の尾形は顔色一つ変えていない。
そればかりか、尾形は冷ややかに半泣きの伊織を見下す。
「誰がお前なんかと寝るものか。佐々木さんでもあるまいし」
「ひ、ひどい……!」
もうこの際、尾形が駄目なら佐々木でも構わないかと思ってしまうほど、恐怖が勝っていた。
「まあまあ、尾形君。君の弟子じゃないか。今晩くらい一緒に寝てやったらどうだい」
そう口添えた山南も、それほど衝撃は受けていないようで、変わらず平然と笑っている。
怖がっているのは、伊織と近藤の二人だけだ。
「……ち。夜中までお前の面倒を見なきゃならんのか、俺は」
刺々しい言い方だが、どうやら尾形も了承してくれたと見て良さそうだ。
そのありがたさに、伊織は思わず正面から尾形の首に腕を絡めた。
「ありがとうございます尾形さーん!!」
「やめてくれ、暑苦しい」
「ははは、それにしては少し顔が弛んでいるようだね、尾形君?」
珍しくからかうように山南が一言浴びせるが、その直後に、近藤もまた一言。
「恥を忍んで頼みたいんだが、俺の面倒も見てくれまいか、尾形君……」
「……つわもの揃いの新選組の局長が、情けない話ですね」
途端に苦い表情を浮かべ、尾形はぴしゃりと言い切った。
酷なようだが、尾形がそう言うのも、まあ納得。
ようやっと落ち着いたところで、伊織はふと考えた。
鵺は、喋るのだろうか、と。
そして、昨夜はうっかり、部屋を間違えて局長室の前に佇み、そういう事態に陥ったのか。
更に、近藤ではない、ということは、やはり狙いは土方だろうか。
(土方さんが危ない……)
只ならぬ危機感を覚え、伊織はすっくと立ち上がった。
「今夜辺り、土方さんが襲われるんじゃ……!?」
「トシが?」
「ええ! きっとそいつの標的は土方さんですよ! 毎晩副長室の前に風車を置いていくって、尾形さんが証言してましたし……!」
「俺はそこまで断言してないぞ」
「尾形さんは黙ってて! きっとそうですよ! 鵺は土方さんを狙って毎夜訪れるんです!!」
そうと分かれば、土方にも用心させなければ。
思い立って副長室に戻ろうとした伊織の襟首を、山南がむんずと掴んで引き止めた。
「ああ、待ちなさい高宮君。ああ見えて土方君は結構小心者だからね。面と向かって標的はあなたです、なんて言うと怖がらせてしまうよ」
「そんな場合ですか!? だいたい小心者に新選組の副将が務まるとでも!? この際、狙われてる本人に退治してもらいましょうよ!!」
「おやおや。知らないのかね? 小心な将ほど、戦には強いものなんだよ」
「いや、そんな話でなく……!」
「うん、そうだ。君の言う通り、土方君が狙われているとすれば、彼に退治してもらうのが一番手っ取り早いだろうね」
「じゃあ早く報せに……!!」
「君が副長室の怪奇事件の触りを話しているなら、土方君はとっくに警戒態勢だよ。今夜副長室を鵺が襲うとすれば、それで決着は付くと思うよ?」
つつと山南に宥め賺され、伊織はぐっと返答に詰る。
それもそうか、と言わざるを得ない一論だ。
仕方なく踏み止まり、伊織は山南の意見を聞くことにした。
「我々は別室で待機し、鵺がいよいよ土方君に襲い掛かったところで加勢する。というのはどうだい?」
ぴんと人差し指を立てて、得意気に言う山南。
つまり、土方には敢えて何も報せずに、囮になってもらうということだろう。
少しばかり不憫かもしれないが、その案は有効だ。
「ああ、それはいいですね。俺は賛成です」
「うーむ、それはトシには可哀想だが、それで退治出来るのなら……」
居合わせた尾形も近藤も、案には賛成している。
「じゃあ、そういう手筈でいきましょうか」
伊織もほんの僅か思案してから、やはりそれに賛同した。
背に腹は代えられない。
ほんの一時土方に我慢してもらうことくらい、罰は当たらないだろう。
四人は来るべき決戦に備えて申し合わせ、その後各々に引き下がって行った。
【後篇へ続く】
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