第五章 大逆転

第59話 景義、山中を逃げること

第一部  戦 乱 編


 第五章 降 人




   一



 木々の高みから雨粒が、顔の上にふり落ちてくる。

 体が鉛のように重たい。

 動けない。

 老人はあおむけのまま口をひらき、喉の奥に雨を溜めては飲み干した。

 慈雨が全身に沁みわたるにつれ、心も次第に蘇ってくる。


「次郎どん、おい、次郎どん」

 景義は倒れたまま、すぐ横にうつ伏せている弟の体をゆり動かした。

「兄者……」

 次郎は、うめき声を返した。

「生きておったか」

 安堵して、景義は雨雲を仰いだ。

 かれらのすぐそばで、増水した谷川が濁流となり、山間やまあいえぐるように激しく流れ落ちていた。


 兄弟は助けあって、身を起した。

 近くに郎党のかしら助秋すけときも倒れていた。

 黒鬼の縄五じょうごという、いかつい姿形の雑色も、血まみれの顔ながらどうにか生きている。

 豊田の郎党雑色も、数名が生存していた。


 息を吹き返した一党は、崖ぎわに身を寄せあった。

「兄者、ここはどこじゃろ」

「わからん」

「これからどうすれば……」

 途方に暮れてため息をつく次郎に、景義は言った。

「おそらく佐殿は山中を北へ向かい、甲斐国かいのくにをめざされるか。もしくはそうと見せかけ、敵の裏をかき、海路で三浦を目指されるであろう」

「われらはどうする?」

にもかくにも道を見つけねばならぬ」

「川沿いに、くだってゆくしかないのぅ」

 次郎が言うと、景義は首を横にふった。


「いや、上を目指す」

「上へ?」

 信じられない……といった目で、次郎は兄を探り見た。

「この疲労しきった状況で、安易に水が手に入る川を去り、山へ登るというのか?」

 景義はうなずいた。

「迷うた時は山へ登り、尾根を目指したほうが、見晴らしがきくし道もみつかる……なんじゃ、その目は?」

 次郎は、ため息まじりに呟いた。

「いやはや、兄者は凄いお人じゃ。まるで苦しんでも苦しんでも、苦しみ足りぬようじゃ」

 景義は苦笑した。

「馬鹿を言え。わしとて苦しいのは嫌じゃ。これも『生みの苦しみ』と信じてのことよ」

 景義のなかには、ある程度の現状では満足せず、たとえ苦労を負っても、つねに自分のなかにある理想を追い求めてゆく、「冒険的な理想家」の一面がある。

 その一面が、こんな時にも出たのである。


 主従は適当な竹を切り出し、それを器用に削って水筒を作り、水を詰めた。

 木の枝を削り、杖をこしらえた。

 胴丸も具足も一所に捨て、みながみな、小腰刀こしがたなを刺しただけの、身軽な烏帽子姿になった。


 しばらく行くと、深い草やぶになかば埋もれて、ひとりの男があおむけに倒れていた。

 体には、数本の矢が突き立っている。

 袖印そでじるしを見れば、源氏の白……味方である。

 豊田の者たちは気安く近づいたが、すぐに、

「ワッ」

 と驚き叫んで、逃げ退いた。

 ……男の顔が赤黒くひきつれ、奇怪なほど醜く潰されていたのである。


 次郎は衝撃を受け、茫然と呟いた。

「顔を焼かれたか……敵もむごいことをする……」

「なにを言うておるか」

 景義は無頓着に杖を寄せ、男の頭を抱きあげた。

「葛羅丸じゃ」

「なんじゃと?」

 ……確かに、顔の下半分を覆う剛毛の黒髭には見覚えがあった。

「生きておる」

 頬を軽く叩いてやると、大男は眠りから目ざめ、熊のような鈍重な呻き声をあげた。

 目ざめた途端、体に突き立った矢を、自分の手で力いっぱい引きぬいた。

「頑丈な男よ」

 景義は喜んで、いかにもかわいがるように顎髭に手を突っ込み、わしゃわしゃとかきまわした。


「葛羅丸はな……」

 と、景義は打ち明けた。「幼い頃、合戦に巻き込まれ、顔に大火傷を負うたのよ。その時、両親も失くしての。深い心の傷のためか、言葉を発することができなくなってしもうた。

 その幼い葛羅丸を、知人がわしの所へ連れて来た。わしの所では不具の者でも差別することなく雇う、と、そういう噂を聞きつけたんじゃ。わしは葛羅丸がすぐに好きになったよ。手ずから育て、今では立派な郎党じゃ」

「そうじゃったか……」

 感銘を受け、次郎はため息をついた。

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