第一部  戦 乱 編

第一章 雨下る (あめくだる)

第9話 頼朝、祈祷をすること

第一部  戦 乱 編


 第一章 雨 くだ る




   一



治承じしょう四年、八月はづき十六日――


 激しい雨が真木まきを打ち、青い香りと煙るようなしぶきをあげて、みどり苔むす山々を、もうもうと蒸し篭めている。

 熱気は冷めるどころか、さらに暑い。

 黒雲湧きたつ空の彼方で、低く、遠雷が轟いている。


 山中の堂社では朝から護摩ごまが焚かれ、白装束の神官がしきりに御幣ごへいをふるい、顔じゅうから玉のような汗を噴き出しながら、野太い声で祝詞のりとを繰り返している。

 堂の内壁は灰にすすけて真っ黒である。


 息をするのさえ苦しい不快な温気うんきのなかで、頼朝よりともは両手を胸に合わせ、ッと耐えていた。

 人の寿命をつかさどる神、泰山府君たいざんふくんに、延命長寿を祈っているのである。

 於政おまんもまた夫のかたわら、真剣なおももちで手をあわせ、きつくまぶたを結んでいる。


 於政の父である北条ほうじょう時政ときまさは、まるでそのようにすれば霊験を呼び寄せられるとでも言うかのように、数珠をからげた両手をしきりにこすりあわせている。

 その背後に、かれのふたりの息子、三郎宗時むねとき小四郎こしろう義時よしときが、それぞれに凛々しい面持ちを引き締めている。


 この祈祷は、切実そのものであった。

 なぜなら頼朝は明日、明後日には、生きているかどうかもわからない。

 明朝には挙兵する。

 もしこの度の決起に失敗すれば、命の行方ゆくえは知れない。


 烏帽子のうちから次々と脂汗あぶらあせがしたたり落ち、脇下からは、じっとりと冷や汗も染みだしてくる。

 繰り返される祝詞が、耳の底に鳴り響き、意識も次第に朦朧もうろうとしてくる。

 いつしか魂はうつつを離れ、夢幻の狭間はざま彷徨さまようのだった。





 ――頼朝はゆっくりと、やわらかな二重ふたえまぶたを見ひらいた。

 長い祝詞が終わったようである。


 しゅうとの北条時政が、早々に立ち去ろうとしている。

 頼朝は、見咎めた。

「どこへお行きか」

「どこへ? 屋敷へ戻ろうかと」

「これからおはらいがござります。舅殿しゅうとどのもぜひ受けられよ」

「まだござるのか」

 時政はうんざりした様子で問うた。


「今度はなんのお祓いでござるか?」

「日頃、垢のごとくにつもった罪穢つみけがれを祓い、神仏の御加護を願う、一千度のお祓いです」

ッッ」

 時政は、閉口した。

 太肉ふとりじしの体からは、すでに湯気さえたちのぼっている。

 ふたたび長時間、この狭い堂内で地獄蒸しにされるのかと思うと、気が遠くなりかけた。


「いや、わしはいくさの準備がござりますゆえ……」

 言葉尻を濁したところへ、於政がぴしゃりとたしなめた。

「父上は明日、いくさ御大将おんたいしょうをお勤めになられるのです。お祓いをお受けあそばすのに、是も非もござりませぬ」

「そ、そうか、ならば……」

 時政は不承不承、娘の言に従った。


 人々が座に戻るや、神官はふたたびぬさを取り、わけのわからぬまじないを唱えつつ、護摩壇に香油をふりまいた。

 壇上の火柱がいっそう高く燃えあがり、時政の顔になおいっそうの脂汗あぶらあせが、巨大な玉となって噴き出した。

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