第29話 クロエ・ニクロ③

 服を脱いでは着てを繰り返し続ける事数時間。もうしばらくは裸で過ごしたいくらいには服を着た。


 ココは、この街を出る前に返してもらうからと言って聞かず、私に新しい服を着せたまま帰らせた。


 おかげで、汚い貧民街で一人浮いてしまい、誰の結婚式帰りなのかと何度も話しかけられてしまったくらいだ。


 くたくたになって家に帰ると、父はいなかった。そういえば飯を作ってなかったが、どうしたのだろう。家にいないので、仕事がてら外で食べているのかもしれない。


 そんなことを考えながら、自分の部屋に入ってベッドにダイブする。


 スキルを使っていないはずなのに、うつ伏せのまますぐに意識は無くなった。


 ◆


 ドガッっと腹のあたりに衝撃が走る。


「グッ……ってぇな!」


 目を開けると、無精ひげを蓄えた父が立っていた。手には酒瓶。まだ寝起きで嗅覚は戻ってきていないが、多分今日も酒臭いのだろう。


「おい起きろよ……ん? なんだその服は? 高そうだな。貰いもんか?」


「何でも良いだろ」


「まぁな。とりあえずどけよ」


 父は、ボロ布と着ているのと変わらない扱いで、私をベッドから投げ飛ばす。


「あらぁ。娘さん?」


 部屋の入口から覗き込んできたのは化粧が来い女。若いのか歳を食っているのか分からないが、声のかすれ方は結構な歳に思えた。何故かその声には聞き覚えがある。


「そうだよ。見せつけながらってのもいいモンだろ?」


 父は部屋の入り口から女を引っ張ってきてベッドに押し倒す。女は慣れた様子で足を父の胴へ絡めた。


 胴への足の絡め方からして彼女は娼婦なのだと直感した。


 自分の部屋でヤればいいのにと思いながらため息をつき、部屋を出ようとする。


 だが、髪を掴まれ、床に引きずり倒される。


 女と絡んでいたはずの父がすぐ後ろに来ていた。


「行くんじゃねぇよ。座ってろ」


「何でだよ……」


「るせぇな! 黙ってみてろ!」


 父が足を振りかぶると、私のお腹に激突する。


「ぐっ……」


 息が詰まり、床に横たわる。


 父はベッドに戻ると、女との絡みを再開する。


「ああっ! ああっ!」


 近くで聞くと分かりやすい演技じみた声。毎晩のように聞こえてくる声は彼女のものだったらしい。どうも近所には彼女のお得意さんが住んでいるみたいだ。


 寝てしまえばいいのだけれど、目の前で行われている異常事態から目が離せない。


 ふとした瞬間に冷静さを取り戻すと、こんなのはおかしい、すぐに逃げろと正常な自分が叫ぶ。それでも、身体は動かず、その場に三角座りをするのがやっとだった。


 二人が果てて私のベッドで寝息を立て始めた頃に、家から出てすぐのところで睡眠をとる。さすがにこの部屋にいるのは精神的に持たないと思った。


 じめじめと蒸し暑い夜、眠る前に考えていたのは、ココのことだった。


 ◆


 起きると日が顔を出し始めるころだった。


 まだ早い時間だが、まっすぐにココの泊っているホテルに向かう事にした。


 寝起きの人と市場の仕入れをするために活動している人の合間を縫ってホテルへの道を行く。


 ホテルの入り口からは、ちょうど、警備員に見送られながら、大きな日傘を指して一人の貴婦人が出てくるところだった。


 彼女の目の前まで走り寄る。


「こっ……ココさん! 私だよ! クロエだ!」


 ココは傘を畳むと無言で私に寄越してくる。


「え……なんだ?」 


「使用人に応募してきたんじゃないの? 買い付けに行くところだったの。ついてきなさい」


 まだ心の準備ができておらず、傘を持ってキョロキョロしてしまう。


「それにしても早いわね。何かあったの? もう何日か待つことになると思っていたから意外だったわ」


「あ……その……」


 ココになら話してもいいのだろうか。


「どうしたの? 話してごらんなさい」


 ココが私の頬に手を添える。堰き止められていた淀みは一気に決壊した。


 地面に膝立ちになり、ココに縋り付くように淀みをぶちまける。


 この地獄から引っ張り出して欲しい一心だった。


 私が昨晩までのことをすべて話しきるまで、ココは優しく相槌を打ちながら話を聞いてくれた。


「クロエ。今すぐ貴女の家に案内して。買い付けに行くわよ」


「は……か、買い付け?」


 ココはウィンクをすると、私を立たせて家に案内させた。


 ◆


 家に戻ると例の娼婦は消えていた。


 父は一人椅子に座り、酒を飲んでいる。


 父がこちらを認識すると、ココは一歩前に出て話し始める。


「失礼するわ。ココ・アイルヴィレッジ。商人よ」


「はっ! 商人が何の用だ? 酒ならたんまり出せるぞ!」


「生憎だけど質の悪い酒は求めていないの。貴方の娘を買うわ。いくら払えばいい?」


「奴隷商人かよ。若いのにエゲツねぇことしてんだな」


 ココは父の煽りを無視して尋ねる。


「いくらなの?」


「そうだなぁ……金貨千枚だ。大事な愛娘だからナァ」


 父が提示したのは途方も無い金額。一生かかってもお目にかかれないだろう。


 ココは「そう」とだけ言うと手持ちの鞄から革袋を取り出す。ジャラジャラと音がするので中に入っているのは恐らく金。


 ココは惜しげもなくその革袋を床に放り投げた。


「金貨千枚よ」


「おっほほ! 本当にいいのか!?」


 父は革袋に飛びつくと、中身を検め始めた。


「ひぃふぅみぃ……すげぇな! 本物かよ!」


「じゃ、この娘は私のものね。ちなみに、金貨五百枚で貴方にすぐ彼女を売り直すと言ったら?」


「なんだよそれ。ただ俺に五百枚の金貨をくれただけになるじゃねえか」


「それでもいいのよ。さて、どうする?」


 父は腕組みをして悩み始めた。要するに私と金貨五百枚で天秤にかけているのだ。金貨千枚では勝てなかったので、私の価値はその間くらいらしい。


 いや、そもそも金でどうこうなる話ではないのだ。まず、千枚なら売るなんて冗談でも言ってほしくなかったし、即決した時点で本来ならアウト。父の行動はアウトの積み重ねだ。


 親子の縁。こんな腐ったところでも曲がりなりにもずっと一緒に暮らしてきたはず。それをすべて捨てさるほどの金額なんて決めようがないのが本来のはずだ。


 父に抗議しようとしたその時、ココが私の方を向く。


「クロエ、あれが彼の本心よ。父の事はもう忘れなさい。金で動く程度の人間に尽くす必要はないわ」


「そっ……そんな……」


「認めなさい。自分だってここから逃げたいんじゃないの?」


「それは……そうだけど……」


 父は本気で私と金で悩んでいる。


 私は所詮その程度だったのだ。


 こんなやつのために悩んでいたのが馬鹿らしい。


 こんなところに残る必要なんて何もなかった。


 そう認めると、一気にすべてがどうでも良くなってきた。


「もう……もういいよ。好きにしてくれ。全部うんざりだよ」


「分かったわ」


 ココは父の方に向き直り、銅貨を一枚落とす。


「その金は私が駆けずり回って稼いだの。返して頂戴」


 何が起こったのかわからないが、父は素直に革袋をココに差し出した。ココはすぐに鞄に革袋をしまう。


「返してくれてありがとう。でも……昨晩の行いはいただけないわね。彼女は私が教育したいの。趣向は悪くないけれどね」


 ココは傘をふりかぶり、思いっきりスィングする。


「ぎゃっ!」


 父は傘がこめかみにクリーンヒットすると、情けない声を出して床に倒れ込んだ。


 痛みに悶えている姿を見ても情は一切沸かない。むしろ、ココに感謝したいくらいだ。


「ふっ……ふふふ。アハハ! ココ、ありがと。なんかスッキリしたよ。どこでもついて行く。もうここに未練はないよ」


「父親が殴られて笑うなんて、狂ってるわね。だけど、これまでの方がもっと狂っていたのかも。まぁ……もうどっちでもいいわね」


 無言で頷くと、ココは私を壁に押し当てる。


「正式な契約は後でね」


 そう言うと耳たぶにかじりついてくる。甘噛みなので身体をよじらせるくらいで済んでいたのだが、ココは徐々に力を入れてくる。少し痛みを感じ始めたくらいでココは口を離した。


 よだれを拭いながらココは笑う。


「貴女はもう私のもの。金額なんてつけようのない買い物は初めてだわ」


 それがココなりの最上級の褒め言葉であることはわかった。


 なぜ私がここまで気に入られたのかは不明だが、ココに見つめられるとどうにも鼓動が早くなることが増えてきていた。


 ◆


「はぁ……終わらない……いつまでかかるのかしら」


 ココ様が自分の頭よりも高い位置に頂がある書類の山を脇に寄せ、机に突伏する。外は真っ暗で、感覚的には深夜だ。


 バンシィさんもイヴさんも遥か前に自分の部屋に戻っていった。


「もっとこまめにやればいいじゃないですか。溜め込むから辛いんですよ」


「それは分かってるんだけどね……んー! もうひと頑張りかしら」


 ココ様は伸びをして書類の山から塊を取り出す。こまめに毎日やればいいのに、月に一度だけまとめて書類を処理するのがココ様のスタイルになっている。


「クロエ、貴女も寝ていいのよ。もうこの部屋も掃除するところはないでしょう? 」


「あはは……そうですけど……じゃあ座ってますね」


 私はココ様の使用人。業務に励む主人を支えるのも大事な仕事だ。たとえやることがなくても側にいるだけで心の支えにはなるはずだ。


 来客用のソファに腰掛け、紅茶をすする。


 ココ様は一心不乱に書類と向き合っては時折舌打ちをする。多分、部下の誰かのミスを見つけたのだろう。


「ココ様、舌打ちをすると幸せが逃げますよ」


「その程度で逃げる幸せなんて要らないわ」


「ココ様って何をしてる時が楽しいんですか? 私をイジメているときですか?」


「人聞きが悪いことを言わないで。可愛がってるだけじゃない。でも……そうね。この書類の山を片付けて入る風呂は気持ち良さそうだわ」


「いいですねぇ! 一緒に入りますか? 昔みたいに」


「昔って……初めて会った時のこと? 意外と記憶力がいいのね」


「『意外と』は余計ですよぉ!」


「ふふ、ごめんなさい。じゃあこれが終わったら一緒に入りましょうか」


「いいんですか!?」


「いいわよ。一緒に入るなんて久しぶりね。これが終わったら起こしてあげるから、そこで寝てていいわよ」


「同じ部屋には居てほしいんですね」


「べっ……べつにいいでしょ。人気が無いと寂しいのよ」


「ふふ。でも起きてますよ。私はココ様の使用人ですから」


「ありがと、クロエ」


 ココ様は私向かって微笑む。そして、すぐに真剣な顔になると、また書類とのにらめっこを始めた。

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