【5】フキの願い
ハッとして目覚めた私は、じっとりと脂汗をかいた額を袖で拭った。おかしなことに、下腹に鈍い痛みすら感じる。さっきまで、子を産む夢を見ていた。出産の経験なんて無いのに。
まるで酷い生理痛だ。…と、そこで違和感を感じてトイレに入ると本当に生理が来ていた。今月はもう少し先のはずだが、狂ったのだろうか。
腹部の鈍痛であんな夢を見たのだろうか、それにしては非常に生々しい夢だった。
(フキ)
呼ばれたような気がした。私は紗夜なのに、そのフキという名はとても特別に感じるのだ。
眠れなくなり、その日の単語テストの勉強をしながら夜明けを待った。窓の外は雨が降っていた。だからだろうか、あんな夢を見たのは。
その夜から、生々しい夢は更に続いた。
その夜見た夢は、胸がえぐられそうに痛かった。
清められた直太朗の身体は冷たく、もう動かなかった。フキは産後だから動くなと言われたが、子をユキに任せて、みなが避難していた御堂へと向かった。
皆とは別の部屋に、直太朗は寝かされていた。悪い夢を見ているようだった。
「嘘…嘘だよ…」
フキはその場にへたりこんだ。後ろから追いかけてきた左之助は、フキのそばに立ち尽くした。
「なんで…お前なんだよ」
村人たちは堤が崩れ、村が水に浸かっても、誰一人犠牲にならずに済んだ。その中で最後まで逃げ遅れがないか走り回っていたのは直太朗だったという。
最後に大きく堤が崩れて大きな流れが村を襲った。それに巻き込まれて流されたらしい。戻ってこない直太朗を探していた若い衆が、山の縁の木に引っかかるようにして浮いていた直太朗を見つけたという。
「見つけたのが早かったから、そこまで膨れずに済んだけど…見つけた時はもう」
涙混じりの弥助の言葉に、松五郎は痛めた足を投げ出して泣いていた。
「俺がドジしなかったら……手分けできてたのに」
フキは信じられない気持ちでそれを見ていた。
その堤の決壊からひと月、ようやく水が引いた頃、今度は流行病が村人たちに伝染した。
高熱に勝てなくて命を落とす者、熱が下がったが身体が不自由になった者、沢山の村人が亡くなり、そんな中、フキは生まれた子を育てていた。乳を飲ませ、オムツを替えて、泣いたら抱き上げて、その繰り返し。待ったが効かないので、直太朗の死を嘆く暇もなかった。
病は年末の寒さが訪れる頃終息し、残った動けるものは冬を越す為に仮の質素な小屋を建てて何とか暮らしていた。高台にあったフキの実家や他数軒の家には、親戚のものや縁の者が身を寄せていた。その中に直太朗の弟達もいた。
屋根裏に逃がしておいた米は無事で、それを持ってフキの家に身を寄せたのだ。
「義姉さん、ちょっとは食べないと」
「うん」
半分も残した膳を見て、直太朗の弟、直次は言った。
フキはより二つ年上で、直太朗とは違って少し大人しく、冷静な人物だった。冬の間、フキの様子を気にかけて話し相手になってくれた。
春先、ようやく新しい家が建った時、直次はフキに言った。
「義姉さん、いや、フキさん」
「ん?」
子をおぶって庭に出ていたフキは、そこから遠くに見える、川沿いの桜を眺めていた。呼ばれて、寝不足でぼんやりとした目を、縁側に座る直次に向けた。
「俺の嫁にならないか?」
フキは目を見張った。
「何、言ってるの?」
「兄さんの代わりに、俺がフキさんの夫になれないか?」
直次は直太朗が亡くなった今、家の跡継ぎだ。
「直哉だって、父親がない子に出来ないだろ?」
フキが産んだのは男の子だった。直太朗の1文字を取って直哉と名付けた。
「少し、考えさせてもらってもいい?」
フキは、目を伏せた。
堤の建設のために、藩から役人がやってきている。次の大雨の季節に向けて、大急ぎで堤を直さなければいけなくて、人員不足を養う為に村人たちも借り出されていた。
皆、病が流行って子や親を亡くしていた。だがそれを嘆いている間などなかった。
けほっとフキは咳き込んだ。春先にひいた風邪がスッキリ治らず、咳き込むごとに胸が痛い。
直次に縁談をもちかけられてから、半月後、フキは病の床に伏せった。直哉はもう少し乳が必要で、フキの後に子を産んだ、父の後妻のユキが、自分の子供と直哉に乳を飲ませてくれていた。
フキは感じていた。自分はもう長くない、と。父を亡くして母をも亡くす、直哉が憐れだった。
ある日、村の長老がフキを見舞ってくれた。
「年寄りは堤の土運びも出来んからな」
そう言って縁側に腰掛けた長老に薄く笑ってみせた。
「ねえ、長老、お願いがあるの」
「なんだい?」
フキは長老に手招きした。そして重い体を起こして耳元で何が呟いた。長老の顔が青ざめた。
「そんなこと、そんなこと出来ねえ!」
首を横に振った。
「ほんとに、もうダメになってからでいいの、お願い」
フキは長老の手を握った。それを部屋の外で父は聞いていた。その目には涙が滲んでいた。
その半月後、フキがこと切れる寸前だと思われた4月の終わり。麗らかな日差しの中、フキの生家から、荷車が出た。
お棺のような箱が乗っている。その中には、痩せこけた頬に、薄く微笑みを称えたフキが空を見上げていた。
いつぶりに外に出るだろう。四角く見える青い空に、黄色いちょうちょが横切って行った。
桜の季節は終わって、まだ名残の菜の花が咲いている。道端の草が見える時、その黄色を目にして、フキは直太朗を思った。
ほんの1年前なんだな、と。
身に愛する直太朗の子を宿し、親にも認めてもらって一緒になって。
「どうしてフキが人柱になどならにゃ行かん!?俺は許さんぞ!」
先日、長老が訪ねて来た時のことだった。人柱の話をきいて、左之助は、目から火が出るのではないかと思うほど怒り狂った。
「お父ちゃん」
奥の部屋からか細い声がした。
フキの枕元に左之助が駆けつけると、フキは、力なく笑った。
「私が頼んだんだよ、もう、私、助からないから」
「お前…」
「おじさん、……お義父さんにも頼んで、直太朗さんと一緒に埋めてもらうことにしたんだ」
直太朗は水害で流された墓の後に、土葬する場所がなく、火葬されて骨をツボに入れてあった。そのお骨と一緒に自分は人柱として堤に埋まると言うのだ。
「ギリギリまではこの家に居させてもらう。もう峠だという時におぼめて貰うわ」
「フキ…」
「直哉はお願いします。直次さんが引き取るって言ってくれたけど…出来たらユキさんに育ててもらいたい」
後ろで話を聞いていたユキが、顔を覆って泣き出した。
「直太朗さんの子だもん。いい男に育ててやってね、お父ちゃん」
半分魂は身から離れかけている。ふと、自分が運ばれているのを、少し上から見ている。その顔はやつれてはいたが穏やかで、身の回りにたくさんの千代紙で折られた折り鶴が花と一緒に飾られていた。
その手に握っているのは、いつか、直太朗が安産のお守りだ、と折ってくれた下手くそな折り鶴。手からはなれないように、と紐で巻いて貰っていた。
村の方を見ると、ユキが両腕に2人の子を抱いて、泣きながらこちらを見送っていた。
指をしゃぶって、大きな声で泣きながらぐずっているのは、直哉だ。どうか大きく育って、幸せになって欲しい。
人柱になると決めたのは、もう、あんな辛い思いを、この村のみんなにして欲しくないからだ。
洪水で家を流され、やがて水が運んできた物から伝染病が流行り、そこでも人が沢山亡くなった。
住職から、ありがたいお経を頂いて、胸に抱いている。
お棺に釘が打たれた。すすり泣きの音とともにその音を遠く聞きながら、身体の傍に収められた直太朗のお骨に意識を寄せる。
温かな眼差しや、雪の夜、抱きしめてくれた熱い腕。大きなお腹を撫でてくれた温かい手。幼い頃からいつも追いかけていたあの背中。
『フキ』
意識の中で呼ばれた気がした。
私は、幸せだった。
だけど出来れば、直太朗と直也と穏やかに暮らしてみたかった。これから後に生まれい出る子達には、どうか幸せに健やかにあって欲しい。
そんな想いを胸に、フキはいつしか、深い眠りについた。
***
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