【4】フキの出産と堤防決壊

 雨か酷く降り続いている。その音を聞きながら、フキは流れる脂汗を拭う。

 下腹部の鈍痛は波のように迫り、また引いていく。手に握った小さな巾着の中には、直太朗が折ってくれた折り鶴があった。

『安産のお守りだ、きっとフキはいい子を産んでくれる』

 そう言って今朝持たせてくれた。

 数日、雨が続いてる。堤を見て回る仕事に駆り出された、夫の身を案じながら、フキはまた迫ってきた圧迫感に息を吐きながら耐える。

「まだまだ生まれんな」

 産婆はフキを一通り世話をしたあと、隣の部屋で出されたお茶を飲みながら、フキの継母であるユキに言う。

「あんたもすぐだね、今度は男の子だったらいいねえ」

「ええ、フキさんは大丈夫ですか?」

「ああ、あの子は男勝りに木登りもかけっこもする子だったからな、腰周りがしっかりしてる。心配しなくても大丈夫さね」

 フキの母はフキの下の子を産んだ時、肥立ちが悪く亡くなった。その時生まれた下の子も病気で亡くなっている。

 隣の部屋から唸る声が聞こえてくる。

「16と言ったら1番体の力がある年だわ、それより自分のこと心配しないとな、26で初産はなかなかしんどいぞ?」

 初婚で子が出来ずに離縁され、この家に後妻に入った。授からないものだと諦めていたのだが、春が終わる頃、不意に子を授かった。自分が産めない身体では無かった事がありがたいと思いつつ、初産には高齢であることに少し不安はある。

「さて、そろそろ様子見てこようかね」

 産婆は、ユキの肩をぽんと叩いて腰を上げた。


 フキがお産で籠っていた頃、秋の長雨で川の増水が酷かった。雨はまだまだ止みそうにない。川沿いの堤の見回りに出かけていた村の若い衆の中に、直太朗はいた。


「まだ大丈夫そうだな」

「後は向こうの橋の手前だな」


 3人で昼間なのに薄暗い道を行く途中、1人が足を滑らせて転んだ。


「何やってんだよ、どんくせえ」

「足ひねっちまった」

「弥助、あとは俺が見に行っとくから、松五郎に肩貸してやってくれ」


 そう言うと直太朗は1人、川上の橋の手前に向かった。



 ごうごうと言う音が聴こえる。足元がぬかるんで滑るため、堤の上に登るのにも一苦労で、ようやく上り終えた時だった。

「なんだありゃ」

 信じられない光景だった。いつも向こう岸に渡るはずの橋が、水に浸かって、しかも既に橋が落ちていた。そして、ごうごうと音を立てて流れ込む川の水は、今にも堤を切り崩しそうだった。ところどころ崩れかかった所から水が村の方側に溢れ出ている。

(まずい!)

 思ったとき、ごごご、と音がして、堤の一部が崩れた。ハッとすると直太朗は、その堤の上を川下に向かって走り出した。


「早くみんなに知らせないと!」


 今にも崩れそうな堤防を、時々振り返りながら、必死で村の方へと走る。村の若者の中で1番の健脚である直太郎だが、自然の脅威の前ではあまりにも無力だ、と恐ろしくなる。


 堤防の下へと下る道を駈け降りて、なるべく近い道を選んで、村へと走った。


 走りながら、ちらりと山の麓から少し上にある家を見た。雨の向こうに、微かな家の灯りが見える。フキの実家が山の高台にある事だけが、今の直太朗にとって唯一の救いだった。今、お産の最中だ。どうか無事で、と祈りながらひた走る。


 麓の村のみんなを逃がさないと!

 直太朗は、近くの用水路を見に来ていた若い衆に、叫ぶように声をかけた。

「もう堤が切れる!高台へ逃げろ!もうすぐ水がここまで来る!周りの家にも触れて歩いてくれ!」

 言い捨てて、すぐ近くの家の戸を叩く。同じことを触れて回りながら、自分のように走れる男を捕まえては触れに回らせた。

 その年の当番の家は把握しているが、とにかく手当り次第に声をかけた。

 ようやく隣村の端にある自分の家にたどり着いた時、弟がどこかで話を聞いたのか、家族に逃げる準備をさせていた。


「とにかく身が助かればなんとかなる!荷物は全部置いていけ!」

「兄ちゃん!フキ義姉さんは!?」

「あそこは高台だ、最後でいい!父さんは!?」

「先に行ってもらったよ、米だけ屋根裏に運んだら俺も行く」


 納屋の方を見ると、既に三割程の米が無くなっていた。


「もう十分だ!すぐに逃げろ!」

「兄ちゃんは!?」

「十兵衛さんとこのばあちゃんを担げる奴がいないから、俺が担いでく!いいな?もういけよ!?」


 2つ隣の家に戻ると、1人残されていたおばあちゃんを背中に担いだ。


「すまんねぇ」

「いいんだよ、ばあちゃんには散々世話になったんだ、いくよ?」


 そう言って山の方へと走る。走りながら逃げ遅れている者が居ないか確かめつつ走る。山の上の寺には、御堂が広く作ってあり、村人が集まれる場所になっていた。

 そこへばあちゃんを下ろすと、泣いている娘がいた。


「どうしたんだ!?」

「ソヨが、ソヨが居ないの!多分家の屋根裏に入って遊んでたんだわ」

「ソヨちゃん、屋根裏にいるんだね?」


 娘の妹だ。5つになるはずだ。


「見てくる!」

「よせ!もう堤が切れてる!」


 周りの大人たちに止められたが、一瞬迷って直太朗は走り出した。ソヨの家は村の中ほどにあり、大工の親父が城の修繕に出かけているはずだ。後は娘とソヨ、母親はソヨを産んだあと亡くなってるはずだ。


 走って走って、肩で息をして、ようやくソヨのいる家についた。

 中に入って下履きのまま板の間にあがる。

「ソヨちゃん!」

 叫んで呼ぶがソヨの声はしない。天井を叩いてソヨを呼ぶが返事がない。

 上がり口や軒先を見ても草履がない、きっと逃げたのだろう。直太朗はお産で篭っているフキのことを思い浮かべて、ソヨの確認をそこでやめた。


 フキの家へと走る。

(フキ、どうか無事で居てくれ!)




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