六十九 翠令、竹の宮の姫君にお会いする(三)

 しかし、佳卓の兄は飄々と答えた。


「左大臣家としては今のところ表立ってお力を貸すことはございません」


 その拒絶の言葉に翠令がいきり立つ。


「それは! 今まで我らの話を聞いていらっしゃらなかったのか!」


 竹の宮の姫君が先々帝の直宮の立場から帝位の在り方を説いた。錦濤の姫宮は好奇心豊かで明るく闊達なご気性であられるゆえに東宮に相応しい器である。我らは情理を尽くしてそう結論付けたはず。


 その錦濤の姫宮を円偉が独断で廃太子にするのに、なぜ左大臣家が止めようとしない?

 それに……。


「竹の宮の姫君のご体調もお考え下さい!」


「右大臣家を敵に回すことは、我々にも害が及び申すゆえ」


「まだ、そのような愚かをおっしゃるか!」


 翠令は自分でも気づかぬうちに片膝を立てて、御簾の向こうに座る佳卓の兄に身を乗り出していた。


 そんな翠令に苦笑交じりの声がかかる。


「翠令」


 姫君が扇を口元にあてて翠令を見ていた。


「落ち着きなさい。左大臣の嫡男の申すこと、わたくしなら構いませんから」


「ですが!」


 姫君は扇を口元から外し、はっきりと翠令に微笑まれた。


「わたくしのために怒ってくれるのですか。嬉しく思います。翠令は直情径行な性格と聞いていましたが、本当にそのようですね」


「は……」


「まずはお座りなさい」


 再び腰を下ろした翠令に姫君は諭す。


「彼もまた朝廷の臣下であり、民の一人です。仮にとはいえ東宮に擬せられている私としては、まず彼の望みを聞いてみたい」


 そして佳卓の兄に対して尋ねた。


「そなたは『表立っては力を貸せない』と申した。では、裏では何を考えているのですか?」


 翠令はそうかと思う。確かに佳卓の兄は「表立っては」と留保をつけていた。ここを聞き逃さないとは、姫君は意外にしたたかな方なのかもしれない。


 佳卓の兄は表情を緩め「ありがとう存じます」と丁寧に礼を取った。


円偉えんいがこのたびの政変で勝者となったことで、、今後当分は彼におもねる者も多数現れることでしょう。また、円偉が上手く焚きつけたように佳卓への不満も溜まっているところです。当面は、佳卓の身内である我ら左大臣家も大人しくせざるをえません」


 翠令は「ですが……」と言いかけた。佳卓の兄は軽く首を振って翠令を制する。


「父や私だけではありません。左大臣家に連なる者は、ただ左大臣側だと言うだけで肩身の狭い思いをする。何か円偉の気に入らないことをすれば、彼らにどのようなわざわいが降りかかってくる分からない」


 翠令にも予想がつく。あの独善的な円偉は、自分と相容れない相手には冷酷な仕打ちをしてのける男だ。


「父の左大臣も嫡男の私も、我が家が面倒を見て来た者たちを護ってやらねばなりません。円偉を刺激するようなことは軽々に出来ない……。父も私も、自分のことばかりではなく左大臣家全体のためのかじ取りをしていかなければならぬのです」


 そう言われてしまうと翠令も黙るしかない。大貴族の家督を担う立場では、どうしても一挙手一投足を慎重にならざるを得ないのだ。直情径行に振る舞える自分は、彼ほど多くて複雑な事情を背負っているわけではない。


「……」


 黙り込んだ翠令に代わるように、姫君が問うた。


「されど、このまま円偉が朝廷を牛耳っていては、左大臣家側もただただ身を縮めているしかあるまい。確かに、円偉は佳卓に好意的で、文官として仕官する道を残していますが、左大臣家は佳卓を円偉に差し出して保身を図る気ですか?」


 佳卓の兄は複雑な顔を見せた。


「父はそうです。佳卓が気に入られていることを頼みに、しばらく事態を静観する構えです。ただ、私は水面下でも事態の打開を探りたい。なぜなら、佳卓が円偉とともに文官としてやっていこうにも長続きはしないと考えるからです」


 翠令は佳卓が文官として生きるのは幸せではないだろうと思うが、出来ないとは思わない。


「佳卓様は文官でもやっていける能力そのものはおありでしょう。長続きしないとはどういうことでしょうか?」


「佳卓は……あれはなかなか癖の強い男だ。もちろん彼だって左大臣家やその周囲の者達のために、円偉の意を汲もうと努力はするだろう。しかし、佳卓には佳卓の個性がある。それも普通よりはかなり強いものが……」


 佳卓の兄は翠令に微笑みかけた。


「それは翠令自身がそれはよく分かっているだろう? 今まで、佳卓に二度も激昂したのだから」


「え……ええ。姫宮を囮に使った時と、盗賊だった白狼を近衛に迎え入れた時ですね」


「そうだ。佳卓にはどうも不用意なところがある。いくら白狼と捕らえるためとはいえ、事前に何も知らせずに囮扱いでは姫宮の護衛である翠令は当然怒るだろう。それに、その白狼を近衛に雇ったことで一部の近衛の反感を買い、今回このような政変に繋がった」


 翠令は唇をかんだ。


「されど……」


 佳卓を擁護したそうにする翠令に、佳卓の兄は微笑んだ。


「別に彼を悪しざまにけなしている訳じゃない。私が言いたいのは、彼は極めて優秀な人間ではあるが、完璧な存在ではないということだ」


「はい……。佳卓様も出来ることと出来ないことではできないことの方が多いとおっしゃっていました」


「うん。彼も分かっている。学問も武芸も天才的にこなせるが、生き方については必ずしも上手くない。だが、私はそこが可愛いと思う」


「可愛い……?」


 翠令には、佳卓を可愛いと呼ぶ発想など全く無かった。


「翠令にとって彼は上官だが、私にとっては幼い頃から見知った仲の、可愛い弟なのだよ」


「はあ……」


 いや、と佳卓の兄も考え直すそぶりを見せた。


「私も可愛いと思えるようになったのは、私が大人になってしばらく経った頃だね。子どもの頃は、圧倒的に出来の良かった弟を妬まなかったと言えば嘘になるから」


「大人になってから……」


「うん。大人になって朝廷に出仕するようになって、私は左大臣家の嫡男として振る舞うようになった。私にとって集団の中でそつなく立ち回るのは大して難しいことではない。だが、佳卓はそれが苦手なようだ。佳卓が年齢相応の未熟さに苦しんだり、要らぬ敵を作ってしまったりする様子を見ていると、この弟は意外に不器用なのだなと思うようになったんだ」


 佳卓の兄は穏やかに微笑む。


「だから、兄である私が多くの朝廷人と誼を通じることで、佳卓を助けてやれると思った。佳卓には彼に惚れこむ味方も多いが敵も多いからね。私自身に才はなくとも、才ある人間を助けていくことも意味のある人生だろうと思ったんだ」


 翠令は、この佳卓の兄が下級官人に身をやつして左近衛まで白狼の危機を知らせに来てくれたことを思い出した。


「佳卓様もそのような兄君に感謝しておいでだと思います。白狼の殺害計画を貴方様がいち早く知らせてくださったとき、佳卓様も兄君にとても丁寧な態度でいらした。決して作ったものではなく、真心のこもった様子で……。あの時は白狼について有益な情報を適切な方法で届けてくださいました。近衛の一員、白狼の同僚としてお礼申し上げます」


「翠令がそう言ってくれるなら、私もそうした甲斐があるというものだよ。そして、今も佳卓を助けてやりたい。このままでは破綻するのは目に見えているからね」


 姫君が問うた。


「そなたは先ほども佳卓が円偉のもとに下っても長続きしないと申しました。どうなると思っているのですか?」


「円偉が政変を起こしたのは、錦濤の姫宮の怒りが引き金であり、そして竹の宮の姫君への思慕が誘因でありましょう。ですが、私には、円偉の佳卓への執着が大きな部分を占めているように思えてなりません」


 姫君が「執着?」と不審げに眉を寄せた。


「円偉は学問については余人の追随を許しません。確かに傑物です。ただ、そうであるがゆえに彼は自分に匹敵する者がいないという孤独を抱えている。だから、双璧と呼ばれ、自分と肩を並べられる佳卓を強く求める」


 翠令は「なるほど」と思う。

 錦濤の姫宮への怒りだけで、こんなことをしでかすとは翠令も予想できなかった。また、竹の宮の姫君の心を得ようとするには、やり方が迂遠に過ぎる。確かに、その奥に佳卓の人生を思いのままにしたいという欲望があると考えた方が、円偉の行動が理解しやすい。


「しかしながら……」


 佳卓の兄の声は沈鬱だった。


「円偉は佳卓を求めていても、佳卓という個性を愛している訳ではありません」


「……」


「円偉は佳卓を文官にし、自分と同じような存在にしようとしている。けれども佳卓は円偉とは別個の人間です。未熟であったり不用意であったりと欠点はありますが、それも含めて今の佳卓が、佳卓という個性です」


 佳卓の兄は翠令に微笑む。


「翠令にとっての佳卓もそうだろう? 翠令を激昂させもするし、配下の反感も買ってしまう。はた迷惑で面倒くさい上官だ。だけれども、どことなく憎めない愛嬌がある……翠令もそう思わないか?」


 翠令は苦く笑って首肯した。


「……面倒くさいなどと評されるのは、ご本人はさぞ心外でしょうけれども……」


 佳卓の兄も軽く笑む。苦笑ではあったが、弟への愛情が滲み出る表情だ。


「彼は気障な男でいたいと思っているようだからね。まあ、そんな背伸びをしているところも可愛いんだよ」


「分かるような気がいたします」


 翠令に一つ頷くと、佳卓の兄は笑みを引っ込め真剣に姫君に語る。


「佳卓は武人として生き、東国で長く過ごし、白狼とも剣を通じて友情を育んできました。翠令を麾下に加えたのも彼が武人の長だからです。しかし、円偉は武人としての佳卓を全て否定する。円偉の佳卓への愛情は佳卓に向けられているのではありません。円偉は佳卓の自分と似ている部分だけを愛しているに過ぎない」


 翠令は白狼が似たようなことを言っていたと思い出した。


「白狼も申しておりました。円偉はどれだけ他人を自分に似せれば気が済むのか、と。『そんな奴は家に引きこもって鏡に映る自分の影とでも喋ってりゃいいだろうが』とも」


 佳卓の兄は「面白い例えだ」と軽く笑ってから続けた。


「白狼が呆れるのも当然のこと。円偉は佳卓という他者を愛しているのではなく、結局は自分のことしか愛していない」


「……」


 佳卓の兄は鋭く首を振った。


「円偉は自分のことしか愛せないが、その愛情を双璧と称される佳卓に向けている。だから、円偉の佳卓への想いは矛盾する」


彼は白狼の例えを使った。


「円偉は鏡の中の自分の影では満足できずに、他者である佳卓を求める。だが、本来は他者である佳卓に自分と同一になれと言う。──この二つは両立することはない。円偉の望みは貫徹しえないんだ……」


「それはそうです」


「だから、円偉が佳卓を手に入れたと思っていても、いずれは破綻する。遠い先の話かもしれないが、だが、避けようもなくそんな日が来る……」


「なるほど……」


「確実に来るその日を待っているべきじゃない。円偉は佳卓が己の敷いた道を歩かないと分かったとたん、激怒するだろうからね」


「……」


「そうなったときの円偉の憤怒は計り知れない。自分がこれまで佳卓に注いできた愛情が裏切られた──と。他の誰よりも佳卓を愛してきた彼は、他の誰よりも深く烈しく佳卓を憎むことだろう」


「そんな……。円偉が一方的に佳卓様に執着していただけなのに……理不尽です」


 でも……。確かに円偉はそういう男なのだ。


「破綻が見えているのに可愛い弟をその中に放り込もうと思わない。もっと早い時点で円偉の企てを挫いてやりたい」


 だが……と言いながら、佳卓の兄は視線を床に落とし、両の拳を握った。


「だが、しかし──その方策が見つからない……」


 襲芳舎しゅうほうしゃ母屋もやに重苦しい沈黙が下りた。


 結局はここで行き詰まる。錦濤の姫宮や佳卓のために円偉の専横をどうにかしたくとも、具体的な解決策が見つからない。


 ──ここで諦めるしかないのだろうか。


 厳しい声がその静寂を破る。


「諦めてはなりません」


 竹の宮の姫君が背筋を伸ばして毅然とした声を出した。


「姫君……」


「まず、わたくしが諦めたくありません。あの男は、自分が愛情を掛けた相手は、常に自分に従うはずだと思い込んでいる。それは、このわたくしに対しても同じです」


 姫君は、その美しい顔に嫌悪を露わにしていた。


「わたくしは円偉の勧める本を読み、今まで円偉に対立したこともありません。円偉はわたくしを大人しいだけの女で傀儡にちょうどいいと思っている。あの者がわたくしに好意的なのは単にそれだけの理由です」


「……」


「あの者は他人を自分が自在に動かせる盤上の駒に過ぎないと考えている。己は何もすることはありません。徳だの仁だのと言いますが、あの豺虎けだもののもとで何かの行動を取ったわけもない。己は何もせず、ただ他人の人生を弄ぶ」


 姫君は「白狼も」とだけ呟いたが、その先は聞かなくても分かる。円偉は白狼の命を政争の具として奪おうとした。


「あの者がわたくしを思い通りに東宮に、そしてゆくゆくは帝の位につけても、己の独善性を改めることなないでしょう。すると、わたくしだけではなく民にも累が及ぶ」


 翠令も思わず居住まいを正した。翠令はただの商家の娘に過ぎないが、この女君は帝の位のなんたるかをよくご存じの方なのだ。


「あの男は、現実に生きている他者のことを己の手駒くらいにしか思わない。こうも他人に無関心な者に、多様に異なる民のことを真に理解し、それぞれを尊重し、それぞれにばらばらな利害を調整することなどできるはずがない。あの者にまつりごとを任せる訳にはいきません」


 姫君は南を睨み据えた。南東には紫宸殿が、南西には大極殿がある。この国の帝の私的領域と公的領域、王権の中心だ。


「多くの民の幸不幸を預かる帝は、多様な人間、個性を受け容れる度量が求められる。円偉ごときが朝廷を動かそうなど笑止千万。帝や東宮の地位を弄び、才ある人間を己の気に入るように勝手に使おうなどとおこがましい。あの者を朝廷の政から外さねばならぬ」


「姫君……」


 姫君は唇を噛んでおられた。


「分かっています。確かに、今の我らには打つ手が見つからない。けれども、決して諦めてはならぬのです」

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