六十八 翠令、竹の宮の姫君にお会いする(二)

 姫君が流した涙はその一滴だけで、毅然とした貌を取り戻す。


「わたくしは、錦濤きんとうの御方こそ東宮であるべきと考えます」


「それは……」と翠令は口にし、そして慌てて「ありがとう存じます」と頭を下げた。


 姫宮の叔母であり、そして今、新しい東宮として朝廷に迎えられているこの方からそう言って頂けるのは心強い。ただ……翠令は姫宮がお幸せであればそれでいい。東宮に相応しい少女だと思うが、それはこの竹の宮の姫君が劣っているからだと思っているからではない。


「貴女様もまた、思いのほかお心が強いとお見受け致しました。このまま東宮となられてもご立派に務められるのではないかと思います。錦濤の姫宮につきましては無実の罪さえ晴らしていただければ……」


「翠令の気遣いは有り難く受け取りましょう。なれど、わたくしよりも錦濤の御方は帝に相応しい優れた資質があると思っています。そのような方が帝の地位につかぬのは民にとっての損失です」


「民にとっての……」


「先ほど、私は人の不幸はそれぞれだと言いました。その不幸を生き抜く道も、目指すべき幸福も多様です。民の数だけ不幸と幸福の形は異なります」


 姫君は目を伏せた。


「父帝や兄様あにさまがよくお話しでした。帝は一人一人の民の、その個性をよくよく知ろうとしなければならぬ、と。人はそれぞれの喜びと悲しみがあるのだと。民の全てを救うことは困難を極めることであるが、帝はそれを怠ってはならぬ。それゆえ帝位は重い……どうしましたか? 翠令」


 翠令ははっとした。きっと自分は呆けた顔を晒していたことだろう。


「いえ……。商家の娘に過ぎぬ私には遠大なお話すぎて……失礼を致しました」


 姫君は苦く笑う。ただ、それは翠令に対してではなく、自身に対してだった。


「私もこの父帝のお言葉の意味を実感を持って理解できるようになったのは、白狼に会ってからのことです」


 姫君が表情を緩める。想い人を思い出しているからなのか、それともその話が微笑ましいからなのか、その両方なのか……。


「白狼の例えでは、盗賊の頭目は手下の望みを──食料が欲しいのか女物の派手な衣装が欲しいのか知っておかなければ、盗品を分ける時に困るのだそうです。上手く配らなければ盗んだ甲斐もないと申しておりましたよ」


 翠令は思わず軽く天を仰いだ。あの男が真面目な顔で言いそうなことだ。


「帝の位を盗賊稼業に例えるとは……彼らしいといえば彼らしい。錦濤の姫宮についても『盗賊なんかをやらせるといいぞ』などと真顔で申しておりました。姫宮は自然と人の集まりの頭目になる性格をしているから、と」


 姫君は微笑む。


「白狼は盗賊であったことに誇りがあります。白狼にとって盗賊の頭目が務まるというのは最大の評価でありましょう」


「確かに……」


 姫君は少し声を悪戯めいたものに変えた。


「白狼がそう言うのなら、錦濤の御方は、手下を細やかに思い遣って適切に盗品を分け与えるよい頭目になれることでしょうね」


「……」


 姫君は表情を真面目なものに戻す。


「錦濤の御方は、御年十にして既に良き主公の器を備えているように思う。いえ、わたくしが言うまでもなく、翠令こそそう思っているから忠義を捧げているのでしょう?」


「はい……ええ、そうです。私にとっては無二の主でございます。ですが……」


「何ですか?」


 翠令は姫宮を愛らしく思っている。だが、この朝廷の者達はそうではなかった。女童と呼び、と呼び、都の外へ追いやった。


「私にとって良き主公でも、円偉やその崇拝者にとってはそうでなかった……。生意気だと……嫌われてしまいました。佳卓様も『清濁併せ吞む器量が必要だ』とおっしゃっていましたが……姫宮は……」


「佳卓が十の少女に今すぐそのような器量を持てと言ったのですか? それは随分厳しい見解だと思いますが」


 翠令は佳卓とこの話をした場面の記憶を浚った。


「いえ、今すぐというわけでは……」


「そうでしょう。十歳などただの童に過ぎぬ。未熟で当然です。わたくし自身を振り返ってみても、十の齢になるまで随分と無邪気に過ごしていたものです。そして十を過ぎる頃にあの男に襲われて自分の人生を呪って恨みながら二十を越える齢となり、そして今、白狼に励まされて自分の運命に立ち向かおうとする人間になりました」


 人は変わります、と姫君は続けた。


「人は他者に触れて自分を形作ります。私は豺虎けだものに襲われて気狂いとなりましたが、白狼と出会って己の運命に打ち勝とうする人間となりました。幼い子が大人に、病者が癒えた者に、愚者が賢者に……明日の自分は今日の自分ではないかもしれないと思えることは、希望です」


 ああ、と翠令は思う。この方はただ美貌に恵まれたというだけで、男たちの欲望の対象となった。その捌け口以外に生きる道を与えられず、ご自身でも何のための人生かと閉塞感に苛まれておいでだっただろう。


 この方もきっと変わりたいと願っていらしたはずなのだ。だが、誰も真摯にこの方に向き合わない。

 けれど、姫君は白狼と出会った。彼はいい男で、良き恋人だ。彼は人生にもがく女君を助けようとし、姫君も変わりたいと思っておられた。この二人が出会って互いの心を合わせたのだ。白狼はどこか深みのある男に変化し、そして姫君の止まっていた時間は動き始めた。


「今が完成された人格でなくとも、これから変わりたいと願うことが大事だと私は思います」


 変化──。


 そう言えば、姫宮ももっと幼い頃からご性格が変わった。


「姫宮もこれまでに変わって来られました」


「そうなのですか?」


 翠令は、姫宮が三歳ばかりの頃、初めてお会いした時のことを思い出す。


「幼き頃の姫宮は『ぼうっとした』感じの御子でいらした……」


 姫君が小首を傾げる。


「ぼうっとした? ぼうっとした子では盗賊の頭目など務まらないでしょう? 白狼の話ぶりでは好奇心旺盛で活発なご気性の御子のようですが?」


「錦濤は商人の街ゆえ、ぼうっとした性格は男女問わず好まれません。父をはじめとする者達が、外の世界への好奇心を育まなければと色々試みたのです」


 姫君は笑む。


「結構なこと。他者やその背景に興味を持つことは成長への原動力です。錦濤の街は、心を砕いて未来の賢帝をお育てしたと言えましょう」


 翠令は恐縮して頭を下げた。


「これは……貴人中の貴人であられる貴女様からそのような過分なお褒めを頂いては……。父たち、錦濤の街の者が聞けば喜ぶやら恐れ入るやら……」


 錦濤の街はそんなに気負い込んでいたわけではない。自分達が過ごす商家のありようを単純に実行しただけだ。

 何しろ、つい先日まで姫宮は明日をも知れぬ流罪人の子でしかなかった。愛らしい御子で、ゆえに皆が大切にお育てしようと思い、それには、当の姫宮が楽し気であって欲しかったのだ。


「我々はただただひとえに姫宮の笑顔を拝見したいと……明るく楽しくお過ごしいただきたいと……」


 ここで、それまで黙っていた典侍が口を開いた。


「錦濤の姫宮は、本当に朗らかで明るい御子でいらっしゃいます」


 竹の宮の姫君もそちらに視線を向ける。


「あの御方を拝見していて女君にも色々な個性があるものよと感嘆したものです。錦濤の姫宮は破天荒で男君のような行動力をお持ちでいらっしゃる。父宮同様に外に飛び出し様々なものに好奇心を寄せ、燕の哲学書だけでなく実用書や説話集など幅広い読書にも挑まれる……」


 典侍はここで「ふう」と一息入れて、何かを思い出す目つきで遠くを見た。


「錦濤の姫宮がいらっしゃる間、まことに賑やかな日々でございました……」


そして再び姫君に向かって頭を下げながら、続ける。


「姫宮様が仰せの通り、帝位には重い責任が伴います。父帝様も兄上様も、妹宮の貴女様を慈しんでおられたゆえに、このような重荷を背負わせずに済んだと安心しておられました。それに錦濤の姫宮が東宮として来られて……こうも活発な女君なら、楽しみながら良い帝になられるものと安堵しておりました。それなのに……」


 典侍は心底悔しそうに顔を歪める。


「姫宮様を呼び戻して今さら東宮になど……。今までも辛いお暮しで、未だご静養が必要な御身に再び負担がかかるなど……余りにいたわしくて……」


 姫君が初めて感情の籠った視線を典侍に送った。


「典侍が私を心配してくれる気持ち、嬉しく受け取る。されど、私の負担だけでなく……。何より、民にとって最善の人材が帝位に就くべきであろう」


 姫君の顔が翠令に向けられる。


「帝の位はそう簡単に降りられぬ。何事も楽しくなくては続かぬもの。典侍が申すように、錦濤の御方の自然な振る舞いが、帝の振る舞いに適っていること。民にとってこれほど幸運なことはあるまい」


「されど……」


「こたび、円偉どもが政変を起こし、錦濤の御方を放逐したことなら、それはあの者が間違っている」


 ぴりっと強いお声だった。


「円偉は何も変えたがらないし変わりたがらない。自分が完璧だと思い、自分と異質な者は貶めて排斥する。興味すら覚えない」


「……はい……」


「見知らぬ者との出会いと自身の変化を望まぬ者は、政に関わるべきではない。どんな民といつ出会おうと、その背景にある事情ごと興味を寄せていかねばならぬ──白狼であれば、手下に無関心では良き盗賊の頭目にはなれないと言うでしょう」


「……確かに円偉は民に無関心です。あの男の書いた紀行文を読んだのですが……」


 姫君が少し意外そうな顔をしたので、翠令は自分が真名の本を読む趣味があることを説明した。


「ええと、私は一介の武人ですが、錦濤で育っておりますので真名の読み書きはできるのです」


「なるほど、そうですか」


「その円偉の紀行文、円偉はどこの土地を旅しようとその土地自体に興味はないとしか思えないのです」


 姫君の感想もまた素っ気ない。


「ああ……私も半分くらいで飽きて読むのを止めました。あの本を読んだところで、外の世界のことは分かりませんし」


「ええ、錦濤の姫宮は『円偉の好き嫌いしか分からない』とおっしゃっていました。私も、都の知識人なのに鄙を旅する円偉自身の自己顕示欲ばかりが鼻について……」


「翠令のその感想、私にも分かります」


「それでも円偉の信奉者は、円偉が鄙の人に触れ合うことで徳や仁を実践しているのだと申します。ですが……地方に生きる民について、その土地や気候、文化などを知らずしてどうして彼らの幸せを知ることができるでしょうか。また、民は安寧や豊かさを求めるもの。それらの期待に応えずして、どうして適切な統治ができましょうか」


「その通りです。錦濤の御方は、それらを求めて大学寮に行かれた。自分の知らないものを知りたいと願う気持ちが強く、そして苦行でもなんでもなく喜びであると感じていらっしゃる。私はそれが為政者に最も重要な資質だと思っています。錦濤の御方が帝位におつきになれば良きまつりごとをなされよう」


 姫君の表情が今までで最も厳しいものとなる。


「帝に就く候補が私しかいないのであれば私も力を尽くそう。されど、今上帝は暴君の父に似ず真面目な御方であり、資質に恵まれた錦濤の御方もいらっしゃる。この私が御所に戻らねばならぬ道理がない」


 それが正しいと翠令とて思う。だが、円偉は道理について別の考えを持っている。


「円偉は、錦濤の姫宮よりも叔母に当たられる姫君が東宮であるのが正しい順番だと考えています」


 姫君は一笑に付した。


「兄様は何の罪もなく東宮を廃されておしまいになった。本来兄様が帝位にお就きになるはずでした。ですから、その息女たる錦濤の御方が次の東宮に立つのが筋です。私は兄様の傍系に過ぎません」


「ごもっともです……」


 姫君は凛とした声を高くした。その顔は御簾越しに左大臣家の嫡男、佳卓の兄を睨み据えている。


「左大臣家に問う。なぜ、血筋正しく優れた資質の東宮を廃するのか。道理を捻じ曲げているのは円偉の方。それを見過ごすなら、左大臣は何のための朝臣か」


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