深夜の侵入者

 その日の深夜、シーナはひとり、バクロー商会の支部の前にいた。


 寝静まった街は静かで、昼間の喧騒が嘘のようである。あちらこちらに張りめぐらされた蒸気のパイプは静まり返り、澄んだ空気は山岳特有の張り詰めた冷やかさを保っている。

 

 支部の建物の玄関ポーチからは下へ下へと広がるミョウコウ市の街並みがよく見渡せた。といっても正確に言えば見えるのはぽつりぽつりと灯っている街灯の明かりである。建造物はそのほとんどが暗闇に沈み、月明りで辛うじてそのシルエットが判別できるだけだ。


 かつて、人類が平地で暮らしていた頃、夜の街並みを高台から写した写真を見たことがある。

 

 それはまばゆい光に溢れ、夜であることが疑わしいほどに煌びやかであった。その頃は人々の生活は電気を主要なエネルギーとして用いており、夜間でも多くの建物に電気の明かりが灯り、人々は夜の街を楽しんだという。


 今でも電気は僅かに利用されてはいるものの、それは風力や太陽光に頼った貧弱なものである。主要なエネルギー源の地位を追いやられ、蒸気機関の補助的な位置づけに過ぎない。


 シーナはほんの数十年前まで人類が謳歌していた繁栄に思いを巡らせ、ふと我に返ると深呼吸をひとつした。

 これからこのバクロー商会に忍び込むのだ。

 否が応でも緊張が高まった。


 遠慮がちに正面玄関のノッカーを叩く。コツコツ、という音が建物の内部に反響し、想像していたより遥かに大きな音にシーナは少し首を竦めた。

 そのまま30秒待つ。

 耳を澄ませて中の物音を探るが、人が動く気配は無かった。


「さあ、いってみるか」

 覚悟を決めたシーナは自らを鼓舞するようにふうっと細く息を吐き出すと、両開きの玄関ドアの合わせ目に薄い金属ヤスリを差し込み、静かに前後に動かし始めた。


 二つのドアを繋ぐ錠の金属棒がヤスリに擦られて音を立てる。

 誰かに見咎められないことを祈りながら、シーナの手の動きは間断なく続けられた。


 ごり、ごり、ごり、と響く鈍い音が確かな手ごたえを感じさせる。

 手に伝わる金属の感触は、徐々にヤスリが食い込んでいっていることを物語っていた。

 いい調子だ。このペースなら思った以上に早く切れそうだ。


 シーナは時折周囲を警戒しながらも手を素早く動かした。

 徐々に疲労が蓄積し始めた二の腕が痛みを発し始めている。当然といえば当然だ。何しろ今まで、植物や昆虫、あるいはその種子や脚などのごく小さなものを扱うのがシーナの仕事だった。

 ヤスリを使うことすら人生で数えるほどしかなかった。


 それでも、ジーシェに乗り込んでからというもの、あれこれと船の整備を手伝う中で、こういった作業に慣れ始めてきたところだ。


 どれだけの時間そうしていただろうか。

 やがてヤスリの先から、ゴトリ、と鈍い音が聞こえた。どうやら金属棒が切れたらしい。

 シーナは深呼吸すると、痛む二の腕をさすりながらそっと扉を引いてみた。


 油がよくまわっている蝶番が音もたてずに動く。

 大きな扉は静かに開き、建物の中の暗闇がぽっかりと口を開けた。


 シーナはその暗闇にそっと身体を滑り込ませ、扉をまた閉じた。とりあえずここまではうまくいった。おそらく想定した時間よりも早めにことが進んでいるだろう。

 腰にぶら下げたランタンを手にすると、蓋を開け、オイルマッチで火を灯した。暗闇を照らし出す明かりに、この大手運送会社の事務フロアが浮かび上がった。


 さて、どこから探したものか。

 シーナは少し考え、フロアの奥へと歩いていった。ホールの先にある受付カウンターを乗り越えて並んでいるデスクの間を通り過ぎる。このあたりにあるのは事務作業員たちのデスクだろう。ここには間違いなく求めているものはない。

 あるとすれば奥にある上役のデスクか? あるいはこのフロアではなく、もっと別のところだろうか。


 逡巡しながらも一番奥にある一際高級そうなデスクにたどり着くと、シーナは手あたり次第に抽斗を開け始めた。

 中から出てくる書類をランタンにかざし、書いてあることを読み取る。どれもまともな取引に関するものばかりだ。どうやらここは外れらしい。


 それをまた元の場所に戻すと、次は2階を目指してフロアを横切る。階段室の場所はわかっている。できるだけ足音を立てないように用心しながら階段を登り、2階に出ると、そこはどうやら重役たちの個室が並んでいるようだった。


 金属製のネームプレートが部屋にかけられているが、どれを見ても個人名が並ぶだけでどういう役職の者なのかがわからない。しかもどの部屋にも鍵がかかっていて、これをこじ開けるにはまた時間が取られそうだった。


 どうする、とシーナは自問した。

 おそらく支部長の部屋かどこかに入れれば目指すものはあるだろう。ただひとつひとつこの鍵のかかったドアを開いていくわけにもいかない。ましてや木のドアならまだしも、どれも金属製である。ひとつこじ開けるだけでも夜が明けてしまいそうだ。


 もう一度夕方の出来事を思い出す。そう言えばあの時、あの男は1階フロアにいた。と、いうことはそこにあいつのデスクがあるんじゃないか? そうするとむしろ先ほどの並んだデスクの中を探した方がいいかもしれない。

 そうだ、確かあの男は自席に座っていた。場所は――。


 その時、下の方から何やら物音が響いた。

 下の階で誰かが動いているのだろうか。

 どうする――? このまま下へ戻るのはリスクが大きいか?


 しばらく考え込んだシーナは、物音がもう一度ならないことを確認すると、静かに階段を降り始めた。

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