逃飛行
レンはダイニングに備え付けた装備品のボックスから、ガスマスクをふたつ取り出した。このところ使ってなかったので少々埃っぽい。ただ、古い型ではあったが、まだ新品といっていいものだった。
口元にあたる部分には円柱状の金属部品が前に飛び出しており、その先端からは横向きに更にもう一本の円柱が取り付けられている。円形のゴーグルがセットになっていて、頭からすっぽりとかぶる造りになっていた。
マスクを持ってコーの元へと戻る。
これを使うということは、つまりそういうことだろう。マスクをひとつコーに渡し、もうひとつを自分ですっぽりとかぶった。
癖の強い髪の毛が少し引っかかり、一瞬鋭い痛みが走った。こういうとき、コーの坊主頭が羨ましくなる。
コーの方を見ると、すっかり装着し終わって既に昇降舵を握っていた。
「さあ、降りるぞ。連中の船はどんな具合だ?」
「うん、だいぶ上昇してきてる。そろそろ高度が追いつかれそうだよ」
レンが窓から首を出して確認すると、コーは頷いた。そして昇降舵をいっぱいに押し下げる。がくん、と小さな揺れのあと、ジーシェの高度が下がり始めたのがわかった。
ぴしっ、という音がゴンドラの壁で鳴った。
ジーシェ号が下がり始めたため、一時的に賊の船と高度が並んだらしい。その機を逃さずに空気砲を撃ってきたようだった。
だがそれには構わず、コーたちの船はどんどん高度を下げていく。空賊の飛行船は上昇は遅いが、下降は不得手でもないらしい。ジーシェに合わせて高度を下げ始めたのが舷側の窓からちらりと見えた。
次第に地表が近くなってくる。このあたりは比較的広い平野になっており、眼下は見渡すかぎりハロスの海だ。高度計が1,000メートルを切った。
黄色味がかった毒の霧が徐々に窓一杯に広がり、やがてコーの、「突っ込むぞ!」の一声と共に、ジーシェ号はハロスの中へと突入していった。
ハロスの中は視界がほとんどない。せいぜい数十メートル先がぼんやりと見える程度である。流石にこの中でレンが舵輪を握るのは不安が大きい。コーは何も言わず、自ら船の操縦を続けた。
高度は300メートル程度まで下げている。あの悪名高き大戦の前までは、飛行船もこのくらいの高度をのんびりと飛んでいたという話はどこかで聞いたことがあった。だが今は辺り一面を霧が覆い、地表に近いところに残された枯れ木やかつての建物も見えない。
レンは再び船尾へと行き、後ろの様子を窺った。
ジーシェ号が掻き分けたハロスが空気の渦に巻かれて、複雑な濃淡模様を作り出している。少なくとも見える僅かな距離の範囲には、茶色い飛行船の姿は見当たらなかった。
ゴンドラの建材の隙間から時折入り込んでくる黄色っぽい霧を手で払いのけながら、レンは監視を続けた。コーはジーシェを時折右へ左へと曲がらせて追手を撒こうとしているらしい。
ただ、いかんせんこの視界では、それが功を奏しているのかどうかも今一つわからない。
霧の中で、何度か例の空気砲の音を聞いたような気がした。
聞き間違いだろうか。
それとも闇雲に撃っているのだろうか。
ハロスに突っ込んだのを見て、追跡を止めた可能性もある。
だが、空賊たちもガスマスク程度の装備は備えているだろうから、追ってきていることは十分に考えられた。
船首に戻ると、コーは少し物思いに耽っている様子だった。舵輪を握る指が、トン、トン、と規則正しいリズムを刻んでいる。
「あの連中、もしかしてラーラで声を掛けてきたヤツかな」
「ああ、それを俺も考えてた」
コーは昇降舵を少し調整しながら答えた。
「もしかすると、誰でもよかったんじゃなくて最初から俺たちを狙ってたのかもしれん。だからあの時、俺たちに声を掛けてきたのかも」
「でも、それならわざわざ離陸するまで待たないで、停泊中に船を襲っちゃえばよかったんじゃないの」
「そりゃそうもいかねえだろ。なにしろ発着場のあたりは目撃者も多いし、流石に警備員の一人や二人は巡回してる。面倒ごとになるのも厭わないならそれでいいかもしれんが」
「そっか」
それでレンも少し納得した。
「だから空中で、目撃者もいなくなるのを待ったのかな」
「空で襲えば、証拠は全てハロスの中へ沈んでくれる。何十年も経ってスカベンジャーが引き上げる頃には、全部風化して何もわからなくなってるってわけだ」
コーが顎ひげに手をやりながら、思案深げに呟いた。
「ま、確かめようもないけどな。連中の考えなぞ」
10メートルほど先を鉄塔の先端らしきものが通り過ぎて行った。このあたりは低山になっているのか、地表が近いらしい。
「おっと。もう少し高度を上げた方がいいか。こんなところで不時着なんてことになれば、生きて帰れる保証もない」
レンはコーの呟きを聞くと、平地に不時着した自分たちを想像して少し身震いしながら昇降舵に手を伸ばした。
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