ハロス

 機体を北東に向け、ジーシェ号はしばらくの間上昇を続けた。


 山頂付近のガスと乱気流の影響を受けないところまで、さっさと昇る必要がある。特にこのツバクロ市やジョーネン市があるあたりは遥か昔からの山脈であり、いまや街が密集する、いわば都会である。

 当然飛行船の離着陸も多いから、こういった視界の悪い日には衝突事故が心配だった。


 やがて低く垂れこめていた雲が切れて視界が開けだした。平地の上に出たらしい。

 コーが蒸気エンジンの出力を上げると、飛行船は滑るように進みだした。


 眼下には一面に毒の霧ハロスが広がっている。

 ほとんど地面が見えないところを見ると、地上はほぼ無風らしい。

 空気より重く、何十年にもわたって地表に滞留を続けるこの厄介な気体は、見ていると時々生き物のように蠢くときがある。

 勿論ハロスが覆い尽くす平地には植物すらほとんど生えていない。そもそも生物が生きられる環境ではないのだ。


 ただ、それでもこの毒性の気体の中へと飛び込んでいく者たちは少なからずいる。ガスマスクをつけ、寿命を縮めるリスクと一攫千金を天秤にかけて生きているスカベンジャーたちだ。

 平地には、第4次大戦が勃発するまで連綿と繁栄を続けてきた人類が残していった、数多くの遺物が残されている。それらを拾い集め、高く売るのがスカベンジャーの仕事だ。ゆえに先ほど眼下で動いたハロスも、彼らの仕業かもしれなかった。


 いくら人間たちが山の上に生活圏を移したとはいえ、平地でなければ得られない資源もある。そういう意味では、スカベンジャーたちの仕事がなければ、コーやレンなど一般市民の生活も成り立たない。

 街の人間、特にコーたちの住むジョーネン市やオクホ市などの大きな街に住む人々の中には、彼らを汚れ仕事だとして軽蔑する者もいた。

 だがそういった連中の、ささやかながら豪奢な暮らしを底辺で支えているのもスカベンジャーだ。だからコーには彼らを蔑む気持ちが理解できなかった。


「さあ、軌道に乗ったし朝飯にするぞ」

「あ、コー、僕の分も」


 コーが船の中央にあるダイニングに向かうと、後ろからレンの声が追いかけてくる。コーはわかってる、といいたげに手をひらひらと振り、ひとつ欠伸をすると短く刈り込んだ坊主頭をぼりぼりと掻いた。

 ダイニングの棚に放り込んであった弁当の包みから、ラムチョップのサンドイッチをふた包み取り出す。早朝からの仕事の時は、だいたいこうして船上で朝食をとるのが常だった。少なくとも雨さえ降らなければ、排煙だらけの街の空気を吸いながら食べるよりよほど美味い。


 操舵室に戻ったコーはサンドイッチをレンに渡すと、自分の分にかじりつきながら地図を眺めた。今回の目的地であるエボシ市までは約400キロ。ジーシェ号なら丸一日かかる計算だ。どこか途中で休憩のため街に立ち寄りたいところだった。


「コー、あの荷物、なんなんだろうね」


 レンが口に詰め込んだサンドイッチをハイマツのコーヒーで流し込みながら聞いた。


「さあな。随分重かったが……金属製品じゃなさそうだな」

「なんか少し中で動いたよね。傾けた時にさ」

「うん。まあ壊れ物じゃなさそうだ」

「荷主、なんかかなり怪しいやつだったんでしょ」


 湿っぽい街の空気を脱したからか、レンの口は普段通りの軽さに戻っていた。心なしか髪の毛の縮れ具合も少し戻ったようだ。


「セージがそんなこと言ってたな。結構いい服を着て上流階級にも見えたっていうが、あまり素性を話そうとはしなかったとか」

「ヤバい物だったりしないといいけど」

「ま、そうだったら俺たちは中身については知らぬ存ぜぬで通すしかないさ」


 運送業をはじめてから7年になるが、コーは今まで仕事を断ったことはほとんどなかった。どんな荷でも運ぶ、というのがコーのこの仕事をする上でのモットーだ。と、言えば聞こえはいいが、このご時世食いっぱぐれないようにするためには仕事を選んではいられなかった、というのが実情でもある。

 とりわけ駆け出しの頃は、舞い込む依頼の数も少なく、その前に働いていた蒸気技師の時の伝手を頼りになんとか生計を立てていたのだ。

 

 思えば綱渡りのような人生である。

 28年間、真面目に生きてきたつもりだったが、とかく景気の悪い世の中にあっては、なかなかに世間は厳しかった。


「あ、湖だ。ほら、あそこ。ハロスが少し切れてる」

 

 レンの少しはしゃいだ声に、眼を下に向けると、湖面に反射した太陽が眩しい。

 そういえば水上ではあの忌々しい毒の霧も少し薄らぐと言われている。水が毒の霧を吸収するのか、あるいは水面を吹き渡る風の影響かもしれない。確かなことはわからなかった。

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