第5話「便所神」
「便所神」というものを知っているか。
決して過去に少し売れた『トイレの神様』という曲のような生易しさではないヤツだ。便所神ってヤツは、どこのトイレにでも出没する恐れがあるから注意したまえ。
あれは夜中だった。自室でくつろいでいた俺は、自分にとっては変な時間帯に便意を催したので、急いで便所へ駆け込み便座に腰掛けた。その刹那。
全身がゾクリとした。あまつさえ、ひどい寒気を感じた。
なぜって、肛門を何やら変な生き物に舐められた気がしたのだから。俺は「ひいっ」と情けない悲鳴をあげてしまった。
斯様なショックと便意の限界が相まって、俺は大量の大便を放出した。大いなる大をだ。
排便直前の肛門を舐められたような感じは何かの間違い、気のせいだろうと思い直して、肛門をトイレットペーパーで拭こうとしたまさにその時、またもや肛門をペロリと舐められた感じ。
白状すると、気持ち悪さより気持ち良さが勝っていた気がする。いま思い返せば。
便座に掛けたまま、おそるおそる身体を屈めて便器の内部を覗くと、頭髪がかなり薄く、汚らしい髭を生やした中年男が満面の笑みを浮かべて俺を見上げていた。控えめに言っても気持ち悪いオッサンだった。気味が悪い、キモい。
人間というのは衝撃を強く受けると心身ともに固まってしまうものだ。俗に言う「テンパる」というやつだな。
オッサンは固まっている俺に対して「俺は便所神だ」と宣言した。気色悪い笑顔とともに。
まさか自分の人生において、神という存在に遭遇する機会を得るとは夢想だにしていなかった。しかし、よりによって便所の神とはな……。ババを引いた感が強し。関西では大便をババと呼ぶらしいが、とりあえずその話は脇に置いておく。
便所神とやらは続けて言った。「便所神である俺は『便所紙』の役割を担う。……別に駄洒落の類いではないぞよ」
なるほど確かに俺の肛門は、便所神が舐め回してくれやがったおかげで大便が綺麗サッパリ拭い取られていた。超高性能ウォシュレットを使った後のごとくだ。
俺はようやっと全身の固まりが抜けて、便所神に質問をしてみた。「便所神の存在意義って何だ」と。
「ない」と便所神は、やや悲しげに答える。「現代人は俺という便所神の存在を軽んじて、ウォシュレットとかいう肛門洗浄機を発明し、それは瞬く間に世界中に広まってしまった。便所神は紙の代わりに人間の肛門の汚れを落とす……清める使命を帯びていたわけだ。それが何だ、今の人間たちの体たらくは」
便所神はずいぶん妙な主張を展開する。しかし、そもそも俺は便所神の存在や、ましてや彼の役割など今までまったく知らずに人生を歩んでいた。そしてたとえ便所神がいなくても世の中は十二分に回っていくことだろう、という結論にはすぐに至った。
「便所神さんよ、アンタの役割はとっくに終わってんだよ」
俺は己の考えをただ淡々と述べただけではあったが、便所神からするとこの上なく冷酷な死刑判決のように聞こえたらしい。まるで長年勤めた会社から突如解雇通告を受けた、能力がイマイチの初老社員みたいな顔になった。仮にも神なのにずいぶん無様な姿じゃないか。
そうは言っても悔しいことに、便所神に肛門を舐められたとき一種の快感を持ったことは事実だ。
……肛門も性感帯のひとつである……。
思い直して便所神の姿を見る。汚らしい。快感の記憶は雲と散り霧と消えた。
俺はレバーを引き、大便と便所神もろとも下水方面に流し去った。「ゴーッ」という音とともに便所神の「ああああっ」という断末魔のごとき叫び声。
便所神は消え失せた。おそらく二度と俺の元へ現れることはないだろう。
しかし。
あなたの元に、知らぬ間に便所神が来ているかもしれないぞ。
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