第67話


 香りが出ていくと、当たり前のようにその席に月埜が座った。

「ったく……なんだよ、お前」

 仁平は眉を寄せて月埜を睨む。

 その席は香りの特等席なのに。なぜお前が座るのだと、仁平は心の中で月埜に毒づく。

 しかし月埜は平然とメニューを眺め、店員に注文までしている。

「アイスティーと、チーズケーキ」

「かしこまりました」

 店員は二人をカップルだと思ったのか、嬉しそうにニコリと仁平を見た。

 その視線がやけにイラッとくる。

「……俺は帰るぞ」

 仁平が席を立つと、月埜がぼそりと呟いた。

「……悪かったわよ」

「……は?」

 うっかり聴き逃してしまいそうなほどに小さな声で、月埜が言う。

「……もしかして今、謝ったのか?」

 思わず聞き返すと、月埜がメデューサのごとき鋭い視線で、

「他になんて言うのよ」

 仁平は呆れたようにため息をつくと、座り直した。

「……なんで俺に言うんだよ。相手が違うだろ」

 仁平は面倒くさそうに、テーブルに頬杖をついた。月埜は心から後悔しているのだろう。だが、いくら謝罪をされようと、彼女のしたことは変わらない。仁平の想い人の命を奪ったことに変わりはないのだ。

「……だって、あの人に言っても、余計に嫌な思いさせると思ったから」

 月埜は子供のように口を尖らせた。仁平は窓の外に向けていた視線を月埜へ向け、ため息をついた。

 タイミング良く、店員がアイスティーとチーズケーキを運んできた。静かに一礼をして、二人の不穏な空気を気にしつつ去っていった。

「だからって、俺に言われても困る」

「あんた、あの女が好きなんでしょ? 私を殺すためにあの箱船に乗ったんでしょ? だから……」

 仁平はじっと月埜を見た。

「死ねっていうなら、私……」

 月埜は手をぎゅっと握りこんだ。

「ふざけんな!」

 店内に、仁平の怒号が響く。

「死んで逃げようってか? たしかに俺も、最初は殺してやりたいと思ってたよ。でも、香りの星井熊野に対する態度を見て、気が付いた。……まあ正直、お前の気持ちもわからなくもないからな……」

 仁平は瞳に昏い影を落とす。本音を言えば殺したいくらいに憎んでいる。それでも、自分たちはたしかにあの箱船に乗って確かめたのだ。命の大切さを。命の重さを。

 月埜はじっと仁平の言葉を待った。

「……ただ、お前はずっとその気持ちを抱えたまま生きていけ」

「この気持ち?」

「殺意なんて、人は簡単に覚えるんだよ。それを行動に移すか移さないかなんて、紙一重ってことだ。殺人者が特別ってわけじゃない。俺たちはみんなその衝動を抱えてる。だから、腐るなよ。せっかく俺たちにはチャンスが与えられたんだから」

「……あんた、正真正銘のお人好しね。あの女にそっくり……」

 月埜の瞳に涙が滲んでいく。仁平はそれを視界の端に確認し、腰を上げた。

「……じゃあな。ここの会計は俺が」

 仁平はそれだけ言い残し、喫茶店を出た。


 窓際の二人が座っていた席には、月埜一人だけが残された。

 陽の光が月埜を照らし、向かいのテーブルにかけて、うっすらと影を落とした。

 月埜は運ばれてきたアイスティーとチーズケーキには手を付けず、しばらくその席で静かに涙を流していた。

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