第66話


 香りは喫茶店にいた。

 向かいには、仁平が座っている。仁平はホットコーヒーに口を付け、喉仏を鳴らすと湿った口を開いた。

「星井熊野は両親の元に帰り、自分の目のこと、それから殺人衝動のことを告白したそうだ。神奈川の精神科のある病院に入院することになったらしい」

 香りはコーヒーフロートを囲っていた手を放し、膝に置いた。

「そうですか」

「お前は、あの少年の方に行くんだろうなと思ってたよ」

 仁平は、苦笑して香りを見つめる。

「先輩は、きっと賢治さんを助けに行ってくれると思ってました。だから、迷いなく河川敷へ行けたんです」

「よく言うよ」

 仁平は都合よく口を回すかつての後輩を見る。しかし、その口元は嬉しさを隠しきれずにゆるんでいた。

「賢治さんは無事無傷で保護できたし、雪歩さんの元へ戻れた。高見まさるは詐欺未遂で絹川警察署に自首してきたが、本間つや子がそれを否定し、証拠もないことから口頭注意で終わったよ。それから、仕事が決まるまで本間さんのところに住まわせてもらうとかって言ってたな」

 仁平はやれやれと眉を寄せた。

「そうですか。高見さんとはあれから会っていなかったので、どうしてるか気になってたんです。でも、良かった」

 香りが緩く微笑む。

「あぁ。皆、今のところは上手く進んでる」

 しかし、すぐに真剣な顔つきになると、

「香り……ごめん」

「え?」

 香りは顔を上げ、仁平を見る。

「俺、あのとき……お前が蛇女に襲われてたとき……本当は気付いてたんだ。でも……嫉妬してた。俺のことを全然見てくれないお前に……なんていうか、よく分からない黒い気持ちが湧き上がって、動けなかった」

「……先輩。私、前にも言ったけど……先輩にずっと甘え過ぎてました。優しい先輩にずっと甘えて寄りかかって、負担にさせて。いや……違いますよね。利用してたんです。先輩の優しさにつけ込んでたんです」

「そんなことはない! 利用してたのは俺の方だ。優しいお前は俺を突き放したりしないから……ごめん。許されないことをした。俺は、警察官失格だ」

「そんな悲しいこと言わないで。私はずっと先輩に感謝こそすれ、謝られるようなことはなにもされてません」

 仁平は香りをまっすぐに見つめる。

「……俺は、お前が大好きだった。ずっと、あの頃から」

「……ありがとうございます。……あの、私」

 戸惑いがちに瞳を泳がせる香りに、仁平は被せるように言う。

「でも、もう全然だ」

「え?」

 思わず顔を上げると、香りの瞳に悲しげに瞳を潤ませた仁平がいた。

「アイツ、イケメン過ぎんだよ。もうわけわかんねぇ」

「え……?」

「敵わねえよ」

 笑う仁平はどこか吹っ切れた顔をしていて、香りは少しだけ安堵した。

「……きっと、これからの未来は少しだけ変わっていく。あの悲劇がなくなったからといって、全員が幸せになれるかは分からない」

 仁平の言葉に、香りも頷く。

 事故に遭って明日死ぬかもしれないし、違う事件に巻き込まれる可能性もある。

 でも、それでも再び生きる機会を与えられたのだ。

 その機会を、無駄にしてはいけない。

 団長の話は嘘ではなかった。

「私、信じてよかった。あの箱船に乗ってよかったです」

「あぁ。俺もだ。香り、これからまた、俺たちの人生を生きていこうな」

「はい」

 香りは華やぐ笑顔で仁平に頷いた。

「黒中とは上手くいってんのか?」

 ぎくりと香りの肩が跳ねる。

「な……なにがですか?」

 ニヤリと意味深に仁平が笑う。香りは明らかに動揺した様子ながらも、とぼけた。

「とぼけんなよ。決まってんだろ。告白したのか?」

「しっ、してませんよ! せせ、先輩ったら、いきなりなにを言うんですか!」

 香りの顔は真っ赤になっている。

 それがたとえ他人を想って頬を染めたのだとしても、それでもやはり可愛らしいと思ってしまうのは、惚れた弱みか。

 仁平は心の中で、香りを誑かした凪砂をぶん殴っておいた。

 そのとき、店内のドアが開き、来客を知らせるベルが鳴った。

 仁平はそれには気にも止めず、

「なに小学生みたいなこと言ってんだよ。そんなちんたらしてたら、あのいけすかねぇ蛇女に取られちまうぞ」

「あっ……」

 仁平が肩を竦め、凪砂の同僚の話を持ち出す。香りはといえば、仁平の背後に立った影に気が付き、青ざめた。

「あの蛇女、船から降りてからまだ会ってねえけど、もし会ったらタダじゃおかねえ」

 なにも知らない仁平は、蛇女に不満タラタラといった感じで吐き捨てた。

「ちょ、先輩……」

 香りがそのお喋りな口を止めようとするが、その前に仁平の背後に立っていた影が、テーブルにバンッと手をついた。

「どうも、こんにちは。蛇女よ。カラクリさん」

 笑顔で仁平の前に立ったのは、蛇女――山梨月埜だった。

「うわっ! お前!」

 仁平が飛び上がる。

「あんた、警察官のくせに人の陰口とか最悪ね」

 笑顔のままなのが逆に怖い。

「いつからここに……って、いや、べつにこれは悪口じゃなくて、香りを激励しただけだから」

 仁平が苦笑しつつ言い訳を並べる。

 月埜はちらりと香りを見た。

「……ねぇ、あんた」

「わ……私ですか?」

 俯いていた香りが顔を上げる。

 香りはまだどんな顔をして彼女を見ればいいのかわからなかった。

 正直、気まずくて目を合わせられない。

「……先輩、あと少しでバイト終わるわよ。あんたに話があるっていってたから、早くいきなさいよ」

 月埜も香りとどう接すればいいのか迷っているようで、ぶっきらぼうに言った。

「え……黒中さんが?」

 香りが戸惑っていると、

「早く」

 月埜が苛立ったように急かす。

「あ……は、はい。じゃあ先輩、お金はこれで」

 香りは慌てて席を立ち、財布から千円札を二枚取り出し、仁平に渡す。

「いらねえよ」

 仁平は紙幣の握られた手を、首を振って拒絶した。

「あ……じゃあ、次は私が出しますね。ありがとうございます、ご馳走様です」

 次はという言葉に彼女らしさを感じながら、仁平は笑みを零す。

「ああ」

 香りはペコリと頭を下げると、店を出ていった。

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