第65話


 ――しかし、その帰り道の途中で、

「賢治さんっ!!」

 声に驚き顔を上げると、目の前に愛する妻の姿があった。

「雪歩!? お前、なんでここに……」

 賢治が言葉を紡ぎ終わる前に、雪歩は賢治に抱きついた。

「よかった……よかった。生きてた……! 賢治さん……」

「雪歩? 一体どうして……」

「あなたがいなくなっちゃうんじゃないかって、怖かったの……よかった……」

「なんだ? なんだか今日は不思議なことばかり起こる」

「だって」

「落ち着いて。帰ったら、詳しく話すから、とにかく泣き止んでくれよ」

「うん……」

 賢治はわけがわからずも、泣きじゃくる雪歩をなだめるのだった。


 ――一方、絹川河川敷。

 熊野は河川敷に身を投げ出し、ぼやけた空を見上げていた。

「こないなぁ……お兄ちゃんたち」

 目が覚めたら、熊野はあの河川敷にいた。熊野は考える。

 もし今ここに彼らが来たら、どうするだろうかと。

「僕……またあの人を殺すのかなぁ」

 自分のことなのに、よくわからなかった。

 熊野はあの箱船で、彼らの話をこっそり聞いていた。

 それぞれの人生を垣間見た。皆、必死に生きていた。

 あの箱船に乗る前の熊野なら、殺せといわれたら迷わず頷いていた。

 ……だが、今はどうだろう――。


 カサリと草が踏み締められる音がして振り向く。

「……おい」

 聞き覚えのある声に、熊野は瞬いた。その声はあの日、雨音の携帯電話を使って呼び出した男の声だった。

「……お兄ちゃん?」

「残念だが、ここには誰もこねーぞ」

 冷ややかな声で言いながら、凪砂は熊野の隣へやってきた。

「……知ってるよ。どうせ警察のお兄ちゃんが捕まえたんでしょ。……それでなに? お兄ちゃんは今度こそ僕が誰かを殺す前に殺しにきたの?」

 熊野は草むらに寝転がったまま、目を閉じた。

「いいよ。殺してよ。どうせ、この狂気じみた衝動は治らないんだ。それならいっそのこと、僕が誰かを殺す前に死んだ方が楽になれる」

「誰が殺すか。俺はただ、お前の顔を見にきただけだ」

 熊野は思わず硬直した。

「聞きたいことがあってきた。……お前は、人を殺したときの記憶があるのか?」

「……あるよ」

「手に感触は残ってんのか?」

「それは……」

 よくよく思い返すと、なかった。

 まるで覚えていない。

 骨を突き破るような音も、肉を引きちぎる感覚も、まったく思い出せない。そもそも殺人自体を気持ちいいと思った感覚すら、どこか他人事のように思えた。

「……わかんない」

 熊野はすぐ横にいる凪砂の顔を見上げるが、凪砂がどんな顔をしているのか、こちらを見ているのかいないのかすら分からなかった。

「俺はお前を許さない」

 凪砂は熊野を強く睨み、吐き捨てる。その拳はブルブルと震えていた。しかし、熊野にそれは見えていない。

「……知ってるよ。何度も聞いた」

「今もまだ、人を殺したいと思うか?」

 凪砂の問いに、熊野は視線を泳がせ、

「……分かんない。でも、興味はあるよ。その感覚を思い出したいとは思う」

「そうか」

 凪砂は俯く。

「僕を、どうするの?」

「それは……」

 凪砂が口を噤むと、代わりに涼やかな声が響いた。

「――病院に連れていくわ」

 熊野の問いに答えたのは、凪砂ではなく香りだった。

「あんた……」

 サクリと乾いた草を踏み、凪砂の背後から香りが顔を出した。その額には汗が滲み、頬に髪の毛が張り付いている。

 余程急いできたようだ。

「危ないだろ。なんできた」

「大丈夫」

 香りは気を遣う凪砂に微笑むと、熊野に一歩近付いた。

「――こんにちは、熊野くん。初めまして。私、猫娘よ。神条香り。覚えてる?」

「……うん」

「良かった。あなたが変なことを考えていなくて。自殺とか考えてたら、どうしようかと思った」

「え……僕が?」

 熊野は驚きに目を瞠る。

「だってあなた、あの箱船ですごく思い詰めていたようだったから」

 全員の敵である自分を気にかけてくれている人がいたなんて、思いもよらなかった。

「――熊野くん」

 さらに続いて聞こえてきた声に、熊野は目を見開いた。

「雨音だよ、熊野くん」

「……どうして、雨音ちゃんまで……」

 ここへ来るのは凪砂くらいだと思っていた。熊野は、胸がキュッと締め付けられるはじめての感覚を覚えた。

「心配だったから……」

 雨音は困ったように笑う。

 続けて香りが、

「熊野くん。お母さんとお父さんにちゃんと話して、病院にいこう? 私たちからもちゃんと話をするから」

 香りの優しい声に、熊野は瞳いっぱいに涙をためて頷いた。

「熊野くん!」

 一足遅れて、つや子がやってきた。

「…………どうして? どうしてみんな、僕のせいで人生をめちゃくちゃにされたのに、僕のところにくるの?」

 熊野の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。

「ごめんね、遅くなって。私は息子に与えられなかった分も、最後まであなたに向き合うよ。だから、怖がらなくていい。目のことも」

 つや子は皺だらけの手で熊野の手を握った。けれど、その手の温かさに、熊野は特別な感情を持てなかった。

 熊野はゆっくりとつや子の手を解く。と、同時に、熊野の瞳から、ぽろぽろと涙が零れた。

「あれ……なんだろう、これ」

 熊野が服の袖で涙を拭う。

「熊野くん……」

「なに、これ……」

 溢れる涙は止まらない。

「……それはね、涙って言うんだよ。感情が溢れたときに出るものなの」

「な……みだ……」

 香りが言うと、熊野の瞳からはさらに涙が溢れ出した。

「熊野くん。君にはちゃんと、感情があるよ。だから大丈夫」

 しかし、熊野はぶんぶんと首を横に振った。

「……ダメだよ。……僕、やっぱりどうしても生きている実感が湧かないの。殺したい……なにか、なんでもいいから、覚えてないあの感覚を思い出したいって思っちゃう……」

 熊野は涙を流しながら、訴える。

「……おばあちゃん……僕、おかしいんだよ。だから、僕を殺して」

 つや子は堪らず抱き締める。

「大丈夫。もうなにも怖くないよ。君はもうひとりじゃないから」

 つや子は穏やかに言った。

「ずっと一人で、心細かっただろう。よく頑張った。でも、もういいんだよ。我慢しなくていい。たくさん泣いていいんだよ」

「熊野」

 凪砂が熊野を呼ぶ。

「これから先、お前がこの社会で生きていくのは困難だろう。人の気持ちが分からない奴は、社会では排除される」

 そう言葉をぶつける凪砂を、香りは悲しげに見つめた。その言葉はまるで、熊野だけではなく凪砂が自分自身に言っているかのようだった。

 人を信じることを諦めた凪砂もまた、社会で居場所を見つけられずにいたのだ。

「受け入れられない社会でも、お前はその中で生きていくしかない。それが、大罪を犯したお前の贖罪だ」

 香りはやるせなく目を伏せる。

 熊野の小さな体を抱き締めたつや子が、

「大丈夫。あなたも雨音ちゃんも、凪砂くんも高見さんも……あ、そうそう、香りさんもね。私の大切なかけがえのない家族だよ」

 泣きたくなるほど優しい声に、凪砂の涙腺も緩んでいく。

「熊野くん。……熊野くんも苦しんでたんだって分かったよ。だからもう……怖くないよ」

 雨音も大きな瞳に涙を称え、熊野に訴える。熊野はとうとう、その場に泣き崩れた。大きくしゃくりあげ、まるで幼い子供のように泣きじゃくっていた。

 香りは泣きじゃくる熊野を見つめ、頬を緩ませる。ようやく悲劇は終わったのだと深く息を吸った。

 しかし、それでも凪砂はまだ熊野を冷ややかに見つめていた。

 凪砂がなにを思っているのか、香りに推し量ることはできなかった。


 凪砂は、熊野にかつての自分を重ね合わせていた。

 雨音も熊野の涙につられたように泣き出した。

 つや子は「あらあら」と笑いながら、泣きじゃくる雨音も片手で抱き寄せ、優しく撫で続けた。夕方の河川敷には、いつまでも子供二人の泣き声が響いていた。

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