第64話


 ――ピピピピピピピッ…………。

 けたたましいアラーム音に、香りは我に返った。

 視界の中には、本棚に敷きつめられたたくさんの本と、白いカーテンの隙間から差し込む傾いた太陽の光。

 香りは図書館にいた。仕事中だったらしい。

 香りは慌ててポケットの携帯電話のアラームを止め、日付を確認する。

 携帯電話は、九十八年の五月二十九日、午後三時五十九分を指していた。

「嘘……!」

 手に持っていた本が、バサリと音を立てて落ちた。

 その音に、ぼんやりと霞みがかっていた頭の中が一瞬にして冴え渡った。セットしたはずのない時間に鳴る携帯電話のアラーム。巻き戻っていた。ときが、すべてが起こる前に戻っている。

 香りは上司ののばらに、

「すみません! ちょっと出かけてきます!」と叫ぶと、図書館を飛び出した。

「ん? 出かけるって、どこに……って、え!? ちょっと神条さん!?」

 のばらの引き止める声も聞かず、香りは人生で初めてといっても過言ではないくらいに全力疾走した。


 ――その日、東雲賢治は電車の中でマナーの悪い少年たちを注意した。

「おい。他の乗客の迷惑になるだろう。大きな声は謹んで、ちゃんと隙間を詰めて座りなさい」

 すると、その少年たちは賢治を見て楽しそうに笑った。

「なんだよ、おっさん。かまってほしいの?」

「おいおい、俺らに説教とか命知らずだねぇ」

 その笑顔は、どこか歪んでいた。正常者とは思えない不気味な高い笑い声と、やけにすわった目。酒の臭いも微かにするが、泥酔するほど呑んでいるわけではなさそうだ。

「……なんなんだ、お前ら……」

 賢治は尋常ではないなにかを感じ、後退る。

 しかし、少年たちは賢治を逃がすまいと笑いながら詰め寄った。

「いいねー。俺、好きよ? あんたみたいなおっさん。ちょっと俺らと遊ぼーぜ?」

「おっ、おっさん結婚してんの? 奥さん美人? ちょっと呼び出してよ」

「めんどくせえ、早く行くぞ」

「うーい」

 少年の一人が賢治の腕を強く掴み、歩き出す。

「どこ行く? 川?」

「山に埋めるのとかも良くね?」

「あー! 最高、それ。ゾクゾクするわ!」

 ギャハハハッと下卑た笑い声を上げ、賢治を連行していく少年たち。

「おっ……おい、なにを……」

 さすがに身の危険を感じ、賢治はその手を振りほどこうとするが、少年の手は異様なほど強い力で、既に腕は真っ赤になっていた。

 少年たちは賢治を連れてぐんぐんと進んでいく。電車を下り、ホームを抜け、改札をくぐったそのときだった。

「――おい」

 凛と響いたその声に、賢治は顔を上げる。目の前には、肩で息をした雑な格好をした男が一人、立っていた。

「お前ら、その人を放せ」

 少年たちは男を見て、顔を見合わせて立ち止まった。

「……あ? 誰だよ、あんた」

 少年たちは鬱陶しそうに、目の前の男を見る。賢治も眉を寄せて、不審なその男を見た。

 見覚えのないその男は、短髪でごつい体つきをしていた。太く意志の強そうな眉毛と、一文字に引き結ばれた唇。

 格好は上下スエットで、寝癖もひどい。今まさに起きましたといった顔をして、賢治たちの前に対峙していた。

「……警察だ。お前らを逮捕する」

 あろうことか、その男は自身を警察だといった。

 もしかして、賢治がピンチだと思い、間に入ろうとしてくれたのだろうか。

「……はぁ?」

 少年たちが、どっと笑い出す。

「冗談キツいよ! なに言っちゃってんの?」

「そんなパジャマで警察とかウケる」

「なにこの人ー! おまわりさーん!」

 さすがの賢治も、肩を落とす。目の前のこの男が警察だとは思えなかった。

「……そうか。仕方ないな。それならお前ら、ポケットの中に入ってるものを出せ」

 しかし、男は狼狽えることもなく、悠然とした態度でいった。まるで、この少年たちの行動のすべてを知っているかのように。

「……は、はあ?」

「なんなんだよ、お前」

 露骨に狼狽え出す少年たち。

「なんだ? 出せないのか? なら言ってやろうか? その中にあんのは覚せい剤だ。そうだろ? 細谷ほそや夏也なつや真壁まかべ碧斗あおと河渡かわたり弘樹ひろき田崎たざき裕也ゆうや円堂えんどう豪毅ごうき

 今男が並べ立てた名前は、少年たちの名前なのだろうか。

「……な、なんだよ、なんなんだよ! お前……」

 その男に、少年たちは怯えたように硬直している。

 賢治は強く掴まれた腕もそのままに、その男を見た。

「警察なめんなってことだよ。お前ら、気付いてないのか? 言っておくが、もう囲まれてるぞ?」

 そのときようやく、たくさんの警察官が自分たちを注視していることに気がついた。賢治たちの周りには、まるでドラマの撮影かと思うくらいに警察官たちが集まっていた。

 音もなく、気配も感じなかった。恐怖に取り憑かれていたからだろうか。

「残念だったな。薬なんかでラリってるから周りに気が回んないんだよ」

 男は、勝ち誇ったように笑った。

 そうして、あっという間に少年たちは捕まった。

 賢治はわけも分からず、ただ呆然と立ち尽くしてその様子を眺めていた。一体、なにがどうなっているのだろう。

 すると、先程の上下スウェットの男が、賢治に歩み寄ってきた。

「東雲賢治さんですね?」

「そ、そうですけど……」

 賢治は男を見て、曖昧に頷く。そして、頭を下げた。

「あの……ありがとうございました。助かりました」

「いえ、よかったです。あなたを助けられて。私は鈴石仁平。絹川交番の警察官です。本当に危ないところだったんですよ。アイツらは麻薬常習犯で、拳銃も持っている」

「えっ……あなた、本当に……」

 警察官だったのかと、賢治は目を見開いた。

「参ったな。信用してなかったんですか」

 仁平が苦笑を漏らした。

「すみません」

「まあ、この格好だったから仕方ない。今日はまだ出勤前だったんです。でも、間に合ってよかった。あなたが生きててよかった」

 賢治は連行されていく少年たちを見つめる。警察官たちは、押収した白い粉の入った袋と玩具にしか見えない拳銃を袋に入れていた。

 仁平の言う通り、彼らは本当に危ない集団だったようだ。

「まあ。それよりほら、あなたは早く家に帰って。本当はいけないんですけど、後でまた連絡します。これは私の連絡先です。とにかく、あなたの奥さんに一刻も早くその元気な顔を見せてあげてくださいよ」

「えっ! な、なんで私の……」

 賢治は混乱しながら、仁平の差し出した名刺を受け取る。名刺と同時に、警察手帳も掲示された。

『――巡査長・鈴石仁平』

 そこには、警察官を証明する身分が書かれていた。

「ほら、早くしないと事情を聞かせてくれって、他の警官が来ちゃうから! 早く、ライオ……いや、雪歩さんのところに」

 賢治はいたずらっ子のように笑う仁平に背中を無理やり押されながら、その場を離れた。

「また、会おうな! 賢治さん! 雪歩さんによろしく」

 振り向くと、泣きそうな顔で心から嬉しそうに笑う仁平がいた。

 賢治はなぜか、仁平のその表情に心を強く揺さぶられながら、雪歩の待つ家へ向かうのだった。

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