第63話


 どこかから、ザアッと水が流れ込んだ。

「この船はもう沈む。その前に、誰の願いを叶えてもらうか決めないと」

 窓を見る。透明なガラスを打ち付けているのは、不気味な黒い雨。黒い糸が窓ガラスを滝のように流れ、どんどん埋めつくしていく。

「そうだ。願いはひとつしか叶わないんだったね」

 ピエロが息を吐きながら言った。

 鬼人の手を猫娘がそっと握った。そして、全員に視線を向け、

「……私に考えがあります」

 猫娘は全員の視線を集めると、

「時系列の……この悲劇の始まりは、ライオンさんの旦那さんの集団リンチ事件です。その事件さえなければ、この悲劇は起きなかった」

 猫娘の言葉に、ドラゴンが嬉しそうに声を上げる。

「そっか。じゃあ、その前に戻れば……」

「そんなことしなくても、このガキを消せばいいだけのことじゃない! 戻っても、またどうせコイツはやるわよ! 反省なんてしてないんだから!」

 蛇女はぬいぐるみを指さし、睨みつけた。

「でも、この子が消えたらこの子の親が悲しむ」

 ピエロは目を伏せた。

 ピエロの瞼の裏には、かつて愛した、いや、今でも愛してやまない愛息子の幼い姿が蘇る。

「はあ? 馬鹿なの? あんたこのガキに殺された一人なんでしょ? こんな殺人鬼がいなくなったところで、誰が……。親なんか、何年も会ってないっていってたしゃない!」

 しかし、ピエロはゆるゆると首を横に振った。

「親は、悲しむよ。どんな子供だって、親にとってはかけがえのない大切なものなんだ。私は、子供を亡くしているから分かる」

 ピエロは蛇女に、目を細めて訴えた。それはまったく責める口調ではなく、泣きたくなるほど優しい声音だった。

「その代わり、約束するよ。この子の病気を治すためのお金なら、私がいくらでも出そう。私は猫娘さんの願いに賛成だ」

「で、でも、そんなの……口先だけうんといえば済む話だ! 信用できないよ」

 ユニコーンがピエロに縋り付く。

「……ユニコーンさん。それを言ったらみんなそうだよ。私たちそれぞれが本当のことを話しているかなんて、実際のところは分からないんだから」

 ピエロはユニコーンに優しく言うと、ぬいぐるみを見た。

 そして、

「でもね、クマさん。あなたの行動で癒えることのない深い傷を負った人がいるということを、ずっと忘れずにいなさい」

 ピエロの声は泣いていた。涙は流れていないのに、声から胸が痛くなるほどの悲しみが伝わってくる。

 ぬいぐるみは目を伏せ、静かに頷いた。


 願いが固まると、まるでその人はすべてを見ていたかのように現れた。

「罪人たちよ、真実は見つかったか」

 エントランスホールに、あの声が響く。

 突風に巻き上げられた漆黒の羽根がホール内を支配し、猫娘たちは咄嗟に目を手元で覆った。

 漆黒の翼を持つその男の背後には、半分浸水した階段がある。仕掛けもなにもない場所で、優雅に宙に浮く黒衣をまとう羽根男――もとい団長。

 団長は長い嘴のついた仮面を被ったまま、言った。

「願いを聞こうか」

 そう言って、団長が仮面を向けたのは――鬼人だった。

 団長に暗に問われた鬼人は、はっきりと告げる。

「俺たちの願いは、あのすべての始まりの日に戻ることだ」

 続けて「東雲賢治集団リンチ殺害事件の日、事件が起こる前に戻してほしいんです」と、猫娘も訴える。

「……願いを聞けるのは一度きり。本当にいいのか?」

 団長の確認に、皆しっかりと頷く。ただ一人、熊野であるクマのぬいぐるみだけは俯いていた。

 団長はその様子を横目で見つめつつ、

「では、次目が覚めたとき、それぞれ自らの意思で未来を変えよ」

 団長がいい放つと、これまでで一番の爆発音が響き、階段が崩壊した。

 黒い波に呑み込まれる瞬間、猫娘は誰かに腕を掴まれ、顔を胸に押し付けられた。

「――ありがとう……」

 濁流の中で、誰かが猫娘にそう呟いた。

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