第62話・★
いつも熊野の朧気な視界の中は白や茶色、紺のようなくすんだ色ばかりだった。
初めて感じたのだ。
「これが、命の色……?」
熊野は赤黒い染みが湧き出している場所をそっと触れる。
どくどくと生あたたかいものが熊野の手のひらを優しく押すように叩く。そこをさらにぐっと押すと、小刻みにビクンビクンと震えていた。
これが命が尽きていく瞬間の人間なんだと思うと、熊野は全身が粟立つのを感じた。
それから熊野は、人を殺すことの虜になった――。
ぬいぐるみは告白を終えると、呟いた。
「生きててもつまんなかったの。勉強もつまんないし、ご飯も食べたいと思わないし、友達と話しててもよくわかんない。初めて楽しいと思えたのが、あの瞬間だった……気持ちよかった」
ぬいぐるみの告白を、カラクリは首を振って拒絶した。
「狂ってる」
鬼人はぬいぐるみを掴み、叫んだ。
「……お前、それをなんで親に言わなかったんだ!」
「だって、お父さんもお母さんも、いつも夜遅くまで帰ってこないし、僕が起きるより早く仕事にいっちゃうから、もう一、二年会ってなかったもん」
「なんて親だ……」
カラクリは愕然と、悔しそうに唇を噛んだ。
「でもね、ダメなものはダメなんですよ。人として生きる限り、人の、社会のルールに従わなくちゃいけないの。そうでないと、あなたは獣と同じよ」
「……そんなの、べつに」
どうでもいいとでもいいたげなぬいぐるみを、猫娘は一転、冷ややかに見下ろした。そして、厳しい言葉を浴びせた。
「本当に? 権利がなくなるというのは、想像以上のことよ。あなたはなにも与えられないし、誰にも話を聞いてもらえない。住むところも、食べるものも、着るものも。あなたが今持っているものはすべて文明が、社会が与えてくれているもの。それらを捨てる覚悟が、本当にあるの?」
珍しく怒った様子の猫娘を、カラクリとドラゴンは息を呑んで見守った。ユニコーンは相変わらず、階段の隅で震えている。
「それは……」
ぬいぐるみは、戸惑うように視線を落とし、口を噤んだ。
「あなたは、ここにいる全員の人生を奪ったの。それは、絶対に許されないこと」
ホール内が、しんと静まり返った。
「……じゃあ、僕を殺していいよ。僕が憎いでしょ? 僕を許せないでしょ? 殺されることが僕の罰なんでしょ? みんな、僕を殺したくてこの船に乗ったんでしょ?」
ぬいぐるみは投げやりに叫んだ。
すると、ずっと黙っていたライオンが口を開いた。
「……たしかに、最初はそうだったわよ。夫を殺したあなたを、絶対に許せなかった。この手で殺してやらなきゃ、絶対にこの気持ちは誰になにを言われても変わらないと思ってたわ」
ライオンが涙を流しながら、話し出した。
「でも……みんなが優し過ぎて、温かくて、私はこの船に乗って救われた。日本中から絶対悪だと思われていた人は、本当は誰よりも優しくて、弱い人だった。他の殺されてしまった人も、みんな必死に生きてたの。それぞれの人生を」
ライオンがぬいぐるみに歩み寄り、その虚空の瞳を覗く。
「あなたも必死に生きてたんでしょう」
ぬいぐるみは困惑したように、その瞳を見つめている。そんなぬいぐるみに、カラクリが言った。
「お前は生き方を間違ったんだ。罪は罪。じっくり反省して償ってもらわなきゃ困る。だけどそれは、お前だけの責任じゃない。放置した周りの大人……俺も含めた、全員の罪でもある」
カラクリは苛立っているのか、それとも泣きそうなのを堪えようとしているのか、ギュッと唇を噛んだ。
「私が……もっと早く、熊野君の異変に気付いてあげられれば良かったんだね」
ドラゴンは長い睫毛を震わせながら、そっと伏せる。
ぬいぐるみは、ドラゴンを呆然と見つめていた。
「なんで? 僕は皆を殺したんだよ?」
「そうだ! 僕は嫌だ! 絶対に許せない」
ユニコーンが叫ぶ。
その瞬間、緩んでいた空気が再びぴんと張り詰めた。
「そうよ。なんなの? なんでガキを許す話になってるのよ! このガキさえいなければ、私たちはこんなことにはなってなかったのよ!」
蛇女とユニコーンは、熊野を許そうとしている猫娘たちに対して怒りを露わに叫んだ。
「たしかにそうです。私は被害者じゃないから、ユニコーンさんや雨音ちゃんの苦しみを完全には理解してあげられないし、許してあげてと強要もできないけど……」
ぬいぐるみは一度、ドラゴンやピエロ、ユニコーンを見て、俯く。ぬいぐるみが殺してきた人間たちが、じっと自分を見つめている。
しかしその瞳に、ぬいぐるみはなにも感じなかった。
「……でも、一歩間違えていたら、ユニコーンさんも彼と同じ立場になっていたかもしれない。殺さなきゃ殺される立場だったのだから」
「ぼ、僕には人を殺すなんて、できない。僕は違う! こんな奴とは、違う!」
「……でも、人を騙した」
カラクリのひと言に、ユニコーンはぐっと喉を鳴らして押し黙った。
「誰しも、保身や強い憎しみには勝てない。そのためなら、人は簡単に線を越えるものだ。俺も、香りを殺した奴を殺そうとした。みんな一緒なんだよ、根本は。理性がどこまで己にブレーキをかけてくれるかどうかなんだ」
蛇女は目を逸らし、猫娘は悲しげに瞳を揺らした。
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