第61話・★


『回想・クマのぬいぐるみ』


 九十八年五月二十九日。

 すべての始まりはこの日だった。

 熊野は一人、絹川の河川敷にいた。ぼんやりと空を見上げる。

 放課後、友達が野球をしに行こうと言ってきた。しかし、目の悪い熊野に運動はできない。

 だから最近は、いつも一人で時間を潰すようになっていた。

 去年あたりから目がどんどん悪くなっていった。今では教科書すら、かなり近くに持ってこないと見えないくらいまで悪化していた。素早く動く野球の小さなボールなんて、今の熊野に見えるはずもない。

 熊野の両親は共働きで、いつも夜中にならないと帰ってこない。特別寂しいと思ったことはなかった。だが、時間すらまともに取れない両親を頼る気にもなれなかった。

「アイツ、最近ノリ悪いよなー」

『――違うよ、本当は目が見えないの』

「仕方ないよ。元々スカした奴だったじゃん!」

『――違うよ。みんなの話がよくわからなかったから、上手く反応できなかったの』

「そうだな! これからは誘うのやめようぜ」

『――そんなこと言わないで、もっと遊ぼうよ』

 楽しそうに笑いながら、軽やかに自転車に乗って消えていく友人の後ろ姿を見ても、怒る気にはならなかった。

 熊野は過ぎった言葉を呑み込んだ。

「……どうせ、言ってもわかってもらえないもんね」

 熊野はひとりぼっちで河川敷の生い茂る草むらの中に身を投げた。

 それから、どれくらい経ったのだろうか。いつの間にか眠ってしまっていたらしく、近くで大きな笑い声が聞こえて、熊野はハッと目を覚ました。

 草むらをかき分けて声の方へ出ていくと、複数の笑い声と、呻くような声。

 熊野はゆっくりと声の方へ近づいていく。

「おい! お前、そんなとこでなにしてんだよ」

「こっちこい!」

 状況がわからなかった熊野は、あっさり捕まった。どうやら隣にももう一人、熊野と同じように捕まった人がいるらしかった。

「コイツ、どうする?」

「そうだな……あ、ちょうどいいや。おい、お前らどっちでもいいから、コイツ殺せば見逃してやるよ」

「殺す……?」

 目の前の男たちは、なにを言っているのだろうか。熊野の前に転がるよく見えないこれは、人形かなにかなのだろうか。

 そのすぐ下には銀色の尖った物体。それがなにか、手に持ってみてすぐにわかった。

「……これ、ナイフ?」

「おい。お前……」

「おいおい、マジかよ」

 熊野は目の前のぼやけた人形を見下ろす。

「……僕がやればいいんでしょ?」

 この人形にこのナイフを刺せばいいだけ。熊野はナイフを振り上げ、そのままなんの躊躇いもなく人形の腹に突き刺した。

 ぐさり、と感じたことのない感触が熊野の手から全身に広がっていく。

「あれ? あれれ?」

 肉を引き裂き、内臓を潰すような音。そして、その刃を引き抜いた瞬間に鼻をつく、鉄の匂いと生々しく血が吹き上がる音。

「温かい……なに? これは……血? いい匂いがする」

 熊野は自分自身が興奮していくのがわかった。目が見えていなくても、初めて楽しいと思えた瞬間だった。

「ヤバっ……お前、度胸あんな」

 人形だと思っていたそれは、本物の人間だった。気付いた熊野は動揺した。けれど、心を支配したのは恐怖ではなく、快楽だった。

 感じたことのない快楽が、熊野の脳を満たしていく。

 きっと、人並みの視力があったら違ったのだろう。今より強く人の死を感じるだろう視力があれば、きっと違った。けれど、熊野は目がほとんど見えない。人が死んでいく様子は、手の感触や音でしか分からない。

 熊野はニヤリと口角を上げ、男たちの気配のする方を見た。

「これで許してくれる?」

「あぁ。いいよ。お前はな」

 一人の男が熊野を讃えるように肩を寄せた。強い香水の香りが熊野の脳をとろけさせる。

 嬉しかった。わくわくした。友達を失くしていた熊野にも、やっと新しい友達ができたのだと。

 ボヤけた視界の中で、赤と黒が見る間に滲んでいった。

「綺麗……」


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