第58話
キッチンの中は昼食の準備中だったのか、できたてのカレーやマカロニサラダ、チーズや酒が置かれていた。
ランチからディナーまでの献立と作り方が書き込まれたホワイトボードが浮いている。その上には、波に打ち上げられたのか、クマのぬいぐるみといくつものカラフルなマジックペンが不安定に転がっていた。さらにその隣にある棚の上には、人数分以上の食器が積まれている。
「調理中だったんですね」
ガス台の上に置かれた鍋の類は、まだ無事だったようだ。
「まだ湯気がある」
「火もつけっぱなしだな」
鬼人はガスを止め、周囲を見る。
しかし、どこにも人の姿はない。
「……誰もいないですね」
「でも、気配はあるぞ」
たしかにに嫌な気配がある。禍々しい、不気味な気配。
鬼人は積まれた皿に目を落とした。
「黒中さん? どうしたんですか?」
猫娘が鬼人を呼ぶ。
そのとき、キッチンの中の風が微かに動いた。
猫娘の耳がぴんと立つ。そして、鬼人が素早く動いた。
「黒中さん!?」
鬼人は思い切りそれを掴んだ。
「お前、それ……」
鬼人の手の中には、クマのぬいぐるみがあった。
「クマの……ぬいぐるみ?」
全員の視線がクマのぬいぐるみに集中する。すると、ぬいぐるみの口元がニヤリと笑った――気がした。
猫娘は驚き、息を呑む。
「……コイツだ」
鬼人が呟く。
「え?」
「コイツが、星井熊野だ」
鬼人は、クマのぬいぐるみの首がもげてしまいそうなほどに強く握った。
「は……? なにを言ってるんだ。こんなの、ただのぬいぐるみだろ?」
カラクリは動揺しながらも鬼人からぬいぐるみを奪い、それを見る。
「思い出せ。コイツはいつも近くにいた。エントランスホールに集まったときも、ドリンクコーナーにぬいぐるみのフリをしていたし、食事のときも必ず入り口にいた」
「そういえば」
「もし、星井熊野だけは無理やりこの船に乗せられたのだとしたら」
猫娘は考える。
「もし、自分が元凶の人間だったとしたら……こんな敵だらけの場所に集められたら」
「全員皆殺しにするか、いないフリをするかしかないだろうな」
鬼人が吐き捨てる。
「けれど、そこまで頭が回っていたっていうのか。小学生だろ?」
「最初はマスコットかなにかなのかと思ったが……あの羽根男は、ここに集められた人数をいっていない。俺たちは、勝手に八人だと思い込んでいたんだ」
「嘘……」
猫娘が手で口を覆う。
「――せいかーい!」
突然、場違いなまでに明るい声がキッチンに響き、驚いたカラクリがクマのぬいぐるみを落とした。
クマのぬいぐるみは、ビチャンと豪快に水面に落とされた。プカプカと水面の上に呑気に浮かびながら、
「なあんだ。簡単にバレちゃったな。もう少し遊びたかったのに」
「きゃっ!」
猫娘は突然喋り出したぬいぐるみに飛び上がって驚き、咄嗟に鬼人に抱きついた。
「っ!?」
鬼人の頬が赤く染まる。
「…………おい」
「あ……」
猫娘は、至近距離の鬼人の息遣いに我に返ると、慌てて離れた。
「ご、ごめんなさい」
「……いや」
鬼人はふいと猫娘から顔を逸らした。
「久しぶりだね、お兄ちゃん」
水面に浮かぶクマのぬいぐるみは波に漂ったまま、ガラス玉の瞳に鬼人を写し、話しかけてきた。
「……やっぱり、お前……」
鬼人は強く奥歯を噛んだ。
「お兄ちゃん、なんでここにいるの? もしかして、僕を殺しにきたとか?」
ぬいぐるみの明るい声音に、鬼人の目の色が変わる。
「あぁ、そうだよ!」
ぬいぐるみの首を乱暴に掴み、勢いよく水の中に沈ませた。
「待てっ! 落ち着け、黒中!」
「やめて! 鬼人さん!」
カラクリが鬼人からぬいぐるみを取り上げ、猫娘も慌てて鬼人を押さえるように抱きついた。鬼人の体は驚くほど冷たい。
「放せ! コイツが……コイツが一体どれだけの人間を殺したと思ってる! コイツさえいなければ、なにも起きなかったんだ! なにも!」
「分かってます。でも、ダメです! あなたがこの子を殺したら、同じになっちゃいます。この子も同じように生きてるんです! さっき、黒中さんがそう言ったんじゃないですか」
猫娘の言葉に、鬼人がハッとして硬直した。そして、唇を噛みしめ、悔しそうに目を瞑る。
「……こんな奴、生きてる意味なんて……!」
「そんなこと言わないでくださいよ……あなたはそんな人じゃないでしょう」
猫娘の涙に、鬼人は拳を震わせて訴える。
「なんで……なんでだよ……。雨音を……つや子さんをどうして殺したんだ……関係ないだろ……あの二人が、一体なにをしたっていうんだ?」
次第に鬼人の瞳も潤み始めた。
「――べつに、理由なんてないよ?」
しかし、ぬいぐるみは可愛らしい声で言った。
「お兄ちゃんは僕が憎くて殺したかもしれないけど、それと僕が雨音ちゃんとあのおばあちゃんを理由なく殺したことと、なにが違うの?」
「……お前、本気で言ってるのか?」
「だって、結果は一緒でしょ?」
鬼人は赤い瞳に涙を目一杯ためたまま、ぬいぐるみを見た。
「……やっぱり、お前だけはダメだ。許せない。殺さなきゃ気が済まない」
再びぬいぐるみに詰め寄ろうとする鬼人を、猫娘が止める。
「黒中さん! ダメ、止めて! お願い」
猫娘は必死で鬼人の腰に抱きつく。しかし小さな猫娘が鬼人の力に叶うわけもなく、猫娘はキッチンの狭い隙間に投げ出されてしまった。
「きゃっ!」
ガシャン、と大きく音を立ててひっくり返る鍋。猫娘は水の中にうずくまった。
「香り!」
カラクリの声で我に返った鬼人の動きが止まった。
「わ……悪い。大丈夫か?」
鬼人が猫娘を抱き起こすと、すぐ間近で猫娘と視線が絡む。
そして、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……とにかく、全員で話をしましょう? これは、真実を見つけるための船なんですから」
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