第55話・★
すぐに警察がきて手錠をかけられた。連行される途中で、香りの姿が見えた。
雨音の遺体を見たのだろうか。香りは泣いていた。警察によりブルーシートで囲われている雨音の亡骸のあった場所に、凪砂は目を向けた。
警察官に背中を押され、歩き出す。
香りのすぐ横を通り抜けようとしたとき、
「……あなたがやったの?」
香りが震える声で訊ねてきた。
その問いに、凪砂は奥歯を噛み締めた。
つまり香りは、この状況をそう解釈したのだ。
間違っていない。それなのに、香りにそう思われてしまったという事実が悔しかった。凪砂は口を開き、弁解しようとしたが、やがて諦めて口を噤んだ。
――そこまで話すと、鬼人は口を閉ざした。猫娘は堪らず涙を流しながら、鬼人に言った。
「どうして……どうしてあのとき、本当のことをいってくれなかったんですか! もしあのとき、あなたがそういってくれてたら……」
「星井熊野を殺したのは、俺だから」
猫娘は唇を引き結ぶ。
「でも……それは正当防衛だった。仕方なかったんです」
「違う……正当防衛なんかじゃない。俺はあのとき、アイツを殺したくてたまらなかった。アイツが憎くて仕方なかったんだ。俺は間違いなく人殺しなんだ」
鬼人は、そう言って苦しげに眉を寄せた。
「……黒中さん……」
「あの瞬間、俺はあなたに言い訳を言おうとして、気が付いた。殺したのは俺だ。俺のせいで、雨音もつや子さんも死んだんだ。弁解なんて余地は、俺にはなかった」
「黒中さん……」
猫娘はそれ以上なにも言えず、やるせなく鬼人を見つめた。
「そして、そのまま俺はあなたに連行された」
鬼人がカラクリを見ると、カラクリはこくりと頷いた。
「そうだ」
「あとは、全部報道の通りだ」
鬼人が猫娘を見る。猫娘は目を伏せたまま、口を開いた。
「……初公判のとき、あなたは本間つや子さんの殺害を自供した。そして、第二回公判のときに高見まさるさんの殺害も」
続けて、カラクリが言った。
「それで、証拠品から現金一千万と、自供した林の中から高見まさるの頭部が発見された」
猫娘は唇を噛み、鬼人の腕を掴んだ。
「おい……」
鬼人は驚き、猫娘の手を振りほどこうとする。
「ごめんなさい……私は……私はなんにも知らなかった。ずっとあなたが優しい人だって知ってたのに……。ずっと、私たちのことを守ろうとしてくれてたんですね」
「……あんなところを見たら、誰だって信じられない。俺は問題を先延ばしにして、雨音とつや子さんを殺した。それに、星井熊野をこの手で殺したんだ。人を殺したら、その命をもって償うのは当たり前のことだ」
「違う……全然違う! あなたはなにも悪くない!」
猫娘が鬼人の頬に手を添える。猫娘の目元は紅潮している。
カラクリも鬼人に「そうだ」と寄り添う。
「そもそも、お前の信頼を得られなかった俺たち警察が悪かったんだ。お前が安心して相談できる環境じゃなかったから」
「べつに。これは全部、俺の勝手な判断だから」
カラクリの瞳から、一雫の涙が零れ落ちる。
「お前がドラゴンやピエロを殺したというなら、お前を殺したのは俺たちだ」
猫娘はその言葉に、目を見張る。
「先輩……」
カラクリの瞳から、一雫の涙が零れ落ちる。
「お前がドラゴンやピエロを殺したというなら、お前を殺したのは俺たちだ」
猫娘はその言葉に、目を見張る。
「先輩……」
意外だったのだ。猫娘はずっと、カラクリ――仁平は、黒中凪砂をよく思っていないものだとばかり思っていた。
鬼人もその涙に驚いたのか、目を見開いていた。
「なんで……あんたが泣くんだ?」
「お前を救えなかった。悪かった」
カラクリが頭を下げるのを、鬼人は信じられない思いで見つめた。
「べつに……あんたはなにも悪くないじゃないか」
鬼人は戸惑うように目を泳がせた。
「俺は……俺の管轄の町だけでも、子どもも大人も住みやすい場所にしたいって思って警察官になった。それなのに、俺はお前のためになんにもできていなかった……」
カラクリは陶器でできた顔を歪ませて呟いた。悲しげに両眉を寄せて、目を伏せる。
「お兄ちゃん……雨音は、お兄ちゃんがくれた携帯、いつもお守りにしてたよ。ノアの写真とか、たくさん撮ってたんだ。見せてあげたかったな」
ドラゴンが嬉しそうに鬼人に笑いかける。
「……俺のせいで、痛い思いさせて……怖い思いさせて、悪かった」
鬼人の懺悔の言葉に、ドラゴンはぶんぶんと首を横に振った。
「ううん。雨音、お兄ちゃんのこと大好きだよ。雨音のお願いはね、お兄ちゃんが助けてくれたノアを助けたくてこの船に乗ったの。おばあちゃんも雨音もノアもいなくなっちゃったら、お兄ちゃんひとりになっちゃうから」
鬼人は瞳をうるませながら、
「俺の……ため?」
「うん」
そう言って、ドラゴンは鬼人に鼻を寄せた。鬼人はとうとう涙を零し、ドラゴンを抱き締めた。
「ありがとう……」
つられるように笑みを零した。
「お兄ちゃんと過ごしたときがね、すごく、すっごく楽しかった。ノアにも会えたし、お姉ちゃんともおばあちゃんとも楽しい時間を過ごせた。雨音は後悔なんかしてないよ。もっとお兄ちゃんと一緒にいたかった」
鬼人は涙も拭わずにドラゴンを撫で続けた。
「お兄ちゃんを恨んでる人なんて、誰もいないよ。ここにいるみんな、お兄ちゃんが大好きだよ。ノアも、おばあちゃんもお姉ちゃんも……」
陽だまりのようなドラゴンの心に触れ、鬼人は心が凪いだように穏やかな心地になった。
「黒中さん。あなたの真実、やっと見つけました」
猫娘が優しい絹糸のような、朝露のように澄んだ声音で言う。
「真実……?」
凪砂にとって、猫娘は心地のいい水だ。掴もうとしても決して掴むことのできない、柔らかで不確かな存在。
猫娘が、蛇女を見る。
その視線の移ろいを辿るように、鬼人もゆっくりと蛇女を振り返った。
鬼人は蛇女に、忘れていた、ずっと告げられていなかった言葉を告げた。
「……山梨」
蛇女が気まずそうに顔を上げた。
「最後まで、信じてくれてありがとう」
凪砂にとって最初、月埜はただの同僚だった。けれど、月埜にとっては凪砂こそが光だったのだ。凪砂にとって、香りがそうであるように。
他でもないただ一つの救いで、この世に生きる意味だったのだ。
「……今さら、遅いですよ」
そういった蛇女の顔は涙でくしゃくしゃに崩れ、けれど、とても優しい表情をしていた。
「……そうだな」
蛇女を見つめる鬼人の口角が、緩やかに上がっていく。
「私も……ごめんなさい」
蛇女は、猫娘に深く頭を下げる。
「本当はわかってた。私のはただの八つ当たり……。あなたが悪いわけじゃないって。ごめんなさい。謝って許されることじゃないけど……」
猫娘はただ静かに、微笑みを返す。
そして、蛇女はハッとしたように言った。
「……あ、でも」
その温かな空気はすぐに打ち砕かれた。
「――それならここに、その少年はいないってことなの?」
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