第54話・★
それからしばらくの間、凪砂は落ち込んだ雨音の機嫌を取り戻すのに必死だった。
つや子を失ったときの雨音の落ち込みようは、目も当てられないほどだった。
無理もない。雨音はまだ十歳なのだ。人の死に対して耐性もなにもないだろう。
凪砂は雨音を優しく抱き締めた。
「大丈夫。雨音には、ノワールも俺もいる」
雨音の手を取り、その小さな白い手に四角い機械を握らせる。
「お兄ちゃん?」
手の中のものを見て、雨音は凪砂を見上げた。
「これ……」
雨音は以前、お金持ちの家庭のクラスメイトが学校で見せびらかしてるのを見たことがあった。
「雨音。これの使い方を教えるから、なにかあったらすぐに俺に連絡しろ。お母さんには内緒だからな」
「なにか?」
それは、いつなにが起きてもおかしくないことを理解してしまった凪砂の最後の悪足掻きだった。
「警察じゃダメなんだ。警察は信用できない。警察があの少年を捕まえるとは思えない」
「お兄ちゃん?」
だからあの少年は、大胆にも凪砂に近づいたのだ。自分が守られる側の人間であることを理解しているから。そして、警察すらも利用できうる頭脳もあるから。
「けれど、それが甘い考えだと気付いたときにはもう、俺は既に監獄の中だった。雨音からの連絡は一度もなかった。あの日、三月二十九日にあいつから呼び出されるまでは――」
その日、凪砂の携帯電話が振動した。画面には、雨音の文字。その瞬間、心臓が跳ねた。
なにかあったのかと思い、急いで通話ボタンを押して出ると、聞こえてきたのは雨音の可愛らしい声ではなく、あの悪魔の声だった。
「――久しぶり、お兄ちゃん。今僕、絹川の河川敷にいるんだけど、会える?」
「雨音はどうした」
「ふふっ……いるよ。ここに。あと雨音ちゃんのペットの烏も。烏はもう死んじゃったけどね」
突然身体中を氷漬けにされたように、その場に動けなくなった。
押し黙る凪砂に、少年は続ける。
「雨音ちゃん、今はまだ生きてるけど、もうそろそろ死んじゃうかもね。冷たくなってきたから」
冷え切っていた体が、そのたった一言で一瞬にして燃えるように熱くなった。
凪砂は駆け出した。
駆けつけた河川敷の一角に、ノワールの羽根が大量に散らばっていた。その真ん中で、小さな雨音が仰向けに倒れている。胸には守るように血だらけのノワールを抱いていた。
雨音はまるで全身の血が抜き取られたように、青白い顔をしていた。代わりに雨音の腹部は赤黒く汚れて、べっとりと湿っていた。
目を開いたまま微動だにしない雨音に、凪砂の全身の力が抜けていく。
「雨音……?」
凪砂は顔にかかった雨音の柔らかい髪を避けてやる。その頬はまだほんのりと温かい。
それなのに、いくら名前を呼んでも雨音が凪砂を見ることはなかった。
「あぁぁぁっ!!」
凪砂は堪えきれずに叫んだ。傍らにあの少年がやってくる。
「さっきまで生きてたんだけどね。やっぱり、ナイフはつまんないかなぁ」
少年は壊れてしまった玩具を見るように、雨音を見下ろしていた。
「お前……どうしてこんなことするんだよ……」
――悪魔だ。この少年は悪魔なのだ。
凪砂の中で、黒いなにかが膨らんでいく。
殺してもかまわないのではないか。いや、むしろ殺さないと、これからも誰かがこの悪魔の餌食になってしまう。
心の奥深くで、囁く声が聞こえる。
「僕ね、ここで前に人を殺したの。その人、悪いお兄ちゃんたちに蹴られたり殴られたりしてて、ボロ雑巾みたいになっててね。遠くからこっそり覗いてたら、そのお兄ちゃんたちに見つかっちゃってさ。脅されたんだ。その人を殺したら、共犯になったら許してやるって」
それが初めて人を殺したときだよ、と少年はあっさりと言った。
「もうやめてくれ……。聞いてるこっちが気が狂いそうになってくる」
同時に、心の深いところで、なにかが叫ぶ。
――こいつは人の皮を被った悪魔なのだ、殺せ!
凪砂は拳を握る。雨音の亡骸の隣に、血のついたナイフが転がっていた。
「それがすごく気持ち良かったの。またやりたくなっちゃって、次に殺したのがそのとき僕と一緒に捕まってたおじさん。ほら、この間お兄ちゃんに送った首の人だよ」
「思い出した?」と、少年は昨日見たテレビの話でもするように、嬉々として話している。
「お前……おかしいぞ?」
――殺せ、殺せ、殺せ……。このままでは、また誰かが殺されるぞ。
凪砂はナイフを手に取った。少年は凪砂の動きに気付いていないのか、楽しそうに喋っている。
「知ってるよ。でも、これが僕だもん。どうしようもないじゃん」
少年はけらけらと笑った。
「お兄ちゃんも分かってくれないんだね」
少年はため息をつきながら、「別にいいけど」とポケットから新たなナイフを取り出した。
凪砂の背中を、嫌な汗がつたう。
「ねぇ、僕の名前覚えてる?」
少年は一歩一歩、ゆっくりと近付いてくる。
凪砂は少年を睨めつける。
「……星井熊野。雨音の同級生だろ」
「うん、そう。……雨音ちゃんね、僕が呼び出したとき、嬉しそうについてきたんだ。告白されるとでも思ったのかな? 可愛いよね。殺されるなんてまったく思ってなかったんだろうなぁ……死ぬ瞬間の絶望の顔が忘れられないよ」
その瞬間、凪砂の全身の血が沸騰した。
――人の皮を被ったこの悪魔を、殺せ!
その口から雨音を貶める言葉が連ねられた瞬間、凪砂の中で何かがプツンと切れ、理性を失った。
気が付けば、目の前に血だらけの熊野が転がっていて、凪砂はその横で返り血に塗れて佇んでいた。
一体なにがあったのか、考えなくても記憶がなくてもわかった。
凪砂は自分の手を見つめる。その手は生温かい血に濡れていた。殺してしまった。経過はどうあれ、凪砂はこの少年と同じことをしてしまったんだ。
凪砂は絶望し、熊野の遺体を見下ろしながら立ち尽くした。
悪魔ではなかった。
この少年は紛れもない人間だったのだ。
凪砂は放心した。
もし本当にこの少年が悪魔だったのなら、殺してもこんな気持ちにはならないはずなのだから――。
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