第52話・★
家に着き、ノワールの小さな背中を撫でながら図鑑を開いた。ノワールは気持ち良さそうに目を細めて眠り始めた。
烏は害獣。そう思っていた凪砂の意識を変えてくれたのは、雨音だ。雨音は産まれたばかりのノワールを可哀想だといって泣いていた。
その涙に、凪砂は救われた気がした。
親に捨てられ、代わりに育ててくれた祖父もすぐに死に、それからずっと一人で生きてきた凪砂。その境遇に、周りの人間は凪砂を偏見の目で見た。
「親がいないから」
「目付きからして普通の人とは違うわよね」
「ああいう子はなにをするか分からないから、絶対怒らせるんじゃないぞ」
学校でなにか備品が無くなっただとか、誰かの財布が盗まれただとか。その度に周りは凪砂を犯人にした。
いつしか、否定することもしなくなった。
凪砂はどんどん孤立していった。
流れで高校には入学したものの、見た目のおかげで突っかかってきた上級生を振り払ったら、運悪くその生徒が階段から落ち、大怪我を負った。
たまたま教師が居合わせたため、通報までには至らなかったが、相手の親の強い要望で学校は退学になった。
それから定職に就くこともせず、アルバイトの日々を送った。どんな職場でも、派手で愛想の悪い凪砂をよく思う人はいなかった。
それからどんどん卑屈になって、態度もどんどん悪くなっていった。それでも憎みきれずに、たまに、ほんのたまにだけ人助けとも言えないようなことをした。
あるとき、透明な深水の一雫のような香りと出会った。そのときから、真っ暗だった凪砂の世界が変わった。
惹かれていく自分自身の心を戒め、香りは日向の人間だと言い聞かせた。けれど、いけないと思いながらも、どうしようもなく触れたくなった。
それから、つや子に出会って、雨音に出会って、ノワールに出会った。すべては香りに出会ったあの瞬間から、凪砂の世界には色々な光が差したのだ。
温かい人がいる。凪砂のことを無条件に信頼してくれる人もいる。偏見に囚われていたのは、周りの人間なんかじゃなくて、他でもない自分自身だったのだ。
香りと出会って半年が過ぎた頃、凪砂はとある少年に出会った。
名前は星井熊野。
いつものようにノワールを河川敷に放していたときだった。
「お兄ちゃん。初めまして」
唐突に話しかけてきたその少年は、これまた唐突にとんでもないことを言った。
「――よかったら、人を殺すのを手伝ってくれない?」
――猫娘とドラゴンが口を覆う。
「最初は冗談だと思ったんだ。だってその少年は、まだ十歳くらいの子供だったから」
「それで……黒中さんはどうしたんですか」
猫娘が問うと、鬼人は言った。
「相手にしなかった」
凪砂はそれだけ伝えると、ノワールを呼び、家に帰った。
その後ろ姿を、少年は笑顔で見つめていた。それから数日後、凪砂の家に差出人不明の郵便物が届いた。それは、冷凍食品のように白い化粧を施された、見知らぬ人間の首だった。
首とともに入っていたのは、一通の手紙。中には、『次は彼女』という文字。
凪砂は急いで河川敷に向かった。
「――来ると思ってたよ、お兄ちゃん」
少年は、あたかも凪砂が来ることが分かっていたように笑った。
仄暗い瞳で凪砂を見る少年。
「お前がやったのか?」
「そうだよ」
「どうして……あれは誰だ?」
凪砂は少年と距離をとりながらも、責めるように問い詰める。
「あの人は詐欺師だよ。お兄ちゃんが仲良くしてるおばあちゃんを騙そうとした詐欺師。死んで当然の人間なんだよ」
「なに……?」
凪砂は考える。少年は、つや子のことを言っているのだろうか。
「この人、ホームレスだったから警察は死んだって気づいてないよ。でも、死体が出たらバレちゃうかも。お兄ちゃん、あれ処分しておいてよ」
まるで、ちり紙を捨てておいてとでもいうように、あっさりと。
「お前……自分がなにをしているのか分かってるのか?」
「分かってるよ。でも、この衝動を抑えられないんだ。人が死ぬ瞬間の、震えるような命の叫び。お兄ちゃんもやってみなよ。すごくゾクゾクするよ」
恍惚とした表情で、少年は言う。まだ子供のくせに、その少年は艶っぽく頬を紅潮させて、濡れた唇から吐息を吐き出して。
「ふざけるな……!」
「ねぇ、僕が嘘を言ってるわけじゃないって分かったでしょ? これでもまだ、お兄ちゃんは手伝ってくれないの?」
少年は続ける。
「頷いてくれないなら、雨音ちゃんを殺すよ?」
「お前……本気で言ってんのか?」
凪砂が少年を睨む。少年も負けじと凪砂を見返した。
「あのおばあちゃんも殺すよ?」
凪砂は奥歯を食いしばる。
「それからお兄ちゃんさ、長い髪の綺麗なお姉ちゃんともたまに話してるよね。図書館の」
「てめぇっ……!!」
凪砂は信じられない思いでその少年を見た。その少年の口元がやけに歪んで見えて、凪砂は目が離せなかった。
「たまたま雨音ちゃんに会いに図書館に行ったら、図書館に偶然その人がいたからさ。僕驚いちゃった」
凪砂は言葉を失った。
その少年の無邪気に弾んだ声が、凪砂の頭の中で永遠に響き続けた。
動揺する凪砂に、少年は笑った。
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