第51話・★


『回想・鬼人』


 九十八年、四月。凪砂は香りと出会った。

 香りが店先で絡まれているのに気づいた凪砂が、警察直通の通報ボタンを押したのだ。

 彼女はほぼ毎日コンビニに来る常連で、いつも惣菜とビールを買っていく人。まるで生活感がなく、この人は一体何者なのだろうと、凪砂はいつも不思議に思っていた。

 凪砂は彼女が来ると、無意識に目で追いかけるようになった。

 凪砂にとって彼女は、どこか特別だった。

 単に容姿が整っていたからなのかもしれない。

 けれど、これまで付き合ってきた女の中には彼女よりスタイルが良く、美しい女もいた。それでもなぜだか、彼女はこれまでの誰より美しく思えた。

 凪砂に寄ってくるのはいつも派手な女だった。試しに何度か付き合ったりはしたものの、誰とも長続きしなかった。

 女は苦手だった。いつも強い匂いの香水を付けて己を主張し、不必要に触ってくる。

 しかし、香りは――香水の匂いなんてしない。それなのに、凪砂の意識をとろけさせるような、引き寄せるような甘いにおいをその身にまとっていた。

 彼女はまるで花のようだと凪砂は思った。自分が虫にでもなってしまったのではないかと感じてしまうほどに。

 あるとき彼女は凪砂の前に立ち、たった今凪砂が袋に詰めた菓子やパンを差し出してきた。

 香りは、以前絡まれたときに助けてもらった礼だといった。

「……べつに、いらない」

 初めて香りとまともに目が合って、凪砂はらしくもなく動揺した。

 しかし動揺する心とは裏腹に、香りの大きく澄んだ瞳から逸らすことができずにいた。

 凪砂にバッサリ断られると、香りは困惑したように目を泳がせ始めた。

 その仕草がどうしようもなく可愛らしくて、つい口元が緩む。気が付けば、手が勝手に動いていた。

「……やっぱもらう」

 大きな瞳を縁取るように生えた長い睫毛が、パチパチと弾けるように瞬く。

 そのとき、香りがポツリと言った。

「……カムパネルラ」

 香りはじっと凪砂を見上げていた。嬉しかったのか、頬が少し紅潮している。

 不意の表情に、凪砂は喉元を詰まらせた。

 そして、香りは唐突に好きな本の話を始めた。大人しそうに見えた香りは、意外にも興奮すると我を忘れるタイプらしい。

 凪砂は呆気に取られながらも、楽しそうに本の話をする香りを見つめていた。しばらくして我に返ると、香りは先程とは違う意味で顔を赤く染めて俯いた。

 そしてバッグから一冊の本を凪砂に渡すと、そそくさと出ていった。帰り際、香りの後ろ姿を見つめていると、その耳が赤く染まっているのが見えた。

 

 それから毎日のようにコンビニに来る香りと、少しずつ話すようになった。

 凪砂は慣れないながらも、香りから渡された本を読んだ。

 しかし、読み終わった凪砂の反応は、

「……分かんねー……」

 頭を垂れたまま、凪砂は本を閉じた。

 借りた本を読み終わったその翌日、凪砂は彼女の働く図書館に向かった。

 本を返しに行くと、香りは驚いた顔をしたあと、嬉しそうに笑った。

「これは、私が返しておきますね」

 香りは凪砂から本を受け取ると、そのまま背中を向けてあっさりと行ってしまう。

 もっと喜んでくれるものと思っていたのに、凪砂の自惚れだったらしい。

 気が付けば、衝動的にその手を掴んでいた。

「もっと簡単な本……ある?」

 普段本なんて読まないくせに。我ながらよく回る口だと呆れた。

 香りは驚きつつも、また前と同じ少女のような瞳を凪砂に向けた。

「……あ、うん! うん! もちろんです! どんなジャンルがいい? ミステリー? ファンタジー? 現代物? 歴史物? 恋愛? あ、でもでも細かく言うともっと色々あるんだけど……」

 凪砂は堪えきれず、くすりと笑みを漏らした。

「……本当に本が好きなんだな」

 凪砂が言うと、香りは恥ずかしそうに俯いた。

「あ……すみません。私、また」

「……本。よく分からないから、あなたが選んで」

「……じゃあ、ちょっと待っててくださいね」

 彼女は少し考え込んで、そして花のような笑顔で凪砂を見た。

「そうだ! あれとかはどうでしょう?」

 香りが凪砂に差し出してきたのは、小学校の図書館によく置いてあるような動物図鑑だった。

 凪砂はその表紙を見て固まった。

「……もしかして、馬鹿にしてる?」

 凪砂は眉を寄せて香りを見る。それともこれは、香りなりの冗談なのだろうか。

「え!? し、してません! これ、最近見る機会があって見直してみたんですけど、すごく面白かったから。それに、動物の勉強にもなるし……あ、ほらこれとか」

 すると、香りは慌てたように鳥がたくさん載っているページを見せてきた。

「烏とか鳩とかすぐ近くにいる生き物なのに、習性とか意外と知らないから」

 香りの差し出してきたページには、烏が載っていた。凪砂が最近飼い始めた烏のノワールによく似ている。

 ノワールは、頭が良くて可愛くて、凪砂にとってかけがえのない大切な家族だ。

 これまで烏なんて鬱陶しいとしか思わなかったが、雨音がノワールを拾ったことをきっかけに、世界が変わった。少しだけ好きなものが増えた気がする。

 黙り込んだ凪砂に、香りは気を悪くしたと勘違いしたのか、サッと図鑑を閉じた。

 そして、我に返ったように真顔で「……ごめんなさい。あとでちゃんと探しておくから、少しだけ時間をください」と言う。

「……それ借りる」

「いえいえ、無理しないでいいですよ。私、ちゃんと探しますから。後でコンビニに持っていきます」

「……それでいい」

 凪砂はそのまま図鑑を借り、軽い足取りで家路に着いた。

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