第50話


 蛇女は、話しながら泣き崩れた。

「――あのときからずっと、私は先輩だけを見てきたのに」

「……山梨」

 凪砂はどうしたらいいのか困惑したように、蛇女の名前を呼ぶ。

「ねえ、先輩。教えてください。……私のこと、覚えてた?」

 蛇女が訊ねると、鬼人は気まずそうに目を逸らした。黙り込んだ鬼人を見て、蛇女は寂しげに笑う。

「……すまない」

「……先輩。どうして死んじゃったの? どうして生きることを諦めちゃったの? やってないならやってないって、最後まで首を振ってくださいよ。否定してくださいよ……」

 蛇女の声が悲しげに揺れる。

「控訴しないなんて、どうして? どうして死刑を受け入れたの? 先輩はなにもやっていないのに」

 その声にはもう怒りの感情はなく、ただ悲しみと悔しさだけが溢れていた。

「……すまない」

 鬼人が呟く。

「……なんで謝るの? 私は謝ってほしくてここにきたんじゃない」

 蛇女は悲しみに満ちた瞳で鬼人を見る。

「ほしかったのはそんな言葉じゃないの……」

 会いたかっただとかありがとうだとか、そんな贅沢な言葉を望んでいたわけではなかった。

「せめて……私の存在を認めてくれるような言葉がほしかった……」

 蛇女の言葉に、鬼人が言った。

「疲れたんだ。どうせ外に出ても、俺に居場所はないから」

「……そっか。本当に、私のことなんて眼中になかったんですね。私はずっと、あなたを待っていたのに」

 蛇女は乾いた笑みを浮かべて言った。その瞳に、ひどく動揺の色を見せたのはカラクリだった。

「あのときだって……」

「あのとき?」

「バイトの初日。さすがに覚えててくれてるなんて思ってなかったけど……ちょっと期待してたから、落ち込んだんですよ」

 蛇女の声は震えていた。

 蛇女が鬼人に向ける視線は、猫娘が鬼人を見つめるときと同じ色をしていた。

 猫娘に向けられていた剣のある眼差しは既になく、蛇女は泣きじゃくっている。

「俺はそんな人間じゃない。誰かに好かれていいような人間じゃないんだ。人を殺したんだから」

「嘘よ! 先輩はそんなことしない! 真実なんて知らないけど、絶対に先輩がしてないことだけは分かるの!」

「違う。殺したんだ……俺は」

 鬼人は悪夢にうなされるように、何度も同じ言葉を呟いている。

「俺が殺した……俺はいろんな人の人生をぐちゃぐちゃにしたんだ。その罪は一生、死んでも消えない」

 猫娘を庇うように掴んでいた手が、どんどん緩んでいく。凪砂がまたどこかへ消えてしまう気がして、猫娘は咄嗟にその手を掴んだ。

「ねぇ、黒中さん……あなたはどうして、この船に乗ったの?」

 猫娘は、鬼人に訊ねる。

「私、全員の話を聞いて思ったんです。あなたはドラゴンの話の中でも、ピエロさんの話の中でも、とても優しい人だった。あなたは自分が救われたくてこの船に乗ったんじゃない。誰かを救いたくてこの船に乗ったんでしょう?」

 鬼人はゆっくりと猫娘を見下ろした。

「あなたの叶えたいことはなに?」

 優しく、ぐずる子供を諭すように訊ねる猫娘。

 鬼人は言葉を詰まらせた。

「俺は……」

「私は、あなたを助けたくてこの船に乗ったんです」

 鬼人は黙り込んだまま、微動だにしない。

 ――そのときだった。

「お兄ちゃん!」

 エントランスホールに、突然ドラゴンの声が響いた。

「……私ね、ノアを助けたかったの。お兄ちゃんが助けてくれたノアを、私は守れなかったから。今度こそちゃんと助けて、それでお兄ちゃんのところに帰してあげたかったの」

 いつの間にかエントランスホールには、ドラゴンだけでなく、ピエロやライオンたちが集まっていた。

 鬼人の瞳が揺れる。

「お前……まさか」

「雨音だよ、お兄ちゃん」

 ドラゴンが笑う。その笑顔に鬼人は固まったままで、その瞳から透明な雫が零れ落ちる。

「雨音……?」

「お兄ちゃん、私が死んだとき助けに来てくれたんだよね。ありがとう……ごめんね、私のせいでお兄ちゃんを犯罪者にしちゃった。ごめんね」

「なに、言ってるんだ……お前は被害者だ。俺が殺したんだよ。お前はなにも悪くない」

 鬼人は、ドラゴンの言葉を強く否定した。すると、ドラゴンの隣に佇んでいたピエロが鬼人に優しく話しかける。

「私も、雨音ちゃんと同じ思いだったよ。この船に乗ってから、凪砂くんが私のせいで犯罪者になってしまったことを知った。こんなことになるなら、お金なんて渡さなきゃ良かったよ。凪砂くん、本当にごめんなさい。私は息子だけじゃなく、あなたの命も奪ってしまった……」

「まさか……つや子さん……なの?」

 ピエロの優しい眼差しに、鬼人はその名前を呼ぶ。その声は震えていた。

「……違うよ。俺が勝手に裁判でいったんだ。金を貰っていたのは本当だから。あのときあの金があなたの家にあったなら、あなたは殺されなかったかもしれない」

 まるでエントランスホールが教会の懺悔室にでもなったかのようだった。

「雨音だってそうだ。俺が雨音にかかわらなければ

、あいつに目をつけられることもなかった。俺が殺したんだ……二人を」

 ピエロとドラゴンは困ったように顔を見合せた。

 猫娘は、鬼人の和服の袖を掴む。

「違う……違うよ。黒中さん……あなたはどうして、私たちのことを信用してくれないの?」

「え……」

 鬼人がピタリと固まる。

「皆、あなたを助けたいんです。あなたに会いたくて、あなたにお礼が言いたくて、今ここにいるんです。悪かったなんて言わないで。謝らないでください」

 猫娘が鬼人の頬に手を添えた。指の腹で、ゆっくりとその雫を拭ってやる。

「お兄ちゃん」

「凪砂くん」

 鬼人は、とうとう顔をくしゃくしゃにして泣き出した。

 猫娘は優しく鬼人を抱き締める。初めて触る鬼人の背中は、子供のように小さく頼りないものに思えた。

「私たちをどうか信じて」

 猫娘の言葉は、しんと鬼人の心に沈んでいった。

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