第48話・★


『回想・蛇女』


 蛇女――山梨月埜は鏡を覗き込み、前髪が崩れていないか確かめていた。そして身だしなみを整えると、鏡に向かってにっこりと笑った。

「――黒中くん、ちょっといい? 今日から新人が入るから」

「……はい」

 高校三年生の秋、学校の近くのコンビニでアルバイトをすることになった月埜。月埜が挨拶をするため、店長が従業員を呼び出す。同じシフトを担当する従業員として店の事務所に顔を出したその人は、明るめの髪で少し瞳を隠すように俯きがちに月埜を見た。

 少しつり目がちの双方の瞳が、月埜を見る。

「今日からお世話になります、山梨月埜です。よろしくお願いします……」

 月埜は店長に促され、茶髪の男――黒中凪砂に頭を下げて挨拶をした。

「……よろしく」

 ニコリともせず挨拶を返すと、凪砂はレジへ戻っていく。

「ああ、黒中くんはああいう子だから、気にしないでね。あの子に仕事のこと聞くのが怖かったら、僕とか他の人に聞いてくれればいいから。じゃ、今日からよろしくね、山梨さん」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 月埜は仕事中、こっそりと凪砂を目で追う。目が合ってもすぐに逸らされる。

 この様子だと、月埜のことは覚えていないようだ。

 内心ショックを受けながらも、それでも月埜は凪砂に気に入られたい一心で仕事を頑張った。

「あの、先輩!」

「……なに」

 鬱陶しそうに月埜を見る凪砂。

「発注ってどうやるんですか?」

「分からないなら俺がやるからいい。貸せ」

「あっ……」

 後日。

「先輩! レジの操作教えてください!」

「普通に打つだけ」

 さらに後日。

「先輩って彼女いるんですか?」

「…………」

 凪砂はなにを聞いても淡白だった。凪砂は辛うじて仕事の話には答えてくれるものの、プライベートの質問はいつもスルーだった。


 月埜は仕事が終わり家に着くと、勢いよくベッドにダイブした。顔を枕に埋めながら、月埜は小さくボヤいた。

「あぁー先輩手強すぎ。私、まったく脈ナシじゃん……。しかも、全然私のこと思い出してくれないし」

 月埜は窓の外、暗闇の中にぽっかりと浮かぶ月を見つめながら、凪砂と初めて会ったときのことを思い出していた。


 それは、二年前の三月。高校入試当日。

 その日、月埜は受験会場にもいかず、一人公園のベンチに座り込んでいた。

 その姿は、さながら再就職先を探すリストラされたサラリーマンだ。

「世の無職はこんな気持ちなのか……」

 深いため息は、まだ寒い三月の空に溶けていく。

 何気なく隣を見ると、男性が座っていた。その男性はコートのフードを被って顔を埋めるようにしながら、静かに目を瞑っている。

 思いの外綺麗に整った横顔に、月埜は思わず見惚れていた。

「……なに」

 男性は目を瞑ったまま口を開いた。月埜の視線に気づいていたらしい。

「あ……すみません」

 慌てて目を逸らし、俯く。恥ずかしさからか、顔が勝手に紅潮していくのが鏡を見なくてもわかった。

「……あんた、学生だろ。学校は?」

 先に沈黙を破ったのは、男性の方だった。男性は月埜の制服をちらりと見て言う。

「……今日は受験の日だから、学校は休み」

 小さく呟く。

「制服着てるってことは、受験じゃないの」

「……する予定だったけど……家に受験票忘れちゃったから」

「取りに戻れば?」

「間に合わないもん。この時間じゃ、すぐ乗れる電車もないし」

 月埜はマフラーに顔を埋めて涙を堪える。そして、強がるように言った。

「もういいの。別に、学校なんていきたくないし」

 男性は無言で立ち上がり、そのまま公園を出ていった。月埜は男性の背中を寂しげに見つめながら、もう一度深くため息をついた。

「……嘘だよ。頑張ったのに……ずっと勉強してきたのに……」

 月埜は泣きながら、親になんて言おうかと必死に言い訳を考えた。受験票を忘れて、受験すらできずに試験が終わってしまっただなんて、情けなさ過ぎて口が裂けても言えない。

 月埜の瞳から、ポロポロと涙が零れ落ちる。

「……馬鹿みたい」

 月埜は肩を揺らしながら、こんなことなら勉強なんてしなければ良かったと嘆いた。

 月埜は無造作に制服の袖で目元を拭った。きっともう、目は真っ赤になってしまっているのだろう。

「……おい」

 砂利を踏む足音が目の前で止まり、頭の上から声が聞こえた。

 涙で滲む視界のまま顔を上げると、先程の男性が戻ってきていた。

 月埜は呆けた顔で男性を見上げる。

「タクシー捕まえたから、それで一旦家に帰れ。タクシーでの往復なら、試験に間に合うだろ」

「で、でもタクシーに乗るお金なんて」

「金は渡してある。いいから早く行け」

 それだけ言うと、男性はスタスタと歩き去ってしまった。

「えっ!? ちょっと!?」

 月埜は困惑しながらも男性を見送り、公園の前に駐車しているタクシーを見た。

「あのお……」

 恐る恐るタクシーを覗くと、運転手の男性が身を乗り出して月埜に言った。

「お姉ちゃん! 早くしな! 受験票忘れたんだって? 絶対間に合わせてやるから! 早く家の場所教えて!」

「えっ! あっ……はい!」

 月埜はその迫力に気圧されるように、タクシーに乗り込んだ。

 その後、無事試験に間に合った月埜は、第一志望の高校に合格した。あの後、例の男性にお金と礼をしたくて何度もあの公園にいったが、とうとうあの男性の姿を見つけることはできなかった。

 

 月埜は三年間、朝早く家を出て、公園で少し時間を潰してから高校に行った。放課後も必ず公園に寄った。

「絶対会える。私たちが会えたのは、絶対運命だもの。諦めないもん……」

 なぜか、運命のように感じたのだ。またここで、あの人と必ず会える。疑う余地もなくそう思えた。

 そして高校三年生になった秋、ようやくその男性を見つけることができた。

 白いティーシャツにジーンズという少し薄着の格好。相変わらず明るい髪は少しだけ伸びていて、ほっそりした体付き。間違いない。あの男性だった。

 月埜は公園の前を歩いていくその男性に声をかけようとして、ふと足を止める。

 なんて言えばいいのだろう。

 ずっと探してましたなんていったら、気持ち悪いと嫌われてしまうかもしれない。

 なにか、きっかけがほしい。ごく自然に、あの男性と近づけるきっかけが……。

 月埜は声をかけずに男性を追いかけた。

 そして、公園のすぐ近くのコンビニでバイトをしていることを知った。家もそのすぐ近くのアパートの二階。同居家族はいないらしく、彼女の影もない。

 男性のバイト先に偶然を装っていけばいい。そうすれば絶対に怪しまれないだろう。そして、自然に仲良くなって、いつかあのことを話してお礼を言おう。

 そして、告白しよう――。

 月埜は弾む足取りで履歴書を買いにコンビニに入った。

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