第46話
手に力が入らない。涙が頬を流れていく。この不思議な箱船の中にも、死という概念はあるのだろうか。
猫娘は蛇女を見つめながら、この手にどう抗うかよりも、この場で、この姿で死んだらどうなるのだろう、ぼんやりとそんなことを考えた。
瞼が重く、とうとう開けていられなくなる。猫娘の手がだらりと垂れる。
「……ようやく思い出したみたいね。あーぁ、残念。あなたはやっぱり私に殺される運命なのよ」
「うん……め……い?」
「死んで償いなさい」
真っ暗な瞼の裏で響くのは、猫娘への恨み言。
「そう。運命。結局あんたは誰も救えず、こうやって死んでいくの」
蛇女が耳元で囁いたそのとき、遠くから声が聞こえた。
「――やめろっ!!」
朧気な意識の中で聞こえたその声に、猫娘は重い瞼を薄く開いた。しかし、猫娘の視界は既に白いベールに包まれていて、それが誰なのかはわからない。
突然響いた声に驚いた蛇女の手が首から離れ、狭まっていた気道に突然空気が入り込み、猫娘は体をくの字に折り曲げてむせ返った。そして、猫娘の体が力なくその場に崩れていく。
しかし、水の張った地面に打ち付けられる感覚はいつまでたってもやってこなかった。その代わりに、猫娘は全身で誰かの体温を感じていた。体を包み込む体温の正体が知りたくて、猫娘は震える手を動かした。
「……先輩……?」
猫娘はカラクリが助けにきてくれたのだと思ったが、カラクリは人形だ。肌は陶器。以前抱き締められたときのヒヤリとした感触が蘇る。
違う。この手は、カラクリではない。
「……大丈夫か?」
心配そうに聞こえてきたのは、やはりカラクリの声ではなかった。白く霞む視界の中で一瞬だけ見えたのは、角。その人は、咳き込む猫娘の背中を優しくさすってくれた。
次第に意識と視界がはっきりとしてきた。そして、ようやく抱きとめてくれた人の顔を確認して、驚きの声を上げる。
「鬼人……さん?」
猫娘を助けたのは、鬼人だった。
「どうして……」
「あんた、なに素直に殺されようとしてんの。自殺志願者だったわけ?」
鬼人の声は相変わらず冷たいが、猫娘を抱く手は柔らかく、温かい。この手を、猫娘は知っている。誰よりも優しく、困っている人を放っておけない、あの人の――紛れもない、凪砂の手だ。息はできるようになったのに、胸が詰まり、今度は違う意味の涙が込み上げてくる。
猫娘は震える唇をなんとか制御して訊ねた。
「黒中さん……ですか?」
鬼人は目を逸らす。
「……お前、馬鹿だろ。死ぬところだったんだぞ」鬼人の横顔は、どこか怒っているように見えた。
「黒中さんなんですよね? ……答えてください。お願い」
苦しい呼吸の中、猫娘は必死に鬼人の胸にしがみつく。
「…………そうだよ」
鬼人は目を逸らしたまま、小さく答えた。その瞬間、堰を切ったように涙がまた溢れ出す。
「本当に黒中さん? ……生きてるの?」
「……あぁ、生きてるよ」
「良かった。黒中さん……黒中さん。私、ずっとあなたに会いたかった……」
猫娘は鬼人に抱きつく。その体温を感じるように。その温もりを、その重みを確かめるように。
鬼人は、そんな猫娘に答えるようにその小さな体を抱く力をいっそう強め、蛇女を睨みつけた。
「……おい。なんでこの人を殺そうとした?」
蛇女は目を逸らし、なにも答えない。
「……お前、山梨だよな?」
鬼人の言葉に蛇女は目を見開き、瞬きもせずに鬼人を見た。
そして、
「……私のこと覚えていてくれたんですか、先輩」
鬼人はそれに答えることなく、険しい顔つきのまま蛇女を問い詰めていく。
「……なんでこんなことしたんだよ。この人がお前になにをしたっていうんだ」
鬼人の猫娘を庇う態度に、蛇女は悔しげに歯を噛み込む。そして、再び鬼人の腕の中の猫娘を睨んだ。
「……なによ。先輩こそ、どうしてこの女を庇うの? この人は先輩を裏切った神条香りなんですよ!」
蛇女は大きな声で喚き始めた。蛇女の叫び声が聞こえたのか、ようやくカラクリがやってきた。
「香りっ!」
カラクリは倒れた猫娘を見るやいなや、顔面蒼白で駆け寄ってきた。
「香り……?」
鬼人は猫娘から体を離しながら、驚いたように見下ろした。
猫娘は儚く消えていく鬼人の体温に、僅かな胸の痛みを覚える。
「おい! 香り! 大丈夫か!? 血が……なにがあったんだ!」
カラクリは猫娘の肩を豪快に揺する。
「あわわわっ……せ、先輩……私なら、大丈夫です」
猫娘はよろよろと起き上がり、カラクリに笑みを向ける。しかし、頭がズキリと響くように痛んで、猫娘は顔をしかめた。
「香り! しっかりしろ、香り!!」
「だ、大丈夫です」
一方、鬼人は蛇女を睨み、
「……裏切ったってなんだよ。俺とこの人はなんの関係もない、赤の他人だ」
鬼人の言葉に、猫娘は再び息が詰まった。
「関係ない……」
悲愴な表情の猫娘を、鬼人は戸惑うような眼差しで見つめた。カラクリが鬼人の言葉に賛同する。
「そうだ。香りは事件にはなんの関係もない!」
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