第45話


 

『――人を殺した』

 猫娘の耳の中で、何度も木霊する恨みの詰まった言葉。追い打ちをかけるように蛇女の口が動く。

「――死ねばいいと思ってたよ」

 ガシャンと、再び大きな音が聞こえてくる。とうとう船の倒壊が始まっていた。

「ずっと、ずっと、死ねばいいと思ってた。俺の代わりに死んでほしかったよ」

 蛇女のセリフに、猫娘は膝から崩れ落ちた。冷たい水が、猫娘の体をさらに冷やしていく。目の前の水面には、自分の情けない顔がうつっている。猫娘は自分の顔に嫌悪感が湧き、思わず目を逸らした。

「もしかして、まだ想われてるとでも思ってたの?」

 顔を上げると、すぐ目の前で蛇たちのいくつもの瞳が猫娘を捉えていた。

 蛇女の目には恨み、憎しみ、嫌悪の色が渦巻いている。蛇女に突き付けられた言葉を消化することができずに、猫娘は呆然とした。

 目の前の視界が暗くなっていく。運動したわけでもないのに、上手く呼吸ができない。

「有り得ないでしょ。残念だけど、自分を裏切った人間を好きでい続けられるほど、俺は愚か者じゃないよ。君はまだ、俺に幻想を抱いてたの?」

 こうなることは分かっていたはず。猫娘の瞳から、とめどなく涙が溢れ出す。

「……あ……の」

 猫娘は必死に言葉を探した。しかし、こういうときに限ってなんの言葉も浮かんでこない。

「わかったら、もう出ていってくれる? 目障りだから」

 蛇女はソファーの上で寝返りを打ち、猫娘に背中を向けた。

「……ま、待って。あなたの話は」

 猫娘は蛇女に食い下がる。けれど、ようやく出た声は蚊の鳴くような頼りない声だった。

「べつに話なんてない」

 蛇女は背中を向けたまま、あっさりと告げる。

「でも、ここにいるのは危ないです。この箱船、沈没しかけてるみたいなんです。船長室がやられていて……」

「べつにいいよ。どうせもう死んでるんだし。今さらね」

「……じゃあ、どうして私を呼んだの?」

 蛇女の視線に、猫娘は目を泳がせた。

「君、勘違いしているようだったから」

「勘違い……?」

「君の願いは俺なんでしょ? どう考えてもあの羽根男、俺たちを助ける気なんてなさそうだし。彷徨うとかなんとか言ってたけど、結局は箱船とともに沈める気なんだ。別にいいけどさ……でもまあ、最期にあんたの顔を見るなんて御免だってこと」

 蛇女が口を開く度、それは鋭い凶器のように容赦なく猫娘を切り裂き続けた。

「……消えろってことですか?」

 蛇女が猫娘を見る。

 猫娘は蛇女の視線を感じ、強く手を握りこんだ。

「あなたにそう言われることは、覚悟してました。でも、私はあなたを救いたい。そのためにこの箱船に乗ったから……。私にできることは、この船で真実を見つけて、願いを叶えることしか……」

 声を上ずらせながらも、猫娘は訴える。すると、蛇女は鼻で笑った。

「――じゃあ、今ここで死んでくれる?」

 その瞬間、心臓に釘が打たれたようだった。頭の中が真っ白になって、目の前が真っ黒になる。

「……え?」

「無理でしょ。分かったら、さっさと消えて。俺はここで一人で死ぬから。あのときと同じように、ね」

 蛇女は意味深に猫娘を見つめた。

「……私、そんなに……」

 心から死を願われるほど憎まれていたのかと、猫娘は自嘲の笑みを零した。もう、ときは戻らないことをひしひしと実感し、目を伏せる。

「…………分かりました」

 猫娘の反応が予想と違ったのか、蛇女は驚いたように振り向く。

「いつかこうなるだろうって、わかっていました。失われた命は戻ってこない。雨音ちゃんも、つや子さんも……そして、こんなことで許されるとは思ってません。でも、あなたが望んでいる願いなら、そうします。だって、私があなたを殺したんだから……」

 猫娘はドリンクが置かれたテーブルへ歩み寄り、ワインボトルを手に取った。そして、それを躊躇いなく地面に叩き付ける。

 バリンと大きな音を立ててワインボトルは割れ、鋭い破片が猫娘の腕や頬を掠めていく。赤い染みが、臙脂色の絨毯をさらに濃く染めあげた。

「……へぇ。本気?」

 蛇女は興奮気味に猫娘を見上げ、顔を歪ませて笑った。猫娘は目を瞑り、ボトルの破片を自身の首に突き付ける。何度も自殺を考えたのに、いざ死が目の前までやってくると、こうも怖気付くものなのだろうか。

 破片を握り込む手が震え、全身から汗が吹き出す。

 蛇女の視線を感じながら、息を吐く。強く押し付けた破片は、猫娘の首に赤い染みを作り、そこからポタポタと僅かに血が溢れ出した。ジンジンと胸が熱く、涙が込み上げる。

 猫娘が身動きを取れないまま、硬直していると、

「……気が変わった」

 黙って見つめていた蛇女が、やがて呆れたようにため息を零す。

 そして、ソファーから立ち上がり、猫娘に歩み寄った。

「そんなに怖いならいいよ、俺が殺してあげる。自分が殺したっていう人間に殺してもらえるなら、本望でしょ?」

 返事をする間もなく無理やり立たされると、蛇女の手が猫娘の首元に伸びる。

 そして、首が強く圧迫された。

「っぐ……」

 猫娘の手から、ボトルの破片が滑り落ちていく。薄く開いた瞳に映るのは、蛇女の歯を食いしばる姿だった。

「ずっと……憎くて憎くて仕方なかった。あんたなんかに出会わなければ……あんたさえいなければ」

 ずっと触れたかったその指は、強い力で猫娘の息の根を止めようとしてくる。蛇女から流れ込んでくる絶望に、強く締められている首よりも胸の方が張り裂けそうな気がした。

 目の縁にじわじわと涙が溜まっていく。苦しくて息ができない。

「死ね、死ね、死ね!!」

 脳裏によぎるのは、あの日見た凪砂の最期の瞬間の夢。蛇女が笑い出す。さらに強く首を絞められ、猫娘は蛇女の手に自分の手をかけた。しかし今の猫娘には、とても振りほどくだけの力はない。

 苦しさが涙となり、猫娘の頬をつたっていく。

「執行室で、監獄の中での彼の苦しみがわかる? たった一人で、誰にも助けを求められずにいた。そんな彼の手を、あんたは払い除けた! 彼をこの暗闇に落としてしまったのは、あんたよ!!」

 蛇女が憎々しげに吐き捨てる。

「彼……?」

 猫娘は混乱した。蛇女の言葉の意味が分からなかったのだ。彼とは、どういうことだろうか。

 猫娘の中に芽生えた小さな違和感が、どんどん膨らんでいく。口調も態度も仕草も、おかしいのではないか。蛇女の行動のすべてが凪砂とはかけ離れている。最初はあの事件が凪砂を変えてしまったのだと思ったが……。

 船に乗り込んだ初日、羽根男に一番先に突っかかっていった蛇女。凪砂はあんなふうにあからさまな態度をとるような人だったか。果たしてここまで変わってしまうものだろうか……。

 猫娘の微かな戸惑いの表情に、蛇女がにやりと笑った。

「凪砂先輩は寒い部屋の中で、出口のない部屋で、なにもできずにただ死を待っていた……。前は苦しむところを見られなかったからね。その泣き顔を見られて嬉しいよ……」

「あなたは……」

 違う、と猫娘は奥歯を噛む。記憶の中の凪砂は、こんなことをするような人ではなかった。

 蛇女が笑いながら、

「……今さら気付いてももう遅いよ」

 猫娘の心が騒ぎ出す。

「先輩が捕まる前に、もっと早くにこうしておくんだったわ」

「ぐっ!」

 猫娘が目を見開く。嘲笑うかのような蛇女の視線に、猫娘は背筋が凍った。

「あなたは……だ……れ?」

「そうすれば、彼は私のモノだったのに」

 蛇女の顔が歪む。猫娘の首を絞める力がいっそう強くなった。

「あなた……もしかして、あのとき……の」

 遠のく意識の中で蘇るのは、凪砂と話しているといつもチラついていた人影。コンビニで凪砂と仲良くなってから、香りに対する態度が急に変わった店員。

 凪砂と話していると必ず視界の端に映るその顔は、恐怖を覚えるほどの形相で香りを睨みつけていた。

 その口元が、ニヤリと笑う。不気味な笑みを浮かべたその人は紛れもなく凪砂の同僚――山梨月埜だった。

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