第49話 まみえる愚者たち
白刃が鋭く突き出され、容赦のない一撃が空を裂いた。
刃がひらめく度に、急所を狙った煌めきが襲いかかる。左、左、右、左、と、息つく暇を与えない。
ベラナはそれを、かろうじて躱しているに過ぎない。
普段であったなら、アリシアを相手にしても遅れを取ることはなかっただろう。
だが、老人の動きは明らかに精細を欠いていた。
太ももに刺さったままの短剣が、動きを緩慢なものにさせた。
頸動脈を切断しようとする一閃を、すんでのところで躱す。だがそれは──フェイントに過ぎない。
みぞおちに拳が突き刺さって、ベラナは息を詰まらせた。
そのまま足を払われ、冷たい大理石の床への抱擁を強制される。
トドメの一撃は無慈悲に、そして速やかに振り下ろされた。
「待て!」
叫びと血しぶきがあがろうとした刹那──キーレイケラスの、尊大な声が響いた。
男は氷のように冷え切った目で、足元の敗者を見下ろす。
「無様だな、ベラナ」
「──魔鈴か」
ベラナは苦々しげに吐き捨て、男は嘲笑で応じる。
「そうだ。偉大なる審問官、シュベールノが遺した魔鈴だ」
審問官、シュベールノ。
その名は、耳にまとわりつくような不快さを伴っていた。
シュベールノは、生涯に五百人以上の魔女を駆逐したとされる、暗黒時代を代表する審問官だ。
ただし──その多くは、えん罪……つまり、魔女ではなかったとされる。
密告のあった女性を、拷問、証拠のねつ造、尋問記録の改竄、あらゆる手段を用いて、魔女へと仕立て上げたのだ。
「魔鈴は、音を聞いた者の心を支配し、隷従させる。彼を偉大なる審問官たらしめたのは、この呪具の賜物だったわけだ」
「呆れたことだ。……暗黒時代の遺物を、まだ持っていたとはな」
ベラナは心底軽蔑したように、唾棄する。
「惜しむらくは、効果を発揮するのは一度だけということだ。貴様には使えん。だが──やりようなど、いくらでもある」
邪悪、としか表現しようのない表情を浮かべると、キーレイケラスはアリシアに目配せをした。
彼女は短剣の切っ先を、自身の喉元に向けた。その行動が指し示す意図は明らかだった。
キーレイケラスの嘲弄が続いた。
「懸命な判断をすることだ。この娘がここで死ねば、全責任を貴様が負うことになる」
「恥知らずめ!」
勝手すぎる論法に、ベラナは歯を軋ませる。
「私は審問官の中では慈悲深い方なのだがな。恥知らずは、仲間を見殺しにしようとしている貴様だろう? その強情が、この娘を危険にさらしているのだ」
キーレイケラスの表情からは、慈悲など微塵も感じ取れない。
「──さあ、白き魔女はどこにいる?」
「……」
「やれ」
短い命令の後、ゼンマイ仕掛けの人形のように、アリシアが動いた。鋭く研がれた切っ先を、白い柔らかい喉元へ運ぶ。
命令と意志が強く葛藤しているのだろう、短剣は細かく震えている。
「……待てっ! 話す!」
ベラナが苦渋に満ちた声をあげた。
その様に、キーレイケラスの隻眼に禍々しい光が灯り──一条の火線が走ったのは、その時だ。
短剣が、甲高い音と共に宙に飛んだ。
キーレイケラスが舌打ちと共に険しい目を向けた先には、銃を構えたアルヴィンと、エルシアの姿がある。
正確無比の射撃で、アルヴィンが短剣を弾き飛ばしたのである。
招かれざる客の出現に、処刑人らが一斉に抜剣した。
「動くなっ!」
白銀の包囲網が形作られる前に、鋭く叫ぶ。
手にした拳銃の照準を、キーレイケラスの額に合わせ、処刑人らを牽制する。
「一歩でも動けば上級審問官殿は、額に開いた穴から息をすることになるぞ。聞こえたなら剣を捨てろっ!」
戦いの攻守は目まぐるしく変わる。
だが、拳銃を向けられたキーレイケラスからは、いささかの動揺も見いだせない。
状況は、混迷を極めつつあった。
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