第5話 善意か悪意か

 診察室を出ると、待合の雰囲気は一変していた。

 十人ほどいた患者は誰もおらず、閑散かんさんとしている。


 警戒しながら診療所の外に出るのと、飛来したガラス瓶が足元で割れるのは、同時だった。

 アルヴィンは、素早く誰何すいかの視線を走らせる。


 診療所を、群衆が取り囲んでいた。

 彼らは口元を布で隠し、各々が角材や棍棒を手にしている。


「教会の犬が、先生に何をするつもりだ!」

「帰れ! 先生を傷つけたら許さんぞ!」


 なるほど、とアルヴィンは状況を理解した。

 ウルバノが懸念した通り、クリスティーを審問したことが貧民街の怒りに触れたらしい。

 巣をつついたことで、兵隊蟻へいたいありがでてきたわけだ。 


 罵詈ばりを浴びせかける群衆に、アルヴィンは怒鳴りかえす。


「魔女に気を許すな! 奴らは巧妙こうみょうな噓をつく」

「それがなんなんだ! 教会は俺たちを見捨てたじゃないか。貧しい俺らを助けてくれたのは、先生なんだ!」


 怒号を上げながら、じわり、と包囲網が狭まった。

 これが住民自らの意思による行動なのか、魔女に魅惑みわくされた結果の行動なのか、判断は難しい。

 確かなのは、このままでは私刑にあう、ということくらいか。


 審問官が一般市民に実力行使することは、固く禁じられていた。それも、審問官を縛る厄介な規則の一つだ。

 たとえ正当防衛であったとしても、市民に怪我をさせれば、即、破門される。

 それを知る狡猾こうかつな魔女は、魅惑した一般人を刺客しかくに差し向けることもある。

 ウルバノが機転を利かせて、市警察を呼んでくれればいいが……


 筋肉質の男が、棍棒を振り上げて吠える。

 それを合図に群衆が飛びかかろうとした、その時。


「おやめなさい!」


 りんとした声が響いた。

 その一喝いっかつが、その場にいた群衆の動きをピタリと止めた。


 振り返った先には……白衣を風になびかせながら、腕を組んで立つクリスティーの姿がある。


「私の診療所の前で、暴力沙汰なんて許さないわよ! その後、誰が手当すると思っているの!?」

「せ、先生! いや、俺たちはあんたを守るために……」


 悪徳商人の用心棒ぐらいしか就職先のなさそうな大男が、たじろぎながら弁明する。

 だが、クリスティーにひと睨みされると、途端に黙り込んだ。


「この人が憎たらしいのは事実だけど、暴力に訴えても何の解決にもならないわ。すぐに解散しなさい!」


 彼女の言葉には、絶大な効果があった。

 人々は蜘蛛くもの子を散らしたように、散り散りになって行く。

 とりあえず、群衆から私刑に遭う、という楽しからざる経験は回避できたようである。


 だが、安堵するにはまだ早い。

 アルヴィンは警戒を解かずに、女医を見る。


「こんなことで、僕に貸しを作ったつもりか?」

「あなたたちって、ほんと人の善意を素直に受け取らないのね。お礼の一つも言ったらどうなのかしら?」

「君の行動が、善意からとは思えないからだよ。何の裏がある?」

「私は忘れ物を思い出しただけよ。これは、あなたのお仲間の物でしょ?」


 クリスティーは白衣のポケットから何かを取り出すと、差し出した。てのひらに収まるほどの、小さな紙袋だ。

 中身をちらりと見て、アルヴィンは顔色を変えた。


「これを、どこで?」

「シュベールノの広場よ」


 それが彼女の言う善意の延長線上にあるものなのか、仕組まれた罠なのか。

 アルヴィンは咄嗟とっさに判断に迷った。


 そこに畳み掛けるように、彼女は微笑みを浮かべて言ったのだった。


「分かったでしょ? ここでは、あなたたちの方こそが悪なのよ。もう二度と来ないことね」

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