第4話 師弟相克つ

 ファン・ボクケイは師からの手合わせの誘いに、応じる返事をすると、道着の紐帯を締め直した。次いで、それまでの修練で乱れた黒髪を結わえ直し、視界を確保する。

 今、道場にはボクケイと師匠のリフ・ジョウカの他には、誰もいない。二人とも東方の民族・人種の血を濃く受け継ぎ、薄橙色の肌に黒みがちな髪の持ち主である。顔立ちは比較的目が小さくて細いものの、特にボクケイはこの地の人種との特徴がほどよく混ざり、涼しげな美男子然としている。

「審判はどうするのです?」

 ボクケイが尋ねるのへ、リフ・ジョウカは首を左右に振った。弟子と同じく束ねて結んだ髪は白と銀が入り交じったような色合いになっている。さらに言えば、長く生きた分という訳でもないが、師匠の方が長さもあり、髪の先端は腰近くまであった。

 道着の下の身体は共に痩身ながら均整の取れた体格で、筋肉を適度にまといつつ、柔軟さも維持している。

「そんなもの、不要であろう。決着は、己が誇りが敗北を認めたとき。これでよい」

 ジョウカは前屈みになり、袴のしわをぱたぱたと叩いて適当に伸ばしながら言った。続いて面を起こし、「ただし、時間は制限を設けよう。無制限だと、寄る年波にはきつい」と条件を提示した。

「かまいません。いくらにします?」

「三分で頼もうか。砂時計をひっくり返すのは、ボクケイ、おまえがやるか」

 道場にある砂時計は特別誂えで、紐を引くことでひっくり返せる。さらに、上下を逆さにすると同時に銅鑼が鳴り、砂が落ちきったところでもう一度銅鑼が鳴るというまさに試合のための計測器である。

「引き受けましょう」

 三メートルの距離を置いて、ボクケイとジョウカは対峙する。天気は今にも降り出しそうな曇り。これがもし晴れだと、格子窓から日が差し込んで、有利不利が生じる時間帯があるのだが、幸いにして今日は心配無用だ。

「ああ、あと、髪の毛を引っ張るのもなしにしてくれ。歳のせいか、抜けやすくなったみたいだ」

「いいですよ。それでは始めますか?」

 黙って首肯し、応じる意を表すジョウカ師匠。ボクケイも返礼した。

 両者、拳と手のひらを胸の前で合わせ、改めての目礼。それからボクケイは足元に置いていた太めの紐を手に取り、軽く引く。砂時計が返って銅鑼が轟音を鳴り響かせ、試合が始まる。

 紐を手放し、砂時計が正常に作動したかどうかの確認にほんの一瞬気を取られたボクケイは、師匠のこれまで見せなかった素早さに驚かされることになる。

 瞬時にして距離を潰し、みぞおちを狙って拳を打ち込んできた。構えが中途半端だったボクケイは最初の一発のみ食らって、あとは防ぐと冷静に距離を取り直した。が、ジョウカもぴたりと付いてくる。拳を上下に散らして打ち続ける。速さ重視で威力は落ちているが、それでもまともにもらっては危ない。さばきながら師匠の隙、あるいは疲れるのを待つ。

 程なくしてその作戦に光が射す。下段回し蹴りを織り交ぜてきたジョウカは、明らかに速さが落ちてきた。ボクケイは師匠の突きの一つを、十字に組んだ自らの両手首で受け止めるや、捉えに行った。打撃も得意なボクケイだが、その本領は極め技にある。そこそこの手練れが相手でも、掴みさえすれば瞬時にして折ったり、関節を外したりする技倆を身に付けていた。

 さすがに師匠にはそう簡単に行かぬと警戒を抱きつつ、技に入ろうとした。が、ジョウカはそれを読んでいた。あるいはボクケイの指から伝わる微かな動きを感じ取り、相手の狙っている技を察したのかもしれない。とにかく、師匠の対処は早かった。

 手首を極めに行こうとするボクケイの力、身体の向き、重心移動などをすべて利して、ボクケイの長身痩躯の身体をまるで羽のようにふわりと投げ飛ばしてみせた。

 やられた、と思ったボクケイだが、この一連の流れは何度か経験済み。

(師匠ならこのあと、私が膝立ちしたところへ側頭部への蹴りが来ることが最も多い。だが、そう予測して頭部を守りながら立とうとすると、脇の甘さを文字通り突かれる。ここは視野を遮る負の要素を排し、頭を敢えて餌とする)

 ボクケイの誘い水に乗って、師匠の蹴りが飛んできた。いつもなら間違いなく左足で蹴ってくるのが今回は右だったが、ボクケイは冷静に対応する。足を両手で絡め取ると引き込み、ジョウカを俯せに引きずり倒した。すかさず体重を前に掛け、師匠の左足首とふくらはぎをまとめて極めた。これで参ったを奪えぬときは、姿勢を変えて膝関節を――と次なる展開を思い描いたところで、「参った」の声が届く。それはいつもの師匠の声に比べて極めて弱々しく、敢えて表現するなら「マーイッ」というぐらいの小さな音量だった。

「もう終わりですか」

 力を抜いたその瞬間、ジョウカは身体を仰向けに戻し、同時に左、右とつま先で、軌道は短いが鋭い蹴りを繰り出した。目を狙うような危険な技で、練習試合でならまず出さないのが暗黙の了解である。

 が、ボクケイは落ち着いていた。師匠ならこうなることも想定済み。両腕で防御すると、相手の真意を確かめるための時間を作るべく、距離を取った。これがもし真剣勝負であったならば、依然として有利な位置関係にあるボクケイは離れることなく、そのまま相手を仕留めに掛かるところだ。

「おたわむれを。一体全体、どういうことです?」

「先に問わせてもらおう。何故なにゆえ、とどめを刺しに来なかったのか」

 仰向けで、足先をこちらに向けた姿勢のまま質問を投げ掛けてくる師のジョウカ。ボクケイは後頭部に片手を当て、「それは……」と答に窮する、と見せ掛けて、にこりと笑みを作った。

「すでに決着したも同然だからです」

「何と?」

「先生が本気のようだと判断したので、私も禁じ手を出しました」

「禁じ手とは、まさか」

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