第2話 美形の成り上がり者、罠に落ちる


             *           *


 ガス灯は偶然か作為故か、壊れて点っていなかった。闇に染まった町、そこから郊外へと至る夜道を、雲間から覗いた三日月がわずかに照らす。

 マルティン・ドロウンは股間を押さえていた。強烈な前蹴りのつま先を食らったのだ。石畳に膝を突きそうなと頃を、踏みとどまっている。しゃれた感じに数本垂らした前髪の向こう、額には脂汗がじわじわと浮き出ている。じきに玉になり、筋となって彼の二枚目の顔を濡らしていった。のみならず、悪寒に近い震えも来ている。

 状況は厳しい。辺りには“敵”以外、誰の姿も見当たらず、苦境を一人で打破せねばならない。齢三十にしてコーヒー及び紅茶の取引で大きく稼ぎ、世間では成り上がり者ながら成功者として認められ、女に困ることのない人生のレールに乗ったというのに、今晩はうら寂しい夜道を一人で出歩くという愚を犯してしまった。

 そんなことになったのは、“あの女”の口車に乗せられたせいである。

「あら」

 やや離れた石碑の物陰に身を隠していたドーラ・シュタイナーは、淡泊につぶやいた。狙った獲物に、下僕しもべが襲いかかる様を窺っていたのだが、当てが外れたという風に右側頭部辺りを掻き毟った。綺麗な金髪が、細くて節くれ立った指にいくらか絡まる。

「見た目は男前なのに、腕っ節はからきしなんだ?」

 頭を掻くのをやめると、気を取り直したように、まあいいわと呟く。

「肝心なのは玉を持っているかどうか。早いところ調べて」

「かしこまりました」

 ドーラの言葉を受けて動いたのは、マルティンを襲撃した男。姿勢が猫背気味であることに加え、丈の長い黒の外套をまとっているおかげで、体格は定かではないが、手足の長さは窺い知れた。被ったフードから垣間見える髪は白髪まじりの黒だが、顔立ちの方は若く、せいぜい二十代半ばといったところであろう。

 男は元々長い腕に細長い棒きれを持ち、充分すぎるリーチを活かしてマルティンの頭部や左右の肩口及び脇腹辺りを痛打していく。

 股間の鈍痛に加えてその棒きれによる痛みを堪えていたマルティンだが、目に一撃を食らいそうになって、のけぞった。この態勢だと、肉体のより弱い部分、みぞおちや喉、そして再度の股間に攻撃をもらいかねない。

 マルティンはしかし、ただのけぞったのではない、のけぞった動作を利して、懐から誤審のための武器を取り出した。右手に握ったそれは小弓銃と総称される物の一種だ。手のひら大に収まる小型の弩弓で、よい品になると十連射二十連射が可能だが、その分、矢も小さくなり殺傷能力は落ちる。マルティンが携帯したのは標準的な型で、一度装填すれば六発まで発射できる。相手を撃退できるかどうかは腕前次第だ。

「やはり持っていましたね」

 男が言った。少しばかり後退し、マルティンとの間は五メートルほどに開いた。

「最初に襲ったときに奪えたらよいなと考えていたが、うまく行かなかった」

 その台詞の途中でマルティンは一本、撃った。

 が、男は上半身を横に傾け、かわす。決して明るくはないこの状況にしては、余裕のある動作だった。

「これだけ距離が開いていて、あなた程度の腕前なら、かわせる。無駄はよしておくのが賢明ですよ」

「むざむざとやられるのは趣味に合わないんでね」

 ここに来てようやく痛みが若干収まり、声を出せたマルティン。呼吸に乱れは残るが、頭の方は生き残りのための策を練り始めるまでに血が巡ってきた。

「笑えますね。その言い方では、やられるのが前提のように聞こえる」

 実際に鼻で笑う男に対し、マルティンは逃げることなく、逆に一歩二歩と踏み出した。右腕を肩の高さに構え、狙いを定めつつ、距離を狭めようという狙いが見え見えだった。

「無駄だって言っているのに」

 呆れ声になり、距離を取り直す男。

「おまえも逃げ回るのなら、私を仕留められまい?」

 マルティンが無理をして作った笑みを添えて軽く挑発すると、相手は下がるのをやめた。

「やり方はあるんですが。そんなに早い死をお望みなら、叶えてあげましょうか」

 言うや否や、一転して踏み出す。その歩幅がさっきまでとは段違いに広い。あっというまに距離を詰める。しかもマルティンからすれば真正面からではなく、心持ち右寄りから斜めに入ってくる。敵の反撃が急なこともあって、小弓銃の狙いを定めにくい。

 だが、この展開はマルティンが想像した線の一つでもあった。むしろ、思惑通りと言ってもよい。問題は、敵の次なる一手に掛かっている。

「そんな銃くらい、弾き飛ばせば問題ないっ」

 果たして、敵の男は得物とする棒を振るって、マルティンの右手を狙ってきた。最初の一振りこそかわせたが、続く第二撃は当たった。手に痛みが走り、小弓銃が落ちる。

 ――と、ここまでマルティンの狙い通りだ。攻撃を食らって小弓銃を落としたと見せ掛けて、さにあらず。黒くて細いが丈夫な糸で、銃と手首をつないでおいた。懐から取り出す際に、密かに装着したのだ。

 ヨーヨーの要領を使うまでもなく、右手を軽く上に振ると、小弓銃はその手のひらに戻る。マルティンは敵に照準を合わせた。この近距離であれば、急所に当てられる!

「食らえ!」

 明るければ、相手の目が驚愕の気配に染まるのを目視できたろうに……マルティンはそんなことを思いながら、引き金を引く。

 しかし。

 その瞬間、マルティンが見た相手の目は、笑っていた。

 次の刹那、マルティンの右手を再度の痛みが襲う。それは最前とは比べものにならない、文字通りの激痛。

「? ――ぐあぁ」

 勝手に叫び声が口から飛び出る。痛みだけでなく、自身が目にした状況がすぐには信じられなかった。

 マルティンの右の手首から先が、ぷらんと垂れ下がっていた。

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