第16話

 とうとう月姫達が帰京する日まであと数日となった。

 最後の講義の後、国司館でお別れの宴が開かれた。

 それぞれの親も来て――僕の場合は養祖父母が来てくれて、僕達は詩の朗読を発表し、笛や琵琶、筝の演奏を披露した。


 楽器演奏の後、食事が振る舞われそれぞれが家族とくつろいでいる中、僕は先生のところへ一人で行った。

「おや顕成君、どうされたのだ?」

「先生にお話があります」

「私もあなたに話したい事があったから、ちょうど良かった」

「あ、伺います」

 しかし先生は僕の頭をポンポンと軽く叩いた。

「いや、顕成君の話を先に聞こう」

 僕は、少し迷ってから、口を開いた。

「あの、あの……」

 緊張して鼓動が喉の奥で鳴り響く。

 先生は優しく微笑み待ってくれている。

 僕は勇気を振り絞った。

「つっ、つっ、月姫と結婚させてください!」


 きっかけは光祐の一言だった。

「顕成、お前は月姫と結婚して一緒に京へ行けよ」

「またそんな冗談を」

「いや、本気で思ってる。前にさ、お前が出生の事で悩むのは贅沢だなんて言って悪かったな。お前の事心配で、俺、いろいろ考えたんだ。その優れた頭をこんな田舎でくすぶらせるの勿体無い。とは言え京は父親などの後見がないとどうしようもない世界なんだよな」

「だから婿入りして先生に後ろ盾になってもらえって事?」

「そう。男は妻がらなりってね」

「そんな理由で結婚だなんて……」

「問題ないだろ? お前、月姫好きなんだし」

「そんな事……」

 否定は、できなかった。

 そう。いつからか、僕は月姫を――


 先生は、驚いた顔のまましばらく黙っていた。

 北の方は「あら、まあ」と少し漏らして、先生を見つめる。

 先生の返事を待たずに僕は続けた。

「僕にとって月姫は唯一、心を許せる女«ひと»なんです。一生大切に心を尽くします!」

「まあ……何と言えばいいのか……」

 先生はやっと口を開き、顎に手を当てながら遠くを眺めた。

「あのお転婆な姫をあなたがそんな風に思ってくれていたとは……」

「あの、今すぐという事ではなく……今僕は親もいない頼りない立場ですので……。お許しいただければ僕も京に戻って大学寮に入り、懸命に励んでからそれなりの官位を得てから……」

「顕成君」

 先生は真顔で遮り、僕の目を凝視した。

 その表情を見たとたん察した。

 ああ、僕の願いは叶わない――

 僕は両手を下につき、俯いて床を見た。


「あなたは高貴な血を引いた方なのでは?」

「そ、そんなの僕は知りません」

「そうでないにしても、あなたは類稀な才能に溢れている。大学寮に入れば、恐らく難関な試験も突破し、文書生、文章得業生と進み、いずれ任官され文官として出世していく道も開けるだろう。だが、あなた自身も言われたように、非常に不安定なお立場だ」

「だ、だから……駄目だと言うのですか? 僕では月姫に釣り合いませんか?」

 ポトン、と両手の間に涙が一粒落ちた。

「釣り合わないのはうちの方だ。あなたの才能を生かして世に出ていくためには、もっと強い後見先が必要だ。もっと高貴な姫君との婚姻が」

「先生が後ろ盾になってくださらないのですか?」

 涙で声が震える。

「私は従五位程度の受領国司だよ。しかも帰京後しばらくは散位の身で、次の任国はいつになるか分からない。あなたを婿に迎えて支えてあげられるような力も地位もない」


 僕は絶望して何も話せなくなった。

 俯いた格好のまま、涙だけが次から次へと落ちてくる。

「私の話というのはね、顕成君。あなたの今後の事なのだが……」

「あなた」

 北の方が先生を制した。

 そして、僕の涙を柔らかい布で拭いてくれた。

「すみません、また後で改めて伺います……」

 そう告げて袖で顔を隠しながら退室した。


 ふらふらと誰もいない講義の間へ行き、がらんと空いたその真ん中で僕はがくんと膝から崩れ落ちた。

 なんて静寂だ。

 ここはいつも賑やかな場所だったのに、不思議な感じだ。

 学んだり、笑ったり、時には喧嘩したり――

 次の伊勢守が来たら、ここは他の用途で使用されるのだろう。

 もう僕もここにはもう来ないだろうな。


 先生が散位になるから後見できないという話は理解できた。

 僕はそれでもいいのに。

 後見先なんて二の次の話だ。

 ただ約束だけしてもらえるだけでも良かったのに。

 ただ僕は――


「顕成……?」

 名を呼ばれ、びくっとして振り返ると、夕陽を背に受けた月姫が立っていた。

 泣き腫らした顔を見られた。

 よりによって月姫に。

 月姫に――


 僕はまた袖で顔を隠して、国司館から走り去った。


 * * *


「顕成、どうして月姫達の見送りに行かなかったんだよ」

 養祖父母の邸に光祐が訪ねて来た。

「尹盛も忙しくて」

「一人で馬で来れるだろ。最近は講義の時もそうしてたくせに」

「……」

 黙って膝を抱える僕を見て、尹盛は眉を下げた。

「まあ、仕方ないか」

「うん」

「ごめん、俺がけしかけたから」

「いい」

 光祐は養祖母が持ってきてくれた菓子を黙って口に運んだ。

 

「そうだ、朗報」

「何?」

「俺、国府じゃなくて、斎宮寮で働く事になった」

「え? どう言う事?」

「実は先生……前伊勢守様に頼んでたんだ。不純な動機は隠してだけどな。門部だ。顕成も斎宮寮の薬部司で手伝いするんだろ?」

「うん。医生の養祖父も老齢だからね。医学には詳しくないけど」

「お前なら大丈夫だろ。とにかく、俺もこの近くに越してくるってこと」

「それが朗報か」

「そ、だから寂しくないだろ」

 にやっと笑う光祐。

「別に今も寂しくなんてないけど。乳母も乳兄妹も養祖母もいるし」

「友達は俺だけだろ」

 尹盛は僕の首に手をかける。

「痛いな。まあ、気楽な相手が近くにいるのは嬉しいかな」

「だろ?」

 実際、友の存在は大きい。

 いつまでも沈んでばかりはいられなかった。

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