第14話

「伊勢守、子供を探しているという女が参りました」

「通しなさい」

 僕は横にずれて座り直す。

 女性が入ってきて、先生の前の座に座りお辞儀をする。

 彼女は擦り切れた着物を着て髪は乱れ、憔悴しきった顔をしていた。

「姉の子が昨夜からいなくなってしまって……」


※ ※ ※


「え、それであの子達もう帰っちゃったの?」

 頬に墨を付けて月姫は口を尖らせた。

「叔母にあたる人が迎えに来たんだよ。急にいなくなって一晩中必死で捜していたらしい」

「でも、明るくなったらお母さん探してあげるって約束したのに」

「母親は亡くなったそうだから、亡骸を一緒に探す事になるけど、それもどうかと……」

「……そっか」

 考えるように遠くを眺める月姫。

 その頬に手を伸ばし触れかけたところで、はっとして手を引っ込める。

「何?」

「墨が付いてて」

「え?」

 すぐに月姫は両手で両頬を擦るが、墨は余計に広がってしまった。

「ぷっ」

 思わず吹き出してしまう。

「あらあら、姫様。なんて事」

 女房が来て月姫の顔を拭いている間、僕は文机の下にばら撒かれた紙を拾って揃えながらその文字を眺めた。

 紙いっぱいに伸び伸びと大きな書跡

 まるで月姫のおおらかな性格を表しているかのよう。


――はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに

(早く夜が明けて欲しいと思いながら座っていたら)

――鬼はやひと口に喰ひてけり

(鬼が来てあっという間に女をひと口で食べてしまった)


「これ物語?」

「在五物語の芥川」

「これが在五……」

 在五物語とは、今から百年程前に書かれた、在五が集とも伊勢物語とも言われる仮名物語だ。

 知られた物語だが、僕は読んだ事がなかった。

「鬼に喰われるだなんて恐ろしい話だね。夜中に抜け出した罰だからかな?」

「罰は一巻全部よ。鬼が出てくる段だからってわけじゃない。まあ、そうであっても別に怖くも何ともないけど」

「……君はそうだろうね」

 ぼそっと呟くと、女房が漏らすように笑った。

「確かに姫様には効きませんわね。しかし、芥川の段の鬼は、本物ではないようですけど」

「え? そうなの?」

 月姫と僕は同時に女房の顔を見る。

 女房は月姫の頬を拭いた布切れを畳みながら答えた。

「実話を元にした話だそうですからね。当時の后候補だった高子たかいこ様と在原業平様が駆け落ちされようとした時のお話だそうですよ」

「『女のえ得まじかりけるを』ってそんな高貴なお姫様の事だったんだ」

「ええ。それでお二人で京を出たのですが、高子様は途中で兄君様達に連れ戻されたそうです。鬼というのは、その兄君様達のことを指しているそうで」

 鬼に例えられるとは、よほど乱暴に引き離されたのかと想像して身震いする。

 手にしていた紙をめくり、他の段も読んでみる。

 ぱっと見た感じでは、他に鬼が出てくる段は見つからなかった。

「それでこの昔男は最後泣いてるんだ。業平様って他の段でもよく涙を流しているのよね。斎姫様は理想の男性だとおっしゃっていたけど、どこがいいのか分からない」

 斎姫様――?

 びくっとして月姫を見た。 

「あら、斎王様がそのような事を? まだ幼いのに」

「うん。しかも、業平様と斎王様の密通の話に憧れているだなんて言われてた」

「まあ、何ておませな斎王様ですこと」

 僕は恥ずかしくなって口をぎゅっと結び俯いた。

 今の斎王の当子様は、僕とは乳兄妹のような関係で、この秋に斎宮の内院に入られてからは近くに住む僕を度々呼び出し、同じような話をしてきたのだ。

 月姫は当子様の斎宮郡行の際、伊勢守様と一緒に国境までお迎えに行って斎宮まで同行していた。

 まさか彼女にまで在五物語の話をしていたとは思わなかった。

 物語に憧れていると口にするだけならまだいい。

 最近は和歌を習いたいから恋の歌の手本を書いて送れだの、僕の知人男性を紹介しろだの、いろいろと要求してくるようになり困っていたところだった。

 和歌云々はともかく、慎ましく祈りの日々を過ごすべき斎王様に恋愛相手を紹介する行為なんて処罰の対象になりかねない。

 互いの乳母である中将内侍には、当子様はまだ幼いから適当に相手してあげてと言われているが、実際そんな気にもならず、半ば無視している状態だった。


 ――まさか、月姫にまで同じ要求をしないよね?


 しかし、その数ヶ月後にそのまさかは的中する。

 ただ月姫は、当子様に言われた通りには対応しなかった。

「ごっこ遊びとは言え、兄上達なんて連れていけないじゃない? 本気にされても困るしさ」

 さすが賢い。

「だから顕成が来てよ」

 え……

 ああ、当子様と僕の関係を知らないのか。

 だから僕なら紹介してもいいと――僕なら本気にならないから――

 ……

「顕成?」

 月姫は目を丸くして僕の目を覗き込む。

 僕は目を逸らし、机にあった巻物を開いて読む振りをしながら、

「嫌だ」

とやっと答えた。

「文だけでも言いから」

「拝辞いたします」

 うやうやしく断ると、月姫は諦めて去って行った。

 僕はほうっとため息をつく。


 たいした話じゃない。

 月姫の言う通り、ごっこ遊びに付き合うだけだ。

 当子様のしつこさは僕もよく知っている。

 断ったとしてもなかなか諦めてくれず、何度も要求され、月姫もほとほと困っているのだろう。

 分かっていながらも、いいと言ってあげられなかった。

 何だろう、この胸の辺りにうずまく重い感情は――

 

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