第12話

「あの時の山寺じゃなくて、川の近くにあるお寺」

 月姫は振り返り、僕の手を引きながらそう答えた。

 川の近くの寺――?

 ぞっとして月姫の手を振り払う。

 その寺の裏側の川辺には、多くの亡くなった人が野ざらしにされていて、物の怪が出るという噂を聞いた事があったからだ。

「そんな所、いくら何でも嫌だ」

「物の怪の話でしょ? そんなのいないから大丈夫だってば。それを証明するために行くんだし」

「か、勝手に外に出たら尹盛に迷惑がかかる」

「じゃあ断っていけばいいのね――誰かいる?」

 月姫が声を張り上げると簀子縁の方から男の人の声で「はい」と答えるのが聞こえた。

「顕成と私、少し外出するからと、医師に伝えておいてもらえる?」

「ええっ? こんな夜中にです?」

 彼は顔をしかめて月姫と僕の顔を見る。

 至極当たり前の反応だと思う。

「そう。すぐ戻るから心配しないようにと付け加えてね。じゃあ、顕成、行こうか」

 月姫は早口でそう言うと、また僕の着物の袖をつかんで引っ張った。

 こうと決めたら最後、なかなか折れないのが月姫だ。

 僕も抵抗することは諦めて従うことにした。


 物の怪なんて僕もいないと思っていると言えば済む話なのかも知れない。

 でも――

 たまに見る悪夢の中に現れる鬼や物の怪。

 あれらも現実には絶対いないのだと思いきれたら、どんなに楽だろうか。

 二年前、強くなりたいと僕は尹盛に訴えたが、何も変わっていない。

 今も月姫より僕の方が弱虫のままだ。


「月姫は怖いものとかないの? 物の怪とかは怖くないのは知ってるけど」

 横に並んで歩きながら聞いてみた。

「うーん。父上と母上のお小言かな」

「そういう事じゃなくて。夜が怖いと思った事ないの?」

「ないわ。だってこんなに綺麗なのに怖いわけがないわよ」

 月姫はふいに両手を上に掲げて空を見上げる。

 確かに無数の星が瞬いていて綺麗だった。

「ね? 全然怖くないでしょ?」

 夜が怖いのも僕の方だった。

 闇が怖くて、灯台の灯りが消える前に眠ってしまうのが常だった。

 なのに時々悪夢を見る。

 そんな夜は震えながら夜が明けるのを待つ。

 こんなに美しい宝石のような光が輝く夜がある事も忘れて。


「顕成?」

「あ、うん。吸い込まれそうな位、綺麗な星空だね」

「でしょう。今日は月がないから特にね。朔の日さく*新月なのかな」

「いや二十六夜あたりのはずだけど、まだ出てないのかも」

 振り返って東の方角を確認すると、国府の丘で空の下側は見えなかった。

「ここからは見えないだけかも知れない」


 その時、坂の下から向かって吹いている風と共に、ヒイと甲高い不気味な音声が耳に届いた。

 思わず月姫と顔を見合わせる。

「きっと犬よね?」

 月姫はにっと笑ってそう言う。

「犬じゃないと思う」

 犬の遠吠えなら何度も聞いたことがある。だから明らかに違うものだと分かる。

 再度ヒイという声が坂の下――つまり目的地の寺の辺りから聞こえてきた。 

「犬じゃなく何か別の泣き声に聞こえる」

 やはり物の怪やあやかしの類では――と心の中で続けた。

 月姫が僕の右袖をぎゅっと掴む。その顔からは笑顔が消えていた。

「やっぱり行くのは止める?」

「ううん、確かめる」

「別に意地を張らなくても」

「そんなんじゃない!」

 怒ったように少し叫びながらも、また聞こえてきた声にビクッとして、僕の右腕に両手でしがみつく。

 その身体が少し震えているのを感じた。


 急に僕の中の恐怖心が去った。

 左手に持つ松明で道を照らし、坂を下りた。

 声はもう聞こえてこない。

 「着いたよ。これで満足?」

 そう、月姫に声をかけた時、また甲高い声がすぐ近くで響いた。

 二人とも何も言わずに声がした方へと向かう。寺の裏に回った所で立ち止まった。

 水が流れる音が聞こえる。

 そして何とも言えない臭気が漂う。

(これは死臭?)

 やはり噂どおり、ここらには――

 あえて松明は上げずに肩の後ろに回し、何も見ないで済むように目を細める。

「子供」

 月姫が僕の腕から離れて呟いた。

「え?」

 月姫が見つめる先に向き、目を凝らす。

 暗闇の中に二つの小さな影が立っていた。

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