はるきとれん

十森克彦

第1話

 はるきとれんは仲良し兄弟だ。一年生になってサッカークラブに入ったはるきは毎週、真新しいユニフォームを着て練習に行く。れんはそんなお兄ちゃんのことをとても格好よいとあこがれていたし、練習の度にママと一緒に応援に来て、一生懸命応援してくれるれんのことを、はるきはかわいい弟だと思っていた。

 はるきとれんは仲良しだが、よく喧嘩もする。大抵は小さなことがきっかけでどちらかが怒り出し、お互いが感情的になってしまって、もはや何をそんなに怒らなければならなかったのか分からなくなってしまうという経過をたどる。


 今日もやっぱり、はるきが読んでいた漫画を、横からのぞき込もうとしたれんに見せてやらなかったということが開戦のきっかけになった。

「なんだよ、ちょっとくらい見せてくれたっていいじゃないか。はるきの、けちんぼ」

「れんは絵本を見てたじゃないか。あっち行ってろよ」

 実際にはのぞき込んできたれんの頭がちょっと邪魔になってページが見えにくくなったため、れんに背を向けただけなのだが、けちんぼと言われたはるきには、れんが自分の「読書」を妨害する敵にしか思えなくなっている。

「これはおれが読もうと思ってた漫画だ。なんでも独り占めするなんてずるいぞ」

「れんこそ、いつも俺のものを横からとりやがって、じゃまばっかりしてるじゃないか」

「なんだと、このやろう」

 れんが実力行使に出た。手を伸ばし、はるきの持っている漫画をひっつかむ。はるきは奪われまいとして、漫画本を引っ張ったが、いかんせん、どちらも持ちが浅かった。はるきが表紙側を、れんが背表紙側をそれぞれ持って引っ張り合う形になってしまったために、豪快な音を立てて、漫画本は真二つに破れてしまった。

「あっ」

 二人は同時に叫び声を上げた。れんの手には背表紙とそれにくっついてきた三分の一くらいのページが、はるきの手には残りの三分の二くらいのページがそれぞれぶら下がっている。こうなるともう、お互いに引くに引けない。はるきが漫画本の残骸をれんに向かって投げつけた。それはあたかも中世ヨーロッパの、手袋を投げつけて決闘を申し込む作法のようだが、もちろん二人はそんなことには一切関わりない。れんが、投げつけられた漫画本を無視して自分の手元にある方の切れ端をはるきに投げ返し、つかみ合いが始まった。二人がまだ幼くて相手を効果的に攻撃する術を知らないからか、怒りに我を見失っているためにそれすら分からなくなっているのか、とにかく二人は互いのシャツをつかんでしきりに押したり引いたりするが、それ以上の動きにはならず、膠着状態のままで目だけは精一杯つりあげて、お互いのことをにらみつけている。


 また、やっとる。結衣は二人の子どもたちの様子を見ていて、小さなため息をついた。れんが持っていた絵本を放り出して漫画を読んでいるはるきに近づいたところから、こりゃあ、やるなと思っていた。二人の兄弟げんかのパターンはおおよそつかめているので、様子を見ていると大体予想がつく。まあ、喧嘩するほど仲が良いというし、こういうことを通してお互いの距離の取り方というか、付き合い方を学んでいくのだろうから、止めるつもりもない。ただ、後の処理は何かと大変だ。特に今回の様に、何かが壊れてしまうと、それをどう扱うかというところには知恵が必要になる。パパに頼んで修理をしてもらうか、仲直りのしるしとして新しいものを手に入れるか、それとも逆に、罰としてそれを取り上げてしまうか。譲らずに引っ張り合ったらこうなる、ということを覚えるためにもそのままというのがいいか。ただ、シリーズものなので、一巻だけ揃っていないというのは気持ちが悪い気もするし。

 二人はこう着状態のまま、しばらくにらみあっていたが、一瞬のすきをついたれんが、右手を襟元から離して、はるきに向かって振り下ろした。それはたまたま、はるきの頭に当たって、ぱちん、という鋭い音を立てた。驚いたのだろう、はるきがれんを突き飛ばし、

「れんなんて、いなくなってしまえ」

 と叫んだ。元気な男の子二人のことだから、お互いがけがをしない程度になら取っ組み合いもいいだろうし、少々汚い言葉を使ったっていい。度が過ぎた部分については後できっちり叱る。だけど、相手の存在を否定してしまうのはルール違反だ。それだけは言ってほしくない。結衣は考えた。


 れんが生まれた時のことを、結衣はよく覚えている。下の子にママの愛情を持っていかれるのでは、ということで上の子が赤ちゃん返りする、と聞いていた。つわりが結構重かったこともあり、妊娠中からはるきに関わってあげる頻度が減ってしまっていたので心配していたが、出産後初めて病院に連れてきてもらってカートに寝かされているれんを見たはるきは、小さな指先で恐る恐るその頬を触ってから、とびきりの笑顔を浮かべたものだ。


 きつく叱るということもできるだろうけれど、叱られるから、という動機ではなく、お互いを思っているから、という気持ちを大切にしてほしい。二人が自分で考え、感じられるようにしたい。そこで結衣は、はるきの言葉に乗ってみることにした。

「あれ、れんは、どこに行ったの?」

 目を丸くしてれんの立っている辺りを見回しながら、結衣は二人に近づいた。

「れんが急にいなくなっちゃった、どこ行ったの?」

 結衣が部屋中を見回しながら、真剣な表情で言うので、はるきもれんも呆気に取られ、結衣の顔を見上げた。

「おれはここにいるよ」

「れんはそこにいるよ」

 二人は声をそろえて訴えたが、結衣には全く見えないという演技を続ける。

「どこにいるのよ。全然見えないわ。返事をしてちょうだい。れん、れん」

 部屋の隅々を見て回り、押し入れを開け、隣の部屋までのぞき込んだ。結衣の後ろをはるきがついて歩き、

「いるって。ここにいるじゃないか」

 とれんのことを指さしながら口をとんがらせて訴えるが、結衣は首をかしげ続ける。れんの方は、はるきと一緒に

「ここにいるよ」

 と訴え続けていたが、だんだん不安になってきたようで、口をつぐんで呆然とし始めた。

「ふざけないでよ。どうしたんだよ、ママ」

 はるきは納得がいかない様で一生懸命言い募る。

「ふざけてなんか、いないわ。はるきが、れんなんていなくなっちゃえって言ったから、ママにはれんが見えなくなっちゃったみたい。どうしよう」

「おれのこと、見えなくなっちゃったの、ママ」

 れんは泣き出しそうな顔になっている。ごめんね。結衣は心の中でれんに詫びながら、ここは中途半端に投げ出しちゃだめだ、やりきらないと、と思った結衣は、腕組みをした上に険しい顔をして、はるきに向き直った。はるきははるきで、怪訝な顔を結衣に向けている。しかし、お兄ちゃんになったとは言っても、そこはまだ小学校一年生だ。結衣がいつまで経っても冗談よ、と言わないものだから、はるきの目にもやがて、あるかなきかの動揺が見られ始めた。

 一方、はるきと向き合っているため、結衣の背後で立っている格好になったれんが視界から消えている状況に、結衣はふと、本当にれんの姿が見えなくなり、れんの声が聞えなくなってしまったらどうしよう、と想像してしまった。れんにもう会えなくなったら、なんていう想像は、結衣の胸を締め付けるような、耐え難い痛みを予想外に引き起こした。そのなかば恐怖にも近い感情は、視界をにじませ、やがてもりあがってしずくとなってこぼれ始めた。演技をしていただけのはずなのに、切なくて悲しくて、止められなくなった。

 はるきの目にも、結衣のその様子は迫力をもって迫ったのだろう。

「ママ……」

 こらえきれなくなったはるきが顔をゆがめた。

「お、俺、れんのこといなくなっちゃえなんて、本当は思っていないよ。だから……」

 はるきの声はふるえて、今にもしゃくりあげそうになっている。

「どうしよう……どうしたらいいの」

 完全に降参、という形になった。よし。結衣はその様子を見て、ここからが大事だ、と気を取り直した。

「じゃあ、イエス様にお祈りしてみようよ。いつも、そうしているでしょう」

 二人は近くの教会学校に行っているので、何かあったらよくお祈りをしている。結衣はそれを持ち出した。はるきは小さくうなずくと、手を組んでお祈りを口にした。

「イエスさま、れんのこと、いなくなっちゃえ、なんて言ってしまいました。もう言いませんからママにれんが見えるようにしてください。れんがいなくなってしまわないようにしてください」

「あーめん」

 いつの間にかれんもはるきの横に来て、声を合わせていた。結衣はその声を合図にして、

「ゆうきの声が聞こえた。あ、ゆうきがいた。ママにもゆうきが見えたわ」

 と言いながら、れんとはるきを抱きしめた。

「ごめんな、ゆうき。いなくなっちゃえなんて言って」

「いいよ。おれもごめんな。はるきのけちんぼ、なんて言って」

「いいよ」

 しばらくそうやって抱きしめられた後、結衣の腕の中ではるきとゆうきは互いに仲直りの言葉を交わした。

「よかった、よかったよう」

 結衣はなんだか本当に二人を取り戻したような気持ちになっていて、今度は安心した涙を止めることができなくなった。


 結局、はるきの漫画本はパパに頼んでテープでくっつけてもらった。不格好だが、二人がとても大切な仲直りをした記念だ。それを見る度に、今回のことを思い出してくれたら、と考えたからだ。

 喉元過ぎれば、ではないが、翌日にはすっかり気を取り直した二人は、早速喧嘩を始めた。例によって、ゲーム機を貸すの貸さないの、というような内容だ。

「どうしていっつも俺の邪魔ばっかりするんだよ」

「ちょっとぐらい、いいじゃないか」

「お前なんかな……」

 言いかけたはるきが一瞬口をつぐみ、

「勝手にしろ」

 と言いながらゲーム機を渡し、ついでにこつん、と頭を小突くことは忘れなかった。

 やれやれだわ、と結衣は思った。


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