春「消えた男とポトフ」後編

 男は、仕込みを終えて休憩をしていた。


 市ヶ谷に小さな居酒屋を構えてもう七年近くなる。おかげさまで、どうにかこうにか軌道に乗った。

 それもこれも、とあるグルメ本で、星をひとつもらったおかげだ。肩書きのおかげで、男はそこそこ名の知れた料理人なっていた。おかげさまで、ランチ営業をしなくても、夜のお客様だけでなんとかやっていけるようになった。


 朝に豊洲に行って旬のものを買い込んで、昼のうちに下ごしらえをする。

 そのあと仮眠をとって、予約客の時間に合わせて営業始める。


 男の名前は、田戸蔵たどくらタケシ。この店のオーナーシェフだ。


 自分以外の店員はひとりだけ。ソムリエを目指している青年を雇っている。そして、酒のセレクトは好きにやってもらっている。下戸げこ田戸蔵たどくらタケシは、その青年とまかないの唐揚げ丼を食べていた。


 丁度ちょうど、まかないを食べ終わった時、カウンターテーブルに置いてあった携帯電話が鳴った。田戸蔵たどくらタケシはスマホ手に取り画面を見た。つい最近、アドレスに登録した、見覚えのある電話番号だった。


「もしもし」


 電話越しに、ほがらかな女性の声が聞こえる。


(お世話になっております。安楽庵あんらくあん 探偵事務所の丁番ちょうつがいですが、田戸蔵たどくら様の電話でよろしかったでしょうか)


「はい」


(おたずね人の件、調査が完了しましたので、ご都合の良い日にお越し願えますか?)


 聞いていた話よりも、随分と早い。今日は四月二十八日。日曜日だ。安楽庵あんらくあん 探偵事務所に行ったのは店の定休日の月曜日だったから、まだ一週間も経っていない。


「本人には、出会えたのですか?」


(はい。ですが、話しかけてはおりません。証拠写真はお撮りしております)


「では、私の事を、凸凹凸凹ピーーーには伝えていないと」


(はい。一応規則というか、なんや、お約束と言いますか……に考えたら、ちょっと非常識な行為にあたりますので……あ、でも、伝言はお伝えできますし、どうしてもとおっしゃるのなら連れ戻すことも可能です。

 ただ、その際は、五月二日までには、ご依頼いただきたいです。そうしないと、次は七月二十日までは待っていただかないと……)


「では、今から伺います。二時ごろには、着くと思いますので」


(そうですか? ではお待ちしております)


 田戸蔵たどくらタケシは、いら立ちながら電話を切ると、ハンガーにひっかかっていた上着をはぎとりながら、ソムリエを目指している青年に言付けをした。


「今日のお客様は、七時からだよな。それまでには戻ってくる」


「は? あ、はい……行ってらっしゃい」


 まかないを食べた食器を洗っている青年は、首をかしげながら、慌ただしく店を出る田戸蔵たどくらタケシの背中に声をかけた。



 田戸蔵たどくらタケシは、急ぎ足で市ヶ谷いちがやタ駅に行き、新宿しんじゅく線に乗り込んだ。初台はつだい駅を目指す為だ。

 安楽庵あんらくあん 探偵事務所は、京王けいおう新宿しんじゅく駅と、京王新線けいおうしんせん 初台はつだい駅の間にある。

 初めて行ったときは自宅から向かったので、京王新線けいおうしんせんへの乗り換えが面倒で、JR新宿しんじゅく駅から歩いて行った。だが、職場からなら、新宿しんじゅく線で初台はつだい駅まで行ってしまった方が早い。


 市ヶ谷いちがやの街は春の陽気につつまれていた。いささかか包まれてすぎていた。ひょっとしたら、今日は夏日、二十五度を超えているのかもしれない。

 田戸蔵たどくらタケシは、軽くひたいを手でぬぐい、上着を持ってきた事を後悔しながら、新宿しんじゅく線市ヶ谷いちがやえき線に繋がる下り階段を降りた。


 切符を買ってホームにつくと、幸運にも、笹塚行きの急行電車が到着する所だった。これなら、約束の二時よりもかなり早く着けそうだ。

 田戸蔵たどくらタケシは電車に乗って、ガラガラの車両のシートに座ると、大きなため息をついた。


 田戸蔵たどくらタケシは、いら立っていた。安楽庵あんらくあん 探偵事務所の丁番ちょうつがいコトリの、要領を得ない返答にいら立っていた。


 こちらは、人探しを依頼しているのだ。探している人物が見つかったのなら、依頼主が、つまり俺が、田戸蔵たどくらタケシが、凸凹凸凹ピーーーを探している事を伝えてくれればいいものを。


 俺は、凸凹凸凹ピーーーにお礼がしたいのだ。恩返しがしたいのだ、中学生の時、不良にいじめられていた俺を助けて、代わりに不良の標的になっていじめられるようになって、結果、引きこもりになった、凸凹凸凹ピーーーに謝りたいのだ。

 俺は、凸凹凸凹ピーーーに罪滅ぼしをしたいのだ。俺はようやくができるようになった。人を雇える余裕ができた。

 自分の身代わりに、ひきこもりになった凸凹凸凹ピーーーを、救い出せる身分になったのだ。


「次は初台はつだいぃ〜次は初台はつだいぃぃぃ〜」


 いら立っているときは、なにもかも苛々イライラしてくる。

 田戸蔵たどくらタケシは、わざとらしい節のついた、駅員のアナウンスに小さく舌打ちをすると、電車から足早に降りた。



 カランコロンカラン


 田戸蔵たどくらタケシが、占いの館 安楽椅子あんらくいすの看板を掲げた安楽庵あんらくあん探偵事務所のドアを押すと、ドアは喫茶店のような音をたてて開いた。

 ドアの先では、メイド服を着た店員が、丁寧に頭を下げて出迎えてくれていた。安楽庵あんらくあん探偵事務所の助手。丁番ちょうつがいコトリだった。


「いらっしゃいませ。おおきに」


 メイド服の店員は、関西弁でニコニコと接客してきた。丁番ちょうつがいコトリは、ちらりと壁にかかった時計を見た。


 二時十五分前だった。


 丁番ちょうつがいコトリは、ニコニコと言葉をつづけた。


「ちょっと早いですけど、ご案内します。見た感じ、色々とご質問もあられるみたいな感じやし」


「えぇ……まあ」


「では、こちらに」


 田戸蔵たどくらタケシのぶっきらぼうな返答に、丁番ちょうつがいコトリはニコニコを答えると、スタスタと歩き始めた。

 田戸蔵たどくらタケシは、丁番ちょうつがいコトリの後をついて行き、みっつのパーテーションで区切られた、占いの館の奥にあるドアの前で止まった。


 丁番ちょうつがいコトリは、ドアをノックした。


「コトリです。田戸蔵たどくら様がお見えになられました」


「了解。了解。了解」


 ドアの向こうから、珍妙な返答があった。珍妙な返答だったが、つややかでとても魅力的な声だった。


 ガチャリ


 丁番ちょうつがいコトリがドアをかけると、戸蔵たどくらタケシの目の前に、息を飲むほどの美人が立っていた。グレーのストライプのスーツに身を包み、腰まであろうかと言う黒い長髪をひっつめにして、銀の細フレームのメガネをかけていた。


 銀の細フレームのメガネの美人は、名刺を出した。


安楽庵あんらくあん探偵事務所、所長の安楽庵あんらくあんキコです」


 田戸蔵たどくらタケシは、名刺を受け取ると、冗談みたいな名前に目を疑った。名刺には、安楽庵あんらくあん 椅子いすと書いてあった。親のセンスを疑う。


「では、こちらに」


 田戸蔵たどくらタケシは、案内された応接椅子に座ると、正面に安楽庵あんらくあんキコが座った。田戸蔵たどくらタケシは、名刺をテーブルに置くと、改めて安楽庵あんらくあんキコの美貌びぼうに見入っていた。


 陶器のように白い肌に映える艶やかに長い黒髪。切れ長な瞳。銀の細フレームのメガネが乗った主張しない鼻に、同じく主張しない唇。そして最も驚いたのは、安楽庵あんらくあんキコは一切化粧をしていないことだった。スッピンだったのだ。スッピンにもかかわらず、目を疑うばかりの美貌だったのだ。


「コーヒーと紅茶、あと、お酢と緑茶がありますけど、どれがいいですか」


「じゃあ、緑茶で」


 田戸蔵たどくらタケシは、無難に緑茶を選ぶと、


「お酢はダメ。お酢以外。以外。以外」


と、安楽庵あんらくあんキコは珍妙かつ念入りにお酢以外をリクエストした。


かしこまりました」


 そう言って、丁番ちょうつがいコトリがニコニコしながら立ち去ると、安楽庵あんらくあんキコは、おもむろに写真をテーブルの上に置き、ぽつりとつぶやいた。


「こちらが、凸凹凸凹ピーーーさんです」


 テーブルに置かれた写真を見て、田戸蔵たどくらタケシは、目を疑った。写真には、少女と見紛みまがううほど可愛らしい少年ふたりが写っていた。


「こっちの、耳がトンガっていない方が、凸凹凸凹ピーーーさんです」


「はぁ?

 凸凹凸凹ピーーーは、俺と同い年だぞ! 今年で四十二だぞ!!

 この子は明らかにこどもじゃないか!!」


「そのとおり。これが現在の凸凹凸凹ピーーーさん。現在七歳。あっちの世界での名前は凸凹凸凹ピーーー


「いい加減してくれ!! この子供は誰だ! この金髪の少年が凸凹凸凹ピーーーだって? ふざけるのも大概たいがいにしろ!」


 田戸蔵たどくらタケシは、大声でまくしたてたが、安楽庵あんらくあんキコは、涼しい顔をしていた。一切表情を崩さず、涼しい顔で黙っていた。黙りこくっていた。


 安楽庵あんらくあんキコは、沈黙したままだった。

 田戸蔵たどくらタケシは、黙りこくった安楽庵あんらくあんキコに、沸々ふつふつと怒りを募らせていた。そして、考える限り最も差別的な、放送ができない単語を投げつけようとしたとき、


 ガチャリ


ドアを開けて、丁番ちょうつがいコトリがニコニコしながら入ってきた。


「なんやぁ? 先生。また説明を端折はしょり過ぎたんとちゃいます?」


 丁番ちょうつがいコトリは、ニコニコしながら三つの湯呑みを置いた。お酢の、むせ返るような鼻をつく匂いが、あたりに充満した。


 丁番ちょうつがいコトリは、むせ返るような鼻をつく匂いが立ち込めるお茶の置かれた席に座ると、ニコニコしながらしゃべり始めた。


「結論から申し上げます。凸凹凸凹ピーーーさんは、この世界では既にお亡くなりになられています」


「ちょっと待ってください!

 あなた前回、凸凹凸凹ピーーーは生きてるって言いましたよね!

 絶対に生きてるって言いましたよね!!」


 問い詰める田戸蔵たどくらタケシに、丁番ちょうつがいコトリは、ニコニコしながら言葉を返した。


「はい。ですから、あちらの世界で生きています。

 凸凹凸凹ピーーーさんは、二〇一二年四月二十五日、午前八時二十分二十秒に、こちらの世界で死亡しました。そして、あちらの世界になさっています。

この男の子は、凸凹凸凹ピーーーさんが転生した姿です」


 何を言ってるんだ? ちょっとなにいってるか、わからない。


 田戸蔵たどくらタケシが言葉を失い困惑していると、丁番ちょうつがいコトリは、ニコニコしながらオカルト雑誌を取り出した。

 見慣れたオカルト雑誌だった。なぜなら、田戸蔵たどくらタケシも購入したオカルト雑誌の春の増刊号だったからだ。


「わたくし共、安楽庵あんらくあん探偵事務所は、異世界転移された方を専門にお探しする探偵事務所です。

 そして、わたくし共、安楽庵あんらくあん探偵事務所の広告は、異世界転移された方をたずねてこられる方にしか見ることができません。

 田戸蔵たどくら様からは、既に依頼を承っておりますので、この雑誌の広告も、ほら、このとおり……」


 丁番ちょうつがいコトリは、ニコニコしながら付箋ふせんを付けたページを開いた。

 田戸蔵たどくらタケシは、そのページを食いいるように見た。四分の一ページの広告欄を見た。


『知らない「味」つくります。 −ビストロたくみ−』


 住所は同じだったが、ビル名の後ろに書かれた階数は、七階ではなく八階になっていた。


「とまあ、こんな感じで、この安楽庵あんらくあん探偵事務所の広告を見ることができるのは、異世界転移された方を尋ねてこられる方、先着一名様だけなんです。

 ですので、田戸蔵たどくら様がこの場所にたどり着けた時点で、尋ね人の生存、並びに異世界転移は確定しております」


「と言うことは、もし連れ戻すとしたら……」


「はい。このお子さんが、こちらの世界に来る事になります。

 調べたところ、凸凹凸凹ピーーーさんは、前世の記憶をお持ちのようですので、説得交渉を行うことも可能です。ですが……」


「この子は、この世界を救う。救う。救う。」


 安楽庵あんらくあんキコは、丁番ちょうつがいコトリの話に、いきなり割り込んできた。


日柱にっちゅう癸丑みずのえうし。冬の大地。泥のついた雪。汚い。でも辛抱強い。ついでに年齢よりずっと精神年齢高い。ぶははっ! そりゃあそう! 中身、中年! アラフォー! アラフォー!」


 安楽庵あんらくあんキコは、冷静に淀みなく、まるでキャラクターの設定資料を読み上げるかのように、凸凹凸凹ピーーーの人物評を行った。そしてとても失礼に、正体がアラフォーであることに爆笑した。


中心星ちゅうしんせい編印へんいん。破壊と想像。才能あふれるアウトロー。でもってバランス最強。全部持ってる。『木火土金水もっかどごんすい』五行を自分で全部持ってる。この世界の救世主。勇者。勇者。勇者」


 安楽庵あんらくあんキコは、冷静に淀みなく、まるでキャラクターの設定資料を読み上げるかのように、凸凹凸凹ピーーーの人物評を行った。とても良い人物評を行った。


 そして、安楽庵あんらくあんキコは、満足そうにうなづいた。そして、自分の仕事は終わったと言わんばかりに、「むっふー」と息を吐きながら、得意げに胸を張った。スレンダーな胸を張った。


 満足そうな安楽庵あんらくあんキコの代わりに、丁番ちょうつがいコトリが話を引き継いだ。


凸凹凸凹ピーーーさんは、あっちの世界に呼ばれたんやと思います。

 あっちの世界は、調子に乗らない、人のせいにしない、本当に人の気持ちがわかる優しい人が、絶対必要やったんやと思います。

 せやから、春の土用どようで、たつがめっちゃ重なった時に、地面がすべって、あっちの世界に滑り落ちたんやと思います」


 田戸蔵たどくらタケシは理解できなかった。安楽庵あんらくあんキコの話は、初めから最後まで全て理解できなかった。

 丁番ちょうつがいコトリの話も、半分以上理解できなかった。


 ただ、凸凹凸凹ピーーーが、必要とされてある世界があると知らされて嬉しかった。とても嬉しかった。


「失礼ですけど、田戸蔵たどくら様の事も占わせて戴きました。お仕事順調そうでなによりです。

 お仕事が順調やから、凸凹凸凹ピーーーさん見つかったら雇ってあげようて思ったんですね。めっちゃ優しい。

 せやけど、その優しさは、ちょっと独りよがりやと思います。自分の代わりにいじめられた凸凹凸凹ピーーーさんの面倒みて、中学んときに見て見ぬ振りした自分の事、許してもらおうとしてるようにえます、でもそれって……」


偽善ぎぜん欺瞞ぎまん誤魔化ごまかし」


「ちょ! 先生、余計な事、言わんといてください! すみません、気ぃ悪うしましたよね!?」


 丁番ちょうつがいコトリが、ゆっくりと丁寧ていねいに、オブラートに包もうとした事を、安楽庵あんらくあんキコはアッサリと言ってのけた。

 そしてその言葉に、田戸蔵たどくらタケシは、バッサリと斬り付けられた。

 痛いところをバッサリやられた。だが、とてもスッキリした気分になった。


 スッキリした田戸蔵たどくらタケシは、訥々とつとつと話始めた。


「……偽善ぎぜん、その通りだと思います。俺は……単に自分を正当化して、過去の過ちを誤魔化したかっただけなんだと思います。店が軌道に乗って、ありがたい事に、ひとつ星をいただいて……調子に乗っていたんだと思います。ですが……欺瞞ぎまんでした」


「わかればいい!」


 安楽庵あんらくあんキコは、「むっふー」と息を吐きながら、得意げに胸を張った。スレンダーな胸を張った。


「先生は、黙っといてください!!」


「いえ、事実ですから。自分の事を危うく見失うところでした」

「わかればいい!」

「先生は、黙っといてください!!」


 田戸蔵たどくらタケシは、安楽庵あんらくあんキコの口を必死でふさごうとする丁番ちょうつがいコトリを見て、声を出して笑った。久々に声を出して笑った。



 ガチャリ


 田戸蔵たどくらタケシが、笑っていると、非常階段のドアが開いた。

 開いたドアの先には、大きな寸胴を持った、和食の調理白衣を着た大男が立っていた。


「お待たせしました」


 大男が木訥ぼくとつと一言だけこたえると、笑っていた田戸蔵たどくらタケシは、大きな声で驚いた。


「え!? 癸生川けぶかわタクミ? 三つ星シェフの??」


「あ、ご存知なんですね、タクミさんのこと」


 丁番ちょうつがいコトリが、ニコニコしながら質問すると、田戸蔵たどくらタケシは興奮気味に答えた。


「料理の世界で、しかも和食の世界で癸生川けぶかわタクミを知らない人なんていませんよ! 癸生川タクミがいる店が、日本一の和食料理店ですから! てことは……え? この店って??」


 田戸蔵たどくらタケシは、ずっと開かれたままになっている、オカルトの広告欄を、食い入るように見た。


『知らない「味」つくります。 −ビストロたくみ−』


 丁番ちょうつがいコトリは、ニコニコしながら答えた。


「はい。タクミさんのお店です。あっちの世界の凸凹凸凹ピーーーさんの、写真を撮ってくれたんもタクミさんです。あと、なんや、あっちの世界で食べられとる、料理も作ってくれたみたいです。一緒に食べましょう」


 話しながら、丁番ちょうつがいコトリは、癸生川けぶかわタクミと給餌きゅうじをはじめた。

 深皿に盛り付けられたそれは、テーブルに置かれると、たちどころに素敵な暖かな匂いを巻き上げた。

 料理はポトフだった。西洋料理だった。


 田戸蔵たどくらタケシはいささか落胆した。無理もない。なぜなら、癸生川けぶかわタクミは和食料理人だからだ。癸生川けぶかわタクミの芸術品、手の込んだ日本料理を期待してしまってしまったからだ。


 だが、ある程度は予想もできた。癸生川けぶかわタクミが開いている店の名前で想像できた。『ビストロたくみ』を名乗っているのだ。


 ビストロ。


 諸説はあるが、ロシア語で〝早く〟。

 ロシア兵が「早く料理や酒を出せ」と催促する際に「ビストロ!」と口にしていたのが由来と言われる。

 つまりビストロは、酒のアテを素早く出す、カジュアルな料理店兼バーなのだ。


 だが、そのポトフは違った。モノが違った。


 癸生川けぶかわタクミが作ったポトフは、明らかにモノが違った。癸生川けぶかわタクミの腕がなせる技……もあるだろうが、それだけではない。明らかにモノが違っていた。食材が違って観えた。知らない品種のじゃがいもが使われているようだった。


 田戸蔵たどくらタケシは、給餌された深皿のポトフを見た。澄んでいた。とても澄み切ったコンソメスープだった。澄んだスープの中に、ニンジンとタマネギとウインナー、そしてじゃがいもが素っ気なく入って、パセリがちらされていた。


 田戸蔵たどくらタケシは、銀のスプーンで澄んだスープを「すっ」とすくって、すこし息を吹きかけて頃合いに冷まして口をつけた。澄んでいた。コンソメスープは、とてもスッキリとした味で、それでいてはっきりとした、牛と野菜の滋味じみを感じた。ほっこりと感じた。


 田戸蔵たどくらタケシは、給餌された深皿のポトフのじゃがいもを、スプーンで切った。カジュアルに食べるから、食器はスプーンしか給餌されなかったから、マナーの通りスプーンで切った。

 じゃがいもは「にちゃっ」と切れた。よく煮込まれたじゃがいもでは考えられない「にちゃっ」とした手応えを感じた。


 田戸蔵たどくらタケシは、銀のスプーンで切ったじゃがいもを、すこし息を吹きかけて頃合いに冷まして口をつけた。濃厚だった。じゃがいもはとても濃厚で、「にちゃっ」とした歯触りだった。とてもスッキリとしたコンソメスープと、野菜とソーセージの出汁だしをまとった、とても濃厚なじゃがいもだった。明らかにじゃがいもが主役の料理だった。


「知らない「味」だ! そうか! このじゃがいもは、凸凹凸凹ピーーーが転生した世界の……」


 田戸蔵たどくらタケシの感想に、『ビストロたくみ』のオーナーシェフ、癸生川けぶかわタクミが答えた。


「そうです。異世界のじゃがいもです。食感が全く違う。煮込めば煮込むほど、柔らかくジューシーになる。そのうえ、とても栄養価が高い。素晴らしい食材です」


 『ビストロたくみ』のオーナーシェフ、癸生川けぶかわタクミのじゃがいも評に、田戸蔵たどくらタケシがつづいた。


「これはもうポトフではない、全然違う料理だと思います。澄んだスープと、ねっちょりとしたみごたえで、しっかりと濃厚な味のじゃがいも。

 それが喉元のどもとをすぎると、ポタージュスープを飲んでいるのかと錯覚するくらいだ。まさに『知らない味』だ。お見事です」


清濁せいだくあわせ持ち、かつ、混ざらない。お見事、お見事、お見事」


 安楽庵あんらくあんキコが感想を被せた。そしてふたりの感想に、『ビストロたくみ』のオーナーシェフ、癸生川けぶかわタクミが答えた。


「別に清濁せいだくを混ぜていただいて構いません。スープの中でじゃがいもを潰せば、程よいポタージュになります」


「ああ、それいいですねぇ! なんや、ひつまぶし? みたいや!

 最初は普通に食べて、次にワサビと海苔のりをちらして食べて、最後に出汁だし茶漬けで食べる。あっさり、こってり、そんでもってええ塩梅、一度で三回楽しめます。

 わたしだったら、そのあとお酢をかけて、一度で四回楽しめます!」


 丁番ちょうつがいコトリがニコニコしながら答えると、安楽庵あんらくあんキコは、げんなりした顔でつぶやいた。


「お酢はダメ。お酢以外。以外。以外」


 応接間の食卓に、笑顔の花が咲いた。


 ・

 ・

 ・


 田戸蔵たどくらタケシは、占いの館の入り口にの先にある、エレベーターのボタンを押した。

 占いの館の入り口では、丁番ちょうつがいコトリがニコニコして立っていた。


「では、お代は月曜日に振り込みますので」


「おおきに。おこころづけを戴ければ構いません。あ、あと、ほんまに、凸凹凸凹ピーーーさんへの伝言はいらんのです?」


 丁番ちょうつがいコトリがニコニコしながら尋ねると、田戸蔵たどくらタケシもニコニコしながら答えた。


「大丈夫です。凸凹凸凹ピーーーは、もう、異世界の住人です。俺が立ち入る場所はどこにもない」


「そうですか? そんなことない思うんやけど。きっと、凸凹凸凹ピーーーさんにの心の中には、田戸蔵たどくら様がいらっしゃると思います。自分が正しいと思う事をした。その誇りと一緒に」


「そう……ですね。そうあって欲しいです」


 ピーン


 古い作りのエレベーターが、きしみながらドアを開けた。田戸蔵たどくらタケシは、丁番ちょうつがいコトリに改めて礼を言った。


「本当に、ありがとうございました」


「おおきに……あ、最後に一言だけ!」


「なんでしょう」


「来年は、大変になると思いますけど、田戸蔵たどくら様のお店は大丈夫です。頑張ってください!」


「はぁ……ありがとうございます」


 来年はいろいろ大変? どう言う意味だろう。


 田戸蔵たどくらタケシは、首をひねりながら、エネベーターで一階まで降りて、首をひねりながら雑居ビルをでて、首をひねりながら京王新線けいおうしんせん 初台はつだい駅に向かって行った。

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『ビストロ匠』アラカルト かなたろー @kanataro_

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